記憶の喪失
静まり返った部屋の中で、イリスは次に告げるべき言葉を迷っていた。
このことを話せば、不確かであるにも関わらずリュカやカインに微かな希望を持たせてしまうことは分かっていた。だが、もう黙っているわけにはいかなかった。
「はぁ……」
沈黙を破り、盛大な溜息をついてレオンがガシガシと頭を搔いた。
「俺も……そのことを確かめにイリスと話をしようと思ってきたんだが。先を越されたよ」
レオンの意外な発言に、イリスが目を見開く。
「レオン、何か気付いてたの?」
「ああ、記憶が無いとまでは思わなかったけれど、ちょっと気になることがあってな」
入室してきてからずっと扉の前にいたレオンがゆっくりと皆の方に歩み寄り、イリスの隣まで来るとその足を止めた。
「心配すんな。どんなことになろうとも、必ず護ってやる」
イリスの頭の上に、レオンの大きな掌が乗る。掌から伝わるぬくもりがゆっくりとイリスの頭から身体の中に広がり、不安に怯え切っていた心までも温めていくようだった。
不覚にも泣きそうになり、イリスは慌てて下を向く。視線の先には自分の足元が見えていたが、突如視界の外から手が伸びてくると、イリスの右手を伸びてきた両手が優しく包み込んだ。ロイだ。
「もちろん、俺も同じ気持ちだからね。三人でフラッデル隊なんだから忘れないでよね。何かあって一人でも欠けたら大変だって、ここ数日で思い知ったばかりなんだ」
顔をあげると、片目を瞑る仕草をするロイと目が合う。こんな深刻な話をしている時でも変わらないロイの優しさに、イリスの涙は引っ込んでいた。
「うん……二人共、ありがとう」
レオンとロイを交互に見て礼を述べる。二人とも、当然とばかりにイリスに頷きを返していた。
「なぁ!ちょっと待ってもらっていいか!」
とてもいい雰囲気で話が纏まったところだったのだが、リュカの大声がその場に割って入る。
いつもなら思ったことを直ぐ口から出すとカインに止められるのだが、今回はカインもリュカ同様聞きたいことがあるようで、リュカの言動を止めることなくイリス達をじっと見つめていた。
「なんか三人で話が完結してるとこ申し訳ないんだけど、イリスは八年前以前の記憶が無いってことでいいんだよな?」
「……そうだね」
「どうして記憶が無いんだ?」
当然の疑問をぶつけられ、イリスが困ったように微笑む。何でも話すつもりで意を決して告白したイリスだったが、これに関してだけは憶測でしか語れないのだ。
「八年前に病気に罹って高熱を出したんだけど、熱が下がったらそれ以前の記憶が全く思い出せなくなっていたの。医者の話だと、その高熱が原因じゃないかって」
皆が痛ましいものを見るような視線をイリスに向けてくる。だがイリスとしては、記憶が無い事で窮した経験というのもそんなになく、特に困ってはいなかった。
「その時はそのうち記憶は戻るだろうって言われていたんだけど、結局数週間療養しても記憶は戻らなくて。長期記憶障害ではないかとも言われたんだ。……まぁ結局、今に至るまで八年前以前の記憶は思い出せていないんだけれど」
イリスの話に皆が静まり返る中、「はい」と礼儀正しくカインが挙手をした。
「イリスは記憶が無いっていうけど、八年前より以前のことって、どの程度憶えてないの?」
「全く憶えてないよ。八年前より以前のことは、何も憶えていないの」
「名前は?『イリス』っていう自分の名前とかも憶えていなかったの?」
「!」
言われて初めて、その事実に気付く。記憶喪失であっても、名前は憶えていたのだろうか。それとも、名前すら憶えていなくて「イリス」だと思い込まされたのだろうか。
「分からな、い……」
「……ふーん。じゃあさ、本当は『イリス』じゃないかもしれないね」
鋭い眼差しでカインがイリスを見つめる。
カインの言いたいことは分かる。八年前以前の記憶が無いという事実を皆に知らせれば、自ずとその方向に考えるだろうことをイリスは予想していた。
「カインは私が、ウィレンツィア王国の生き残りの王族かもしれないって考えているんでしょう?」
「うん。ごめんね」
すっと、そんな気はしていた。
国民台帳を閲覧していて生き残りの王族の容姿の話になった時、何かに気付いたリュカが喋ろうとしたのをカインがわざわざ口を塞いで止めていた。きっとあの時にはすでにカインの中で、もしかしたらイリスが探している人物かもしれないという予感があったのだろう。
(カインのことだから、もっと前からそう考えていたのかもしれない)
年齢に見合わず聡い子だ。きっと最初から、何か思うところがあったに違いない。
「ちょ、待ってもらっていいか?たしかにイリスは金色の髪、翡翠色の瞳だけど、十六なんだろ?」
「それこそ、さっきリュカが言ってたじゃない。年齢を偽っているかもしれないって」
「まぁ、そうだけど……」
漸く我に返ったリュカが慌てて言い募るも、すぐにカインによって一刀両断される。
イリスは曖昧な事しか言えなくて申し訳ない気持ちになりながらも、言葉を付け加えた。
「『イリス』って呼ばれたから私はイリスなんだなと思ったし、八年前八歳の誕生日を祝われたから、今十六だって思ってはいるんだけど。そう刷り込まれたと言われればそうかもしれない」
それを聞いて、何故かリュカは眉間に皺を寄せ腕を組んで考え込んでしまった。
「……もっと自信持って、自分は十六歳のイリスだって言えよ」
「ええ、……リュカは生き残りの王族を探してたんじゃないの?」
まだイリスがウィレンツィア王国の生き残りの王族だと決まったわけではないが、それでも容姿も年齢もこれ程条件に当てはまる人物が見つかったのだ。もっと喜びそうなものなのに、リュカは苦悶の表情を浮かべていた。
「……そうなんだけどさ。何ていうか、該当者が全く知らない奴だったら見つかったことが素直に嬉しかったのかもしれないけど、それがイリスだと思うと、複雑っていうか、巻き込んでしまうのが気が引けるっていうか……」
言っていて自分で恥ずかしくなったようで、リュカはイリスから視線を逸らし言葉は後に行くにつれて尻すぼみになっていった。
だがイリスはそのリュカの言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
リュカ達が、八年前に死んだと思われていたが実は生きていた王族を探していると知った時、イリスは自分に八年前以前の記憶がない事実があることが真っ先に頭に浮かんだ。
だからその生き残りの王族がどんな容姿をしているのか知るのが怖かったし、自分がもしかしたら該当者かもしれないということをずっと黙っていた。
けれどいざ話してみたら、レオンもロイもイリスの味方だったし、探しているはずのリュカもこんなにもイリスを心配してくれている。
言い出す前の疑念や葛藤が嘘のように、イリスの心は穏やかに凪いでいた。
「よし、じゃあこれからの対策を考えないとね」
話に一旦区切りがついた所で、ロイが話しを纏めた。イリスがウィレンツィア王国の生き残りの王族であるとするならば、これからどう動くかを考えないといけない。
すると先程から黙って何かを考え込んでいたカインが、先程と同じように挙手をした。
「あのね!もう一個確認してもいい?」
何か他に気になることがあっただろうかとイリスは首を傾げる。
カインは前のめりで挙手をしており、ロイから「はいどうぞ」と促されるとレオンに視線を向けた。
「さっき言ってた、レオンが『気になったこと』って何だったの?」
カインの質問で、イリスはレオンの言葉を思い出す。
レオンはイリスに用があってここに来たと言っていたが、それはどうやらレオンもウィレンツィア王国の生き残りの王族がイリスなのではないかと考えていて、そのことを確かめるために訪れたようだった。
だがその考えに至ったのは、何か「気になること」があったかららしい。
レオンは深く息を吐き出すと、視線をカインからイリスに向けた。
「俺は今回、エルヴィン皇子自らサンスタシア帝国に乗り込んできたにも関わらず何もせずに帰ったのを見て、真っ先にイリスのことが頭を過った」
「……なんで」
その段階でイリスがウィレンツィア王国の生き残りの王族だと思える要素はない。何故レオンがそう思ったのか、イリスには皆目見当がつかなかった。
だがレオンははっきりと、そして少し寂しそうに告げた。
「イリスが俺にとって、八年前に突然出来た幼馴染だからだよ」
そこで一旦言葉を区切ったレオンは、一拍置いて言葉を続けた。
「俺にだって確信があったわけじゃない。俺とイリスが出会ったのが八年前だったってだけだ。生き残りの王族がいるという情報もその時はまだ知らない。だけど、エルヴィン皇子は最初こそ革命軍を追って来たが、別の何かを見つけたからこそ、何もせずに帰ったんじゃないかと俺は考えた」
「……それが、私だった……」
確かに、ドルシグの乱が起こったのも八年前、レオンが帝都でイリスと初めて会ったのも八年前なのだ。八年前という一致は、偶然で片付けていい事柄には思えない部分もあった。
「そして三日前帝の執務室で皆と別れた後、隊長が義母君を保護しに向かうと聞いて、今まで予想に過ぎなかった考えが確信に変わったんだ」
黙って話を聴いていたリュカが、分からないとばかりに口を挟んだ。
「なんでイリスのばあちゃんを保護することが、イリスが生き残りの王族かもって確信になるんだ?」
「ドルシグが事実を確認しに来るから……でしょう?」
質問に答えたカインがレオンを見る。レオンはそんなカインに頷きを返した。
「ああ。きっとエルヴィン皇子はイリスを見て、何かを確信した。ならばすぐにイリスのことを調べ始めるだろう。ドルシグが調べれば、イリスが何処でどうやって過ごしていたか直ぐに判明する。事実を確認しに来るだろうことは明らかだ」
「ドルシグが調べに来ることが分かり切っていたから、帝や隊長はイリスの祖母殿を最優先で保護しようとした。それ即ち、イリスが生き残りの王族であると言っているのと同義、というわけか」
話を纏めたロイの言葉を聴いて、またもやリュカが声をあげた。
「じゃあ皇帝やイリスの父ちゃんは、イリスが生き残りの王族だって知ってたってことか!」
「リュカ!」
リュカの名前を呼ぶやカインは三度リュカの脇腹を、立っていたレオンとロイはリズム良く交互にリュカの背中を引っ叩いていた。
「ってぇ……ごめんなさい」
痛がりながらも自分の失言に気付いたようで、リュカがイリスに向かって頭を下げる。
(なんだかこのやり取りにも、随分慣れて来たな)
そしてこの一連のやり取りに、イリスが苦笑するところまでがワンセットだ。
「私も、帝と父さんは全部知っていたと思う。だから皆も、そんなにリュカを責めないであげて」
「そうやってイリスが甘やかすから、リュカの『何でもすぐに思ったことを言っちゃう病』が治らないんだよ!」
「ふふっ、ごめんね」
カインに窘められ、謝罪を口にする。
当のリュカは叩かれた背中に手を回して押さえながら唸っている。今回もレオンからの一撃が他より痛かったようだ。
だが毎回、深刻な話の合間のこうしたやり取りにイリスが救われているのも事実だった。リュカには申し訳ないが、イリスはちょっとだけ感謝しながら覚悟を決めた。
「じゃあ後は、真実を知っている人達に確認するだけだね」
イリスは皆の顔をぐるりと眺めた。
「予定通り祖母と父に会って、八年前私が熱を出して倒れる以前の話を聞いてくるよ」
笑顔を作ったつもりだったが、何処かぎこちなさがあっただろうと自分でも分かっていた。
でも誰もそのことに言及せず、黙ってイリスを笑顔で送り出してくれたのだった。




