エダルシア王国初日
今日から第五章開始です。よろしくお願いします。
「……すごい」
眼下に広がる雄大な景色に、イリスは思わず感嘆の溜息を漏らした。
ダン達と別れてゆっくりと歩を進め、一日かけてストレアル山脈の頂上を越えてエダルシア王国側の山小屋まで辿り着いた。
本来、体を鍛えている者なら一日で反対側の麓まで降りることも可能だ。だが今回は敢えて普通の旅人や商人らが取る選択と同じように、頂上を越えて反対側の山小屋まで辿り着いた所で一泊することにした。全快していないイリスに配慮した道程だ。
イリスとしては、ドルシグ帝国の兵を相手にするなど戦闘になるのであれば現状では多少不利になるかもしれないが、普通に動く分にはもうほとんど身体に負担はないと感じていた。
しかし過保護なレオンとロイの前にその主張は空しく一蹴され、仕方がなく二人の言に従い今回は反対側の山小屋で一泊したのだった。
薄暗がりの時間帯から始まっていたリュカの剣術訓練が一息ついたところで、東の空が朝日に照らし出され始める。
今日の剣術訓練の指南役はロイなのだが、早く目覚めたイリスが剣術訓練の様子を見に起き出して来てみれば、そこにはすでにレオンの姿もあったのだ。どうやら見張りの交代時間になっても結局そのままロイと共に起きていたらしい。
結果、全員が山小屋の前に集まっていた。
「綺麗……」
眼下に広がる広大な裾野が朝日に照らし出され色彩を帯び始める。緑豊かな森林地帯と平野の小麦畑の金色が視界いっぱいに広がっており、それは息を呑むほど美しかった。
南の大国であるエダルシア王国は、ラプェフェブラ大陸に五つある国の中でウィレンツィア王国に次いでその面積は小さい。
国の東から北西にかけてストレアル山脈が伸びており、そこがサンスタシア帝国との国境になっている。そしてストレアル山脈から流れ出す広大なマニラナ大河が、国の西側に位置する隣国、オートレア王国との国境になっていた。そして国の南側は海に面しているため、国土としてはサンスタシア帝国、オートレア王国、ドルシグ帝国の三国と比べるとかなり小さかった。
しかしストレアル山脈の裾野であるこの一帯は扇状地になっているため、豊富な水資源と肥沃な大地によって、扇央部では果樹栽培が、扇端部では農耕が盛んだ。
数百年前までは集中豪雨に見舞われると土砂災害の危険やマニラナ大河からの洪水被害なども深刻だったようだが、ここ数百年で河岸工事や灌漑工事が進み、現在では被害はほとんどないと聞き及んでいる。
農耕が盛んなエダルシア王国だが、農業大国としてよりは貿易大国として世界にその名を馳せていた。
ストレアル山脈に大陸を分断され、唯一の陸路がエダルシア王国に繋がっているのも大きな理由の一つだが、最も大きな理由は大きな港を有し、海路が使えることだった。
山脈の多いラプェフェブラ大陸では、海に面して広い土地が開けている場所が少ない。イリス達のサンスタシア帝国も、帝都の北側はストレアル山脈程ではないにしても山脈に覆われていて、海は見ることも叶わない。
唯一存在するサンスタシア帝国領土内にある港町は、直ぐ傍を断崖絶壁が囲むような地形のため大型船を一艘停泊させるのが手一杯の小さな港町だった。
だがそれは他国も同じようなもので、そうした地形のためにドルシグ帝国ですら大きな港町は有していなかった。
おそらく北にそんな大きな港が存在していたら、ドルシグ帝国に海軍を整備されもっと早くに各国がドルシグ帝国によって攻め入られていたことだろう。大きな港を作ることが出来ない不便な地形こそが、それを阻止し世界平和に寄与していた。
だがその不便な立地故に、ドルシグ帝国が他国を侵略しようとする理由の一つになっているのも確かだった。
イリスは改めて深呼吸を一つすると、眼下の景色に目を細めた。
エダルシア王国の貿易の主な物資は肥沃な大地がもたらす食料品だ。今いる山頂付近は硬い石と岩の無機質な大地だが、直ぐ下に広がる山の中腹には緑豊かな森が広がっているのが見える。もっと山の裾野の方に視線を向けると、木々が整然と並んでいるのが見て取れた。おそらく等間隔に整備されて果樹が植えられているのだろう。
更に視線を先に伸ばすと、見事なまでの扇状地が広がっている。区画が整備されて整えらえた大地には、穀倉地帯が広がっていた。今は正に収穫前の時期だ。青々とした瑞々しい色や黄金のような豊かな色が所狭しと並んでいる。
そしてここからではその姿を見ることは叶わないが、国の西側をマニラナ大河が悠然と流れているのだ。その向こうには目指すオートレア王国がある。
「あの向こうに海が広がってるんだろう?俺、海を見たことないんだよ」
イリスの隣で、同じように景色に見とれていたリュカが独り言のような呟きを溢した。
確かにラプェフェブラ大陸の中で、大陸中央にに位置しているウィレンツィア王国だけが唯一海に面していない。国を出る機会がなければ、海を見ることなど皆無だ。
「ふふっ。実は私も見たことないの。こんな時だけど、海が見れるのはちょっと楽しみにしてるんだ」
リュカは驚いたようにイリスを振り返る。リュカにとっては意外だったようだ。
しかしインペリアルガードという皇帝直属の騎士職になど就いていると、忙しくてまとまった休みが取れることなどないのだ。尤も、休みが取れたとて帝都を離れようとも思わないが。
そのためイリスは、養祖母であるアンナの家に行く以外はほぼ帝都すら出たことが無かった。
「オートレアを目指すなら、いずれ海を渡ることになるよ。楽しみにしているといいよー」
そんな二人を見て微笑ましそうに目を細めながら、ロイが二人の後ろから声を掛けてきた。
「海を渡るのか?マニラナ大河じゃなくて?」
ロイの言葉にリュカが首を捻る。わざわざ海に出なくても、マニラナ大河を渡ればいいと考えるのが普通だ。
イリスもマニラナ大河ではなく海を渡る理由が分からずロイを振り返れば、その問いにはロイの隣に並び立っていたレオンが答えてくれた。
「マニラナ大河が大きすぎて、橋などは架かっていないから陸路での横断はできない。渡し船がないわけでもないが、貿易国だから海路を渡る船の方が発展している。エダルシアの港からは、できれば貿易船に乗せてもらって直接オートレア王国の王都を目指すつもりだ」
しっかりと質問に答えてくれているのだが、何となく不機嫌な声色のレオンにイリスは首を傾げた。
イリスが山小屋の前に来た時から誰とも目を合わせておらず、一段と声も低い。怒っているわけではないようだが、不機嫌さが滲み出ているその態度が何に起因するものなのか分からずイリスは戸惑った。
「……でもさ、海路って色々制約があって、おいそれと乗船することはできないんじゃなかったっけか?」
そうなのだ。千年前の世界大戦の教訓から、大勢の人が一度に移動できる手段には世界平和条約によって様々な制約が課されている。
船は一度に大勢の人を乗せて移動できるため、乗船するにはその国の許可と、移動先の国の許可が必要になるのだ。素性の知れない人を移動させないための措置ではあるが、非常に手間と時間がかかるものであり、国の許可という大仰な手続きが必要であるため、一般の人が許可を取って乗船することはまず不可能だった。
「そうだな。国の許可が必要になるし、手間と時間がかかるものではある。だが、これまで十分に時間があっただろう?」
「?」
レオンの言葉にイリスは首を捻った。確かにストレアル山脈ではイリスの怪我の療養もあったので、サンスタシア帝国の帝都を出立してからすでに二か月以上が経っている。出立してからの時間は十分にあったと言えばそれはそうだが、それで何が解決したのかが分からない。
言葉の足りないレオンの肩にポンとロイが手を置くと、レオンの言葉を引き継いだ。
「最初から帝に、船に乗る許可を取ってもらうようお願いしていたんだよ。サンスタシアの港から乗れれば一番良かったんだろうけれど、結局これだけの時間が掛かってしまったんだ」
「!……それじゃあ、乗船の許可証が取れているの?」
どうやらレオンとロイは出立前から、旅の途中で船に乗れるようテオドール帝に国家間の交渉を依頼していたようだ。
「でも許可が下りたのは移動先のオートレア王国のみだそうだよ。エダルシア王国の港から船に乗るためには、エダルシア王の許可が必要になるね」
「だから俺達はこの先、まずはエダルシア王国の王都を目指すことになる」
「それならちょうどいいな!」
「?」
ロイとレオンの言葉に、勢いよくリュカが口を挟んだ。何がちょうどいいのか分からずイリスがリュカを振り返ると、リュカは意気揚々と話し始めた。
「俺は元々エダルシア王国の王に協力の依頼をしに行くつもりだったし、皆もエダルシアの王に用事ができたってことだろ?」
リュカは見つけ出したウィレンツィア王国の王女であるイリスについて行くと言って今回の旅に同行しているが、革命軍の一員として、ウィレンツィア王国に危機が迫った時には助力してもらえるよう各国に協力依頼をしに行くことも目的の一つにしている。
イリス達にとってエダルシア王国はオートレア王国に向かう道中の通過点に過ぎなかったのだが、乗船の許可を得るためにはエダルシア王に謁見をしなければならなくなった。確かにリュカにとっては勿怪の幸いだろう。
なるほどと頷いてイリスがレオンとロイを見ると、元々不機嫌だったレオンが眉間の皺を更に深くしていた。
(……何か不都合でもあるのかな?)
イリスとしても、乗船許可を得るためにエダルシア王の元を訪れるのであれば、リュカともこのままずっと一緒に旅を続けられるのでちょうどよいと思ったのだが、レオンは何故か難しい顔でこちらを睨んでいた。
理由が分からず、イリスはロイに視線を向けて助けを求める。
視線を受けてロイは最初首を傾げていたが、イリスに視線で促されてレオンを振り返って見た瞬間、堪えきれないとばかりに噴き出していた。
「ぶふっ、そんな嫌な顔するなって。イリスが困ってるぞ?」
「……嫌な顔はしていない」
「いや。してる、してる」
もはや抑える気も無いようで、ロイが愉しそうに声をあげて笑う。
笑われたことでレオンは益々眉間の皺を深くしたが、そんなレオンを気にした様子もなく、ロイは良い笑顔でイリスの後ろに回り込むと背中を押して山小屋の中へと促し始めた。
「さぁさぁ、今後の予定も決まったところで、早く朝食を食べてここを発とう。昨晩山小屋で仕入れた情報によると、山の麓には小さな町があるらしいし、そこの手前までは今日中に辿り着かないと」
何となく釈然としない思いはありながらも、確かに早くここを発たなければならないのは事実なのでイリスは背中を押されつつ歩き始める。
何となく不機嫌なレオンとよく分かっていないリュカがそれに続いた。
それぞれの思いを抱えながら、一行は朝食をとるとエダルシア王国内への一歩を踏み出したのだった。




