腕の中の真実
本来であれば一刻でも早くサンスタシア帝国の帝都に戻り、安全な場所で王子の身柄を保護したいところではあるが、こんなに高熱があってはそうも言っていられない。無理を強いることは危険だ。最悪死に至りかねない。
この発熱の原因は体調不良によるものとも考えられるが、それよりも、ショックなことが重なり心身に負担がかかり心と身体が拒絶反応を起こしている可能性もある。
そうなると下手に薬草や薬を与えることも危険だった。早急に医者に診せる必要があるだろう。
『ゼアン、先を急ぎたいところだがこれ以上の移動はこの子の身体に負担が掛かり過ぎる。場所を探して一旦身を隠そう』
『では、何処か休める場所を探して参ります』
ゼアンが手綱を引き、進行方向を変えて走り出す。アイザックは馬の歩調を緩め、王子を片手で抱え上げ出来るだけ揺れ伝わらないように留意しながら辺りを見回した。
この草原を北東に向けて駆ければサンスタシア帝国の帝都に辿り着くのだが、その方向は辺り一面草原が広がっている。
アイザックはその真後ろ、ゼアンが駆けて行った方向に視線を向けた。そこは地理的にはデダルス山脈の麓の地域であり、木々が立ち並んでいるのが見える。
東の山際からは朝日が昇り、上空の低い位置にある雲の隙間から金色の光の矢を放ち始めていた。
朝日に照らし出された草原は見る見る視界が開けていく。帝都とは逆方向だが少しでも身を隠せるよう、アイザックは木立を目指して馬を歩かせた。
今いる場所はサンスタシア領土内の南東の端になる。このまま南下していくと世界の尾根たるストレアル山脈に突き当たり、山越えを果たせば南の大国であるエダルシア王国に辿り着く。
エダルシア王国も今回の件では、ドルシグ帝国に寝首を掻かれている。それは西の大国オートレア王国とて同じだ。
(今後、サンスタシア帝国と他の二国は、どう動くのだろうか)
表面上はウィレンツィア王国自身がドルシグ帝国と協力関係にあると声明で発表しているので、ドルシグ帝国に攻め入るわけにもいかない。
(しかし、この王子の存在を明かせばどうだろうか?)
王子自らが、ドルシグ帝国にやられたのだと証言したのならば平和条約に則り、ドルシグ帝国を粛清することが出来るのではないだろうかと思われた。
(だが、しかし……)
アイザックとしてはドルシグ帝国を許せない気持ちと、叩きのめしてやりたい気持ちしかない。しかしそのために、この幼い王子を矢面に立たせるのはどうしても気が引けた。
自分の意志とは関係なく、国の都合で辛い立場に立たせることはしたくなかった。
この王子はおそらく、今が一番辛い時なのだ。それこそ、心身に不調をきたすほどに。
だからせめて、国の為に利用したり自分の意思で仇を討とうとする前に、辛いことを辛いと言い、悲しいことを悲しいと感じて涙を流す時間を与えてあげたかった。
そんなことを思っていると、前方からゼアンが馬を走らせて戻ってくるのが見えた。
『団長、この先に民家が一軒あります。外から中を窺った限り、家には女が一人で住んでいるようです。付近に集落も無いため、箝口令を敷く必要もなく最適かと』
『分かった。休ませてもらえないか交渉してみよう』
人の噂に戸は立てられないため、集落から外れた一軒家は正直とても助かる。帝国の騎士が来たという話を一人がしただけで、それがドルシグ帝国の耳に入るのは時間の問題なのだ。
ゆっくりと馬を歩かせ向かうと、その家は小高い丘の中腹にポツンと佇んでいた。その遥か後方には雄峰たるデダルス山脈が聳え立っている。周囲に他に家はなく静かな場所であり、雄大な景色を独り占めしながら過ごせる場所だった。
だが女が一人で住むのには不便な土地だ。南のエダルシア王国に下る街道はここより何キリルも先の平坦な場所を通っているので、基本的に旅人がこの辺を通ることはない。
周囲を見渡すと、この丘の遥か下の方にいくつかの家屋が集まった集落があるのが見えたが、買い物や病気の際にそこまで行かなければならないとなると生活する上では不便なように思われた。
『何ていうか、……大丈夫なのか?』
近付いてみると、遠目からは分からなかった小屋の粗さが見て取れるようになり、アイザックは一抹の不安を覚えた。
遠目からは普通の一軒家のようだったのだが、近付くにつれてそれは作業小屋のような簡素な造りであることが分かったのだ。小屋の壁面は所々材質の異なる木材で継ぎ足されており、木材の寸法が合っていないようで屋根と庇は所々飛び出したり引っ込んだりしていた。
色々とこの家に思うところはあるが、今は贅沢を言える立場ではない。馬をゼアンに託して小屋の前で待機させると、アイザックは王子を抱えたまま小屋の扉をノックした。
まだ朝早い時間ではあるが、ゼアンが室内に女の姿を確認しており起きて在宅していることは分かっている。しかし普通なら、他人が訪れてよい時間帯ではない。最悪不審者扱いされる懸念があったので、アイザックは敢えて王子を抱えたまま扉をノックした。病人を目の当たりにしても無下に追い払うようなら、諦めて他をあたった方が早い。
『……はいはい、どちら様?』
小屋の中からは優し気な女の声が聴こえてきた。
そして、ギギギと嫌な音を立てながら扉がゆっくりと開かれる。建付けが悪いその扉を押し開け現れたのは、四十代ぐらいの少しふくよかな女だった。
茶色の髪を後ろで一つに縛り、白いエプロンを身に着けている。朝食の支度をしていたのだろう。女の背後に見える室内のテーブルには、茶碗や皿などの食器が用意されているところだった。
(椀が一つ、皿も一つ。一人暮らしなのは間違いないな)
不審な点や警戒すべき事項がないか素早く周囲を観察する。見える範囲に脅威となるものは確認できず、とりあえずは大丈夫だろうと結論付けた。
だがアイザックが、自分ではなく何処か別のところを見ているのに気付いて、女は眉を顰めた。
『あの、何か御用でしたでしょうか』
何も言葉を発せず室内を覗うアイザックと、その後ろに馬と共に控えるゼアンを交互に見て、女が怪訝そうにアイザックを見上げていた。
職業柄どうしても人物観察をしてしまっていたアイザックは、慌てて表情を取り繕った。
『ああ、申し訳ない。我々はサンスタシア帝国の騎士なのですが、実は捜索願が出されていた子供を保護して帰る途中、熱を出してしまったのです。こちらで少し休ませていただけないかと思いまして』
ここは敢えて帝国の騎士であることを明かし、警戒心が薄れるようにする。素性がはっきりしている方が安心してもらえるだろう。
そして王子のことは探し人ということにしておいた。家出や迷子など、そうした子供の捜索依頼も年間何件かあるためこのいい訳が頭に浮かんできたのだ。一応筋は通っており、女も不審には思わないだろう。
だがサンスタシア帝国の騎士と聞いて、女は警戒心を解くより驚きそして慌てた。
『申し訳ありませんっ。帝国の騎士様に無礼な態度を……どうかお許しください』
体が半分に折れ曲がるぐらいに頭を下げ女が謝罪を述べる。その姿に申し訳なくなりながら、アイザックはできるだけ優しく声を掛けた。
『いえ、突然の訪問な上に勝手な申し出でこちらこそ申し訳ない。しかし、熱が高いのです。少しの間休ませてもらえるとありがたいのですが』
『もちろんです。こんなあばら家で申し訳ないのですが、如何様にもお使い下さい』
アイザックの優し気な表情と物言いに、女が下げていた頭を上げて安堵の表情を浮かべた。
しかしすぐに、その表情は一変する。アイザックが何者かに気を取られていた女が漸く腕の中の子供を見たのだ。そのぐったりとした状態を目にし、表情が一気に青褪めた。
『……っ、大変!早くこちらへ!!』
女は急いで小屋の中に入ると、室内扉の一つを開けてその中に入って行った。
その様子を見て、ゼアンに屋外の目立たない場所で見張りをするよう指示を出し、アイザックも女に続いて小屋の扉をくぐった。
小屋の中は外観からでは想像できない程、木のぬくもりに溢れる温かみのある空間だった。摘み取った野の花が所々に飾られ、壁にはそれらを乾燥させドライフラワーにした物も掛けられている。テーブルや椅子などには、手作りと分かるパッチワークのお揃いの布が掛けられていた。
そんな室内を一通り眺めてから女が入った部屋の扉をくぐると、そこはベッドと小さな机が置かれているだけの小さな部屋だった。女の寝室と思われるその部屋も、先程の部屋同様温かみに溢れていた。
アイザックが部屋に入ると、女はベッドのシーツを交換しているところだった。寝具が清潔なものと取り換え終わると、女がベッドを勧めてきたのでありがたく王子の身をそこに横たえる。
相変わらず王子は荒い息を繰り返しており、眉間に皺が寄る程顔を苦しそうに歪め、顔からは汗が滴り落ちていた。目に掛かりそうになっていた汗に濡れた前髪を除けてやろうと手を伸ばすと、額を掠めた手にその熱が伝わった。先程よりもまた熱が上がったようだ。
無理に帝都を目指していたら取り返しのつかないことになっていたかもしれないと、この選択をしたことに安堵する。だが一方で、ここでは医者に見せることが出来ないことに気付き、やはりこの選択は間違っていたのではないかと不安に駆られた。
アイザックが横たわる王子を見下ろしていると、一旦部屋を出た女が戻ってきた。その手にはタオルがたくさん握られており、それをベットの脇の机に置くとすぐまた部屋を出ていく。その忙しそうな姿を目の当たりにすると、こんなことを悩んでいられないことに思い至る。今はとにかく、やるべきこととやれることをするしかない。
『何か俺にも手伝えることはないだろうか』
アイザックの申し出に女は一瞬戸惑った表情を見せたが、直ぐに表情を引き締め早口で告げた。
『ではそこのお湯が沸いたらテーブルのボウルに入れて寝室に運んでください。私は井戸から冷たい水を汲んで来ますので』
女は指示を出すと調理台の隣にある勝手口から外へと出て行った。アイザックは指示されたとおり、お湯が沸くとそれをテーブルのボウルに移して寝室へと運ぶ。間もなく女が水の入った桶を抱えて室内戻ってきた。
『何かの病気なのですか?』
女は水の入った桶にタオルを沈めるとそれを固く絞り、王子の額にタオルを置いた。王子は急に冷たい物を額に乗せられたことで身体が僅かに跳ねたが、気持ちがいいのかその後は少し苦痛の表情が和らいでいる。
『分からない。サンスタシアに連れて帰る途中で急に熱を出したんだ』
アイザックの説明に頷きながら、女は次にお湯の方にタオルを沈めると同じように固く絞り、今度は王子の顔や腕などを拭き始めた。顔に付いた泥などの汚れが落ちると、やはり端整な顔立ちであることが見て取れた。
『あの、……騎士様。身体を拭いてあげたいので、出来ればその間、部屋の外に出ていていただけませんか?』
王子の顔と女の手際の良さを眺めていると、女がおずおずと声を掛けてきた。何故そんなことを言われるのか意味が分からず、アイザックはまじまじと女を見つめた。
『何か不都合でも?できればここで控えさせてもらいたいのだが』
女が王子と二人きりになったのを見計らって何らかの危害を加えるとは思えないが、用心に越したことはない。それにドルシグ帝国の追っ手が来ないとも限らないのだ。外ではゼアンも警戒しているが、ここで見張らせてもらいたいのが本音だった。
しかしアイザックの言葉に、女は俯いて何かを言い淀む。自分が騎士だから言いたいことを我慢し遠慮しているのだと思われた。
『何か問題があるのなら、はっきりとおっしゃっていただいて構いませんよ』
話しやすい様にと、できるだけ優しい表情と声色を心掛ける。そんなアイザックに、言いにくそうにしながらも女が小声で言葉を紡いだ。
『幼いとはいえ、この子は幼児ではありません。女の子が男性に裸を見られるのは嫌だと思うんです』
アイザックは一瞬、何を言われているのか分からなかった。
脳内で女の言葉を反芻する。女の子?何が?誰が――。
『っ!王女なのか!!』
眼下のベッドに横たわるその姿をもう一度見返す。
そして次の瞬間、アイザックはしまった、と思った。




