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黎明のウィレンツィア  作者: カワシマ キオ
第二章 八年前、始まりの日
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父と娘

 目的の扉の前で呼吸を整え、大きく深呼吸をする。

 別に走ってきたわけではないが、緊張と不安とでイリスの呼吸は乱れ、心臓はさっきから煩いぐらいに跳ねていた。

 一呼吸を置いてから、意を決して扉を軽くノックする。


「イリスです。入室しても宜しいでしょうか」


 言葉を発してから、しまったと思った。

 この部屋の中に父ではあるが自分達の隊長がいると認識していたせいで、思わず使い慣れている職務中の言葉遣いが出てしまったのだ。祖母を訪ねるのに使う文言ではなかったなと後悔していると、内側から静かに扉が開かれた。


「……父さん」

「遅かったじゃないか。さあ、アンナも待ちくたびれているよ」


 城の中だというのに、仕事の時に見せる軍総司令官であり隊長の顔ではないアイザックがそこに居た。

 職務中にそんな顔をするのを見たことがなかったので、イリスは一瞬思考が停止してしまっていた。



 アイザックは、明確に公私を分けてイリスに接していた。

 イリスにも、城内では父ではなくあくまでも軍総司令官でありインペリアルガードの隊長として接するように厳しく言い付けていた。

 イリスは女である上に他の者より実力があることで、騎士団内で良く思われてはいない。親子だから贔屓されていると他者が感じるような行動は、尚更避ける必要があった。

 そのため職務中にイリスとアイザックが接触することや会話を交わすことはほとんどない。あったとしても業務連絡のような会話を、上司と部下の立場で交わすだけだ。


 しかし一度(ひとたび)仕事を離れ家に帰ってきてからは、アイザックは仕事の時のようなそっけない態度を取ることはなく、本当に同一人物かと思うくらい普通の父親としてイリスに接していた。

 そして、騎士として軍服を身に纏い男性の格好が常になってからも、家に帰ってきた際は女性の格好をするように厳命し、イリスにも公私を分けるよう言いつけていた。


 しかしそれ以外は、アイザックはイリスに対して厳しい態度を取ることはなく、とても優しい父親だった。


 帝都に移り住んだ当初は、アイザックは騎士団で野営もあるため料理をした経験が皆無ではなかったが得意ではなかったようで、素材をそのまま焼いただけというような豪快な料理が食卓に並んでいた。

 そんな料理に驚きはしたものの、イリスは喜んで食事をしていたのを覚えている。

 アイザックが仕事で帰宅できない時は、近所に住んでいたレオンの家でイリスは世話になっていた。そしてその頃はイリスも幼く全く料理が出来なかったので、イリスはレオンの母親に料理の基礎を教えて貰っていた。

 そしてアイザックが泊りがけの仕事を終えて帰宅した日は、レオンと二人で剣の稽古を付けてもらって別れた後、父娘一緒に悪戦苦闘しながら食事を作って、その無骨な出来栄えの料理を笑いながら二人で食べるのがとても好きだった。

 

 普段家ではイリスに対して滅多に怒ることの無いアイザックだが、一度だけ、声を荒げたことがある。

 イリスが騎士になりたいと言った時だ。


 民を守る父の姿を見て、こんな風に人々を守る仕事に就きたいと思ったのも本当だ。しかし心の奥底にある本心は、そんな大層な志ではなかった。


 心の奥底ではずっと、このままではいけないという感情が渦巻いていた。

 この幸せな日々からは感じようのない、抑えきれないほどの憎悪、怒り、怨恨。その想いに心が押し潰されそうになっていたのだ。

 高熱を出して記憶を失くした辺りから感じているこの感情。帝都に移り住んでから剣を教えて欲しいと懇願したのも、その想いからだ。

 早く大きくなりたい。早く力を付けたい。早く、早く――。そんな想いばかりに心が囚われていた。


 ――何故……。


 いつも湧き上がるその疑問。

 でもその答えを考えることをイリスは当の昔に諦めていた。記憶を失くした自分では考えても答えが出ないことが分かりきっていたからだ。


 そんな怨嗟と葛藤を抱えながら騎士になりたいと言ったイリスの不安定な心の機微を見抜き、アイザックが一喝したのだ。『迷いは死につながる、半端な覚悟なら止めろ』と。

 しかしイリスが迷っているのは騎士になることではなく、自分のこの焦りはいったい何処から来るのか、ということだ。

 そのことに向き合うためにも、イリスはもう何回も訊ねたたことがある質問を、その時再びアイザックにぶつけた。


『熱で倒れる前、私はどんな子だったの?』


 熱は下がったが記憶を失くしたと気付いた時、直ぐに戻るだろうと言われた記憶が戻らなかった時。折に触れてイリスは記憶を失くす前の自分についてアイザックに問いかけていた。


 しかしその質問をすると必ず、アイザックは少しだけ困った顔をしながらその大きな手でイリスの頭を優しく撫で、いつも同じ言葉を紡ぐのだ。


『無理に思い出そうとすると、より症状が悪化するかもしれないってお医者さんが言っていただろう』


 繰り返される言葉に、イリスは悟ったのだ。これは聞いてはいけない質問なのだと。


 だからその後は極力その話題を避けていた。周囲にも記憶がないことを言ったりはしなかった。けれど、もともと辺境の地から帝都に移り住んだのだから知らないことがあっても不思議ではなく、何か言われたりすることはなかったし、記憶がなくても特段困ったりもしなかった。


 そうしてイリスの毎日は、表面上穏やかに過ぎていった。心の内に抱えた想いとは裏腹に――。


 しかし騎士になりたいのだと食い下がったその時、イリスは久しぶりにその話題に触れる。


『記憶が戻った時、それがどんな過去だったとしても、それに負けない力が欲しい』


 それはイリスの中では、心身共に強くなりたい、という決意表明のようなものだった。


 イリスは記憶を失くした頃に、同時に母親を亡くしている。

 記憶喪失が精神的なものからきているのだとしたら、そういう幼心に辛い経験をしたことが引き金になって記憶を失くしてしまったのではないかと自分なりに考えていた。

 だから母親の死など幼心に大きな衝撃を与えたであろう出来事も、全て受け入れ乗り越えるために心身共に強くなりたいと願ったのだ。


 だがイリスの言葉を聴いたアイザックはそういう意図からの言葉とは受け取らなかったようで、少しだけ寂しそうな笑顔を見せた。


『覚悟を決めるのは、こちらの方かもしれないな』


 今にして思えば、その言葉はウィレンツィア王国の生き残りの王族として強くなりたい、とイリスが決意を語ったとアイザックが捉えたのだと分かる。

 たとえイリスにその時過去の記憶がなかったとしても、潜在意識の中で感じていた怨嗟や責任感が、その言葉を言わせたとしても不思議ではなかった。


 アイザックがイリスに手を伸ばしかけたが、迷いがそのまま手に現れているように、その手は何も掴むことなく空を切り力なく垂れ下がった。

 その手は以前ように、イリスの頭を優しく撫でてはくれなかった。

 騎士になりたいと言ったイリスを子ども扱いしないでくれたのかもしれない。けれど自分で言いだしたのにも関わらず、そこに一抹の寂しさを感じてイリスは下を向いた。


 二人の間に長い沈黙が流れる。


 再び記憶がない事を口にした自分に非があるような気がして、罪悪感に苛まれる。


 厳しくも優しかった父が、今までの父ではなくなったこの時のやり取りを、イリスは今まで一度も忘れたことはなかった。


 




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