もう一人の人物
不揃いに切られた琥珀色の短い髪が枕に向かって垂直に垂れている様を見ながら、自分の失態を悔やむ。
決定的な言葉は、隣で不思議そうにアイザックを見上げている女にもしっかりと届いたことだろう。
ウィレンツィア王国で侍女にこの子を託された時に事実を確認しなかったアイザックにも不備はあったが、あの切羽詰まった状況でこの見た目では王子と勘違いしても仕方がなかった。
だが現在一番の問題はそこではない。アイザックの不用意な発言を女に聞かれてしまったことだ。
――ドンッ。
アイザックがどう言い訳をしようかと口を開きかけたその時、言い訳を考える間も与えず更に予想外の出来事が起こった。今いる部屋の隣で、何か重い物が落ちたような音が響いたのだ。
瞬時に鞘から剣を抜き扉に向けて構える。ドルシグ帝国の追っ手かもしれないと推察したアイザックに緊張が走った。
だがドルシグ帝国からの追っ手だとすると、外で見張っていたゼアンが気付かないわけがない。考えたくはないが、ゼアンが一撃でやられた可能性も視野に入れる。
刹那にここまでを想定し、対処すべく剣を握ったその時だった。
『ユリス!!』
『なっ!』
アイザックの隣にいた女が、真っ青な顔で瞬時に立ち上がると部屋の外へと飛び出したのだ。
状況も何も分からないまま飛び出した女の予想外の行動に驚き、止めようとした手が一瞬出遅れる。アイザックの手を逃れた女はそのまま音がした隣の部屋に駆け込んだ。
『ユリス!大丈夫っ!』
女が誰かを呼んでいる声が聴こえるが、女には悪いが今は王女の安全が第一だ。アイザックは先ず現状の確認した。
王女が寝ている部屋から出て居間全体を見渡す。窓も扉も開けられた様子はなく、異常は特に見受けられない。目立たないところで見張るように指示していたゼアンが小屋の裏手から丘の麓を警戒している姿が小窓越しに見えた。
ゼアンに視線を送ると、直ぐにアイザックに気付いてこくりと一つ頷いた。外に異常なし、ということだ。
(とりあえず安全は確保されている。だが……)
アイザックは念のため剣を構えたまま女が開けたドアに向かった。
『……もう一人いたのか』
そこには、床に倒れ込む寝間着姿の若い女がいた。先程部屋に駆け込んだ女が床に膝を付き、倒れた若い女を抱え上げようとしている。
アイザックはその部屋の中も見回して危険が無いと判断すると、剣を鞘に収め女達の所へ歩み寄った。
『失礼』
一応声を掛けて、寝間着姿の女をひょいと横抱きに抱え上げた。
若い女を心配していた方の女が驚いて床に膝を付いたままアイザックを見上げている。急に抱え上げられた若い女は、何が起こったのかも分からず身動き一つできずに固まり目を見開いていた。
アイザックは日々、騎士として市内の巡回や王城の警備、遠征先においては人探しや救助活動などで年齢や性別を問わず様々な人々と関わることがある。だからこそよく分かるのだが、今腕に抱いた若い女は十代後半か二十代前半といった年頃だろうに、まるで幼子の様に軽かった。その上その顔には生気が無く、目の下も落ち窪んでいる。頬骨が出るほど痩せ細り、腕や足も枝の様に細く今にも折れてしまいそうだった。
この若い女は、明らかに病人だった。それも、死期が近いのだろう。医学的知識が全くないアイザックにさえ分かる程、その顔に死相がはっきりと浮かんでいた。
この状態では寝返りもまともに打てないだろうにベッドから落ちたという事は、隣の部屋が騒がしく様子が気になって身を起こした際に床に落ちたのだろう。
『休んでいたところお騒がせして申し訳ない。私達の連れが急に高熱を出して、何処か休ませられる場所はないかと探していたところお宅を見つけました。どうか、少しだけでもこちらで休ませていただけないでしょうか』
この若い女の病気が何かしらの伝染病であるならば、王女の命に関わるためすぐさまここを去るべきだったが、そうではないだろうと判断する。感染する病気であれば看病していた女も何らかの対策を取っているだろうが、女は鼻や口を覆うことなく直接素手で若い女に触れていた。大きな外傷なども見当たらないので、おそらく内臓疾患などの病なのだろう。
アイザックが抱えた若い女の身体をベッドに横たえようとすると、若い女はアイザックの胸元の服をそっと掴んで引っ張った。何事かと思い動作を止めてその顔を覗き込むと、先程までとは異なりその目には僅かばかり生気が戻ったように感じられた。
『見ず知らずの方に対して申し訳ないのですが、私はこの通り、今では自分で自由に動くこともできない身です。不躾なお願いとは存じておりますが、どうかこのまま私を隣の部屋まで連れて行って、その体調を崩されている方に会わせてはもらえませんか』
『……』
若い女は見た目こそ病人そのものであるが、その話しぶりは意外にもしっかりしていた。
だがその口から語られた内容は、正直意外な申し出だった。なぜ、病人に会いたいと思うのだろうか。王女の熱が感染症からくる熱だった場合、病気が感染したらこの若い女は確実に死ぬだろう。それほどまでに免疫力が皆無だろうことは誰の目にも明らかだった。
『何を言っているのユリス!お連れの子は高熱なのよ。もしあなたにうつったりしたら……』
『大丈夫よ母さん。けれど……そうなのね。病人は高熱の子供なのね。……なら、尚更会いたいわ』
母と呼ばれた人物も同じことを考えていたのだろう。この若い女、ユリスという娘に熱がうつったらユリスの命が危険に晒される。またアイザックにも、ユリスを王女を会わせなければならない理由はなかった。
『なぜ、見ず知らずの病人に会いたいと思われるのです?』
問いかけられ、腕に抱かれたままのユリスがアイザックを見上げた。
『あなた様にもお分かりになるように、私は不治の病に侵されていてもう長くはありません。あぁ、安心してくださいね。私の病気は感染するものではありませんので』
心の中を見透かされたような気がしてアイザックが己を恥じていると、少し困ったように眉を寄せながらユリスが続けた。
『私は何年も闘病生活を余儀なくされてきました。でももう施す手がなくなってしまったんです。それならば、静かなところで最期を迎えたいと我儘を言ってここに住んでおります。訪ねてくる人もなく、ゆっくりと時が過ぎていく日々。付き合わせている母には申し訳ないけれど、痛みは有れど穏やかな最期です』
『そんなことっ!』
母親がその目に涙を浮かべながら首を振り否定する。子に先立たれることほど辛いことはないとよく聞くが、この母親とてそう感じているのだろう。
『そんな穏やかで平坦な最期の時に、あなたが現れた。隣の部屋には、病気の子供もいる。きっと、神様は最後に私に何か役割をお与えになったのだと思ったのです。無論、私には物語の中の登場人物のように熱を治す魔法が使える訳じゃない。……でも、祈ることはできる。誰かのために何かの役に立ってから、死にたいのです。母に迷惑ばかり掛けてきた私でも、最後に人の役に立てたと思って人生を終わらせたいのです』
先程ユリスを抱え上げようとして床に膝を付いたままだった母親が、床に手を付き嗚咽を堪えながら泣いていた。
ユリスがどのような病に侵されてどんな闘病生活を送っていたのか、アイザックには知る由もない。しかし、そんな病に侵され死期が近いながら最後に人の役に立ちたいと言われて尚、それを拒否することは憚られた。
『……分かりました。隣の部屋にお連れしましょう。ですが僅かな時間だけ、というのをご了承下さい。あなたの身体も、早く休めなければいけませんので』
アイザックの言葉に、ユリスは嬉しそうに微笑みらしきものを浮かべて応えた。その痩せこけた頬に僅かにあがる口角が、アイザックには痛々しく映った。
ユリスを抱えたままアイザックが再び隣の部屋に戻ると、部屋の中では先程と変わらずベッドの上で王女が苦しそうな息を吐いていた。
身を捩った拍子に落ちたのか、母親がその額に乗せたタオルが王女の顔の横に落ちている。アイザックの後から付いて来た母親もその様子に気付いたようで、扉の位置に立つアイザックを避けて慌てて部屋に入ると、タオルを冷たい水に再び浸してから額に乗せ直した。
アイザックは扉の位置に陣取り、そこから一歩も動かない。
(ここからでも王女の姿は見える。これでも約束は果たしたことになるだろう)
いくら本人の頼みとは言え、病人に病人を近付けさせるわけにはいかない。そのことが原因でユリスの死期が早まりでもしたら、アイザックの寝覚めも悪い。
その場から全く動かないアイザックにその意図を理解したようで、ユリスも何も言うことなく大人しくそこから王女の姿を見、そして腕の中で身動ぎして僅かに身体を起こした。
何をしているのかとアイザックが訝しがっていると、ユリスは徐に両手を組んで目を瞑った。先程言っていたように、王女の回復を祈っているようだ。
(少しでも、心安らかであればいいんだがな)
こんなことをしても病気は治ったりしない。だがこんなことでユリスの気持ちが満たされるのであれば、それだけでやる価値があることのように思えた。
祈りを捧げていたユリスがゆっくりと閉じていた目を開く。それを見届けてからアイザックは声をかけた。
『さあ、あなたも後は休みましょう。部屋に戻りますよ』
そのまま踵を返しユリスが寝ていた部屋に戻る。ベッドの上にユリスを降ろそうとすると、先程と同じように胸元の服が僅かに引っ張られた。
『なんですか?』
まだ何かあるのかとアイザックがユリスの顔を訝し気に覗き込んだ。
『ねぇ……あの子は、ウィレンツィア王国のアリスティア王女?』
思ってもみないところからの急な核心を突く発言に、アイザックは目を見開いて固まってしまった。
それを答えと取ったようだ。ユリスが目を細め悪戯っぽい笑みを浮かべた。
『大丈夫よ。私は何を聞いても話す相手なんていないもの。文字通り、この秘密は墓場まですぐにでも持っていけるわ』
先程までとは異なり、かなり砕けた話しぶりだ。本来、素はこうなのかもしれない。
アイザックは今この時までユリスの事を、死にかけの可哀そうな境遇の女だと思っていたのだが、その評価はこの後、一変することになったのだった。




