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黎明のウィレンツィア  作者: カワシマ キオ
第五章 空を統べる者
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空を統べる者

 イリスは出来るだけソルに負担と恐怖を与えないように、ゆっくりとフラッデルを加速させ緩やかに角度を上昇させた。


 しかし当のソルはと言えば、上昇するにつれてイリスの腰に回した手に力が入ったものの「わぁ!」だの「すげぇ」だの歓声を上げっぱなしだ。

 後ろにいるためソルの顔は全く見えないのだが、その表情と感情は手取るように分かった。


「果実を傷付けないためにもう少し上昇するけど、大丈夫?」

「全っ然!」


 後ろからの返答は相変わらず歓喜に満ちている。その声色にこちらまで顔が綻んだ。

 イリスは果樹の隙間を縫って、空高く舞い上がる。果樹から程よく距離を取ったところで上昇を止めフラッデルを水平に戻すと、ホバリングの体勢に入った。


「うゎ……」


 体勢が落ち着いたことで、ソルが僅かに頭を傾げて下を見下ろす。地面は果樹に隠れて見えず青々とした葉が生い茂るばかりだが、緑色の絨毯のようにどこまでも広がる果樹の中に、赤い果実が点々と色を添えているのが見えた。


「ソル、下ばかりじゃなくて前も見てごらん」


 感嘆の溜息を漏らすソルに、眼前を指し示す。

 イリスの指さす方を見たソルが、息を呑むのが分かった。


「あ……」


 世界は今まさに、日の出を迎えたところだった。

 ここは山の中腹だけあって建造物が景色を遮ることはない。山の麓よりもさらに遥か遠く向こうにはエダルシア王国が誇る見事な水田や小麦畑が見え、昇ったばかりの朝日を受けて緑色や金色に輝いていた。


「……俺、初めてこんな遠くの景色を見た」

「これからいくらでも、見る機会があるよ」

「孤児院と近くの集落にしか行ったことがないんだよ」

「これからどこにでも、行くことができるよ」


 ソルはまだ八歳だ。もう少し大きくなれば、自分で行きたい場所に行って見たいものを見ることもできるだろう。


「世界って……広かったんだね」


 ソルの口から、思わずといった感じで正直な感想が零れ落ちる。イリスは腰に回されたソルのまだ小さな腕を掴んでいた手に、そっと力を込めた。


「そうだね。今からでもその広さを知ることができるよ」


 今はまだ狭い世界が全てだとしても、世界は無限に、何処までも広がっているのだ。


(……でも、そう思い込みたいのは私自身かもしれないけれど)


 ふっ、とイリスは自嘲気味に笑みを溢した。

 目の前に広がる世界に希望を見出すソルとは真逆で、イリスには世界が重く圧し掛かっている。

 世界は、世界の命運を握るイリスを逃してはくれず、何処までも追いかけてくるようだった。


 朝日を浴びて光り輝く世界は、イリスにはあまりにも眩しかった。


「……姉ちゃん?」


 重ねた手に動揺が伝わったようで、ソルが背中から心配そうな声を掛けてくる。

 イリスは後ろ向きな思考を払拭するかのように軽く首を振ると、大丈夫だと答えるように重ねた手の上からソルの腕を二、三度軽く叩いた。


「ごめんごめん。ちょっと考え事。それより、フラッデルを走らせてみてもいい?怖かったらいつでも言っていいから」

「だから!怖くないって!」


 イリスの言葉に被せる勢いでソルがまた勢いよく否定する。フラッデルでの走行は大人でも初めては怖いものなのだと走行前に教えたのだが、一切聞く耳を持たなかった。

 子供だからと見くびられたくないのだろうが、そもそも怖い乗り物なのだという事を理解して欲しいものだ。


「じゃあ、行くよ?」


 諦めたように嘆息し声を掛ける。背中越しに頷く動作が伝わり、腰に回った手にも力が入った。口では色々言っているが、やはりこの高度で加速するというのは怖いのだろう。

 

 出来るだけソルに恐怖心を与えないよう平衡を保って走行するために、イリスは身体を捻って西側を向いた。

 ここは山の中腹なので、山の麓の方へ向かって走行しようとするとどうしてもフラッデルで下るようになってしまうのだ。地面から遠くなりすぎず平衡に走行するために、イリスは山を横断するようにフラッデルを走らせた。 


「わわっ!」


 先程上昇した時は興奮が勝っていてそれどころではなかったソルも、フラッデルに少し慣れた今、走り出して感じる風圧に驚きの声を上げる。しかしそれは直ぐに止み、ソルは無言になった。


「……ソル?大丈夫?」


 殆ど止まるぐらいにスピードを緩め、イリスが声を掛ける。ソルはイリスの背中に頭頂部をくっつけて、俯いているようだった。


「……気持ち悪い」

「えっ?あ、ごめん!すぐ降りるから!」


 イリスは瞬時に身体を捻り方向転換すると、下降の体勢に入った。だがその動きに気付いたソルが、慌てて待ったをかける。


「違くてっ!そういう意味じゃないから!」


 焦るソルにイリスは今にも下降しようとしていたフラッデルをホバリングの状態に戻し、体勢を整えて後ろを振り返った。

 イリスの服を掴んで引っ張るソルと目が合う。その表情は、確かに具合が悪そうには見えなかった。


「気持ち悪いのは、姉ちゃんの飛び方だから」

「え?」


 一瞬何を言われたのか分からず、イリスは驚いて動きを止めた。

 飛び方が気持ち悪いというのがどういうことか分からず首を捻る。しかし、言われて嬉しい言葉でないことは確かで、イリスは少なからずショックを受けた。

 それが顔に出てしまっていたのだろう。イリスと目が合っていたソルは明らかに動揺し始めた。


「あ、違くて!気持ち悪いっていうか、変っていうか、あ、変じゃなくて!こう、おかしい、じゃなく……」


 口を開けば開くほど、口から零れる言葉が悪口のようだとソル自身も気付いたのだろう。困ったように眉根を下げると俯いてしまった。


「……ふふっ、大丈夫。正直に言ってくれていいよ?」


 その慌てふためく様子が何だか可笑しくて、イリスは思わず笑い声を溢した。

 笑い声につられて、ソルは俯けていた顔を恐る恐る上げてこちらの様子を窺う。そしてイリスが笑んでいるのを確認すると、明らかにほっとした表情を見せた。

 

 ソルはイリスのフラッデルでの走行を貶したいわけではなく、単に自身の感じた違和感を表す語彙を有していないのだろう。

 その違和感こそ『風を読む』能力だと思われた。


「それでソル先生。私の操縦はどこがどう変でしょうか?」


 イリスは笑いながら、わざとらしく問いかけてみた。茶化しながら聞いた方がソルも言い易いと思ったからだ。

 ソルは一瞬面食らった顔をしたが、イリスの笑いに釣られて笑顔になった。


「うーん、変っていうか、無理矢理って感じ?かな」

「無理矢理……」


 思ってもみなかった言葉に絶句する。ソルはそんなイリスに気付くことなく、説明を続けた。


「これさ、風がなくても勝手に走るだろ?だから、風に逆らって走ってるのが気持ち悪い」


 何となくソルの言いたいことが分かってきた。フラッデルには動力が備わっているので、風を受けて進むヨットなどとは違って行きたい場所に向かって直進することができる。風向きや気流を無視して走行することがソルには違和感を抱かせるのだろう。

 確かに思い切り横風が吹いているような条件下であれば風に抗わないように走行するが、そのぐらいしかイリスは風向きや気流を気にしたことはなかった。


「じゃあ、このまま真っ直ぐ飛びたい時、ソルならどう操縦するの?」


 目の前の虚空をイリスが指し示す。

 どうせ明確な回答など返ってこないだろうと思っていたイリスは、この後驚愕することになった。


「こっちに進むとしたら、……うーん、今はこっちに向かって吹いているけど、走り出したら気流も生まれるだろうし……。あ、そうだ姉ちゃん!例えば俺がこっちの服をちょっと引っ張ったら、こっちにこの機械をちょっと傾けるってできる?」


 ソルは言うなり、イリスの腰回りを掴んでいる手で服の裾を掴み、くいくいと軽く引っ張って見せた。

 まだよくソルの言葉を理解していないイリスではあったが、とりあえずフラッデルを僅かに右側に傾けて落ちないようにソルの身体を支える左腕に力を籠めた。


「あ、そうそう。そんな感じ!それで走ってみて」

「……落ちないように気を付けてね?」


 訝しみながらもイリスはフラッデルを前進させ徐々に速度を上げる。イリスにとってフラッデルを走行させるのは身体の一部を動かすのと同義だ。意識しなくてもできるし、何より上空は遮るものが何もない。イリスは服を引っ張るソルの僅かな動きに集中した。


「!」


 ソルの動きに合わせてフラッデルを僅かに傾けると、何の抵抗もなくスッとフラッデルが風を切った。風向きとは逆だが、今までより風の抵抗が少ない。空気抵抗が減ったせいか、同じ出力であるのに幾分速度も速く感じた。

 そんな状況に驚いていると、ソルが次々服を引っ張る方向を変えてきた。左右だけでなく少し後ろに服を引くような時もあり、イリスはその動きに合わせて細やかにフラッデルを操る。

 その傾きは僅かであるにも関わらず、走行に大きな違いを生んでいた。


(凄い……。今までとまるで違う)


 今までフラッデルを誰よりも上手に乗りこないしていると自負していたイリスだったが、それがとんだ思い上がりであったと思い知らされた。


 この先最先端の技術によって正確に天候や風を予測できるようになったとしても、ソルには絶対に敵わないだろう。

 ソルは、この空の全てを感覚で感じ取ることが出来る唯一の存在だった。

 どんな風もソルの行く手を阻むことはできず、どんな風もソルの前に捻じ伏せられ手中に収められる。ソルは正に、空を統べる王のようだった。

 

 ソルは何処までも柔軟に風を読んでいく。今吹いている風のその先が予測できる(よめる)のだ。イリスにはそこまでを読むことは出来なかった。

 だが今ある風に対して対応することは出来る。ソルに教えられることを貪欲に吸収しながら、イリスはひたすらに朝焼けの上空を飛んだ。


「姉ちゃん上手い上手い!そんな感じ!!」


 ソルの加重の方向に合わせて、イリスなりに風を感じ、どの程度フラッデルを傾ければいいのかを考える。それは傾斜にして一度や二度といったごく僅かなものだが、それでも風の抵抗は驚くほどに違った。

 イリスはずっと、空は自分の領域だと思っていた。だが今ほど、風と一体になっていると感じたことはなく、イリスは初めてフラッデルに乗った時と同じような感動すら覚えていた。




「~~~!」

「っ!」


 突然、眼下の木々の隙間から人の声が漏れ聞こえてきて、イリスはフラッデルを停止させるとホバリングの体勢に入った。 

 何を言っているのかこの距離からでは詳細は分からないが、声から察するに言い争っているようで、かなり大勢の人数がいるようだった。


「姉ちゃんっ!」


 気持ちよく走行していたのに突然停止したことで驚いていたソルも、風を切る音が止んだことで眼下の言い争う声に気付いたらしい。イリスの服を引っ張り、異常を訴えていた。


(どうしよう……)


 本来であれば、ソルを一旦孤児院に送り届けてから現場に戻るのが正解だ。先ずはソルの身の安全を保障しなければならない。だが下の状況が分からない以上、それでは手遅れになってしまうかもしれないという懸念があった。


 するとその時、服の裾を強く引かれイリスは後ろを振り返った。

 見ると、ソルが意志の強い眼差しでこちらをじっと見つめている。


「……」

「……」


 ソルは何も言わない。言っても反対されると分かっているからだろう。けれど、その瞳は雄弁にソルの意志を語っていた。

 そのソルの眼差しに、イリスは心を決めた。


「今から下に降りるけど、ソルは離れた場所で待機。いい?」

「っ!分かった!!」


 連れて行ってもらえると思っていなかったのだろう。一瞬驚いたものの、ソルは直ぐに表情を引き締めると力強く頷いた。そんなソルを確認しイリスも頷き返すと、前に向き直る。


「しっかり掴まっててね!」


 その場で体勢を低くしてフラッデルの先端を掴むと、イリスは下に向けてフラッデルを急発進させたのだった。






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