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黎明のウィレンツィア  作者: カワシマ キオ
第四章 国を隔てる連峰
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夢の狭間

「つっ……」


 全身に感じる激しい痛みにイリスの意識が僅かに浮上する。

 重い瞼を薄っすらと開けたことで、自分が今目を閉じていたことに気付いたイリスは見える範囲で周囲の状況を確認した。


 視線の先には見たこともない板張りの天井が見える。天井だと認識できたのは、身体に意識を向けると横たわった状態だということに気付いたからだ。

 手を動かそうとするが布が擦れる音がするばかりで、特に左手は全く動く気配がない。手の感触から身体を横たえているのはシーツの上であり、どうやら自分はベッドの上に寝ているようだと悟った。

 

 もっとよく周囲を見回したいところだが、頭にズキズキとした鈍痛を感じて動かすことができない。ならばと思考を巡らして、今どうしてこういう状態になっているのかを考えようとしたが、頭を動かすことも出来ない位の痛みに思考を続けることが出来なかった。


(……もういいや。何だかひどく疲れた)


 考えることを放棄し、再び瞼を閉じる。眠ってしまえばこの全身の痛みも頭の痛みも少しは気にならなくなるだろう。そう考えて、イリスは戻った意識を再び手放した。




 けれどなぜだか意識は微睡の中に沈むことは無く、寧ろはっきりと鮮明になってくる。

 気付くと、イリスは真っ暗な闇の中に一人佇んでいた。


 周囲を振り返るも、何処まで行っても何もない暗闇が永遠に広がっている。しかし下を見れば、靴底が濡れる程度の薄い水の膜が張っていた。歩を進めるとパシャパシャという僅かな水音と共に、水面にはイリスの足を中心に綺麗な波紋が広がっていく。

 水面も辺り一面に広がっているようだが、他には一切何も見当たらない。この闇が永遠に続くかのような無の空間に音は無く、イリスが歩く度に撥ねる僅かな水音だけが響いていた。


 普通に考えたら恐ろしい空間のように思えるのだが、不思議とイリスに恐怖心はなかった。

 それよりも心が温まる安堵感のような、胸を締め付ける懐かしさのような、言葉では言い表せない不思議な感覚で満たされていた。


「!」


 そんな不思議な感覚に囚われていたイリスの前に、突如として人影が現れた。

 今まで何もなかったはずの正面の空間に突然現れたその人物に、イリスは驚いて息を呑む。しかし驚きはしたものの、恐怖や不安は一切感じなかった。何故なら……。


(……鏡がある)


 それは、イリスを映した鏡だった。

 そこにはいつも見慣れた、自分の姿があったのだ。


 しかし鏡の中のイリスは、今着ている旅装とは異なり簡素な白いシャツに黒のズボンという出で立ちだった。

 見た目の違いは他にもあって、イリスよりも頭一つ分背が高いように思える。肩幅も広く、細身であることは同じだが根本の体格が違っていた。


 相違点を探せば他にも細かい所が違っている気がするが、目の前の人物は間違いなく『イリス』だった。それは何よりイリス本人が心の奥深くで感じていることだった。

 理屈ではない。本能がそうだと告げていた。


(この人は私。私の半身……)


 ふと、鏡の中のイリスが僅かに眉を寄せ困ったように微笑んだ。


(どうして?なんでそんな顔をするの)


 その笑みに、イリスは自分の生き様を否定されたような気がした。


 自分では、全てのことに対して懸命に取り組んでいるつもりだった。出来得る限り最善を尽くして生きてきたつもりだ。けれど鏡の中のイリスは、そんなイリスを見て苦しそうに笑うのだ。

 まるで、そんなことしなくてもいいと言うかのように……。


「―――」


 鏡の中のイリスの口が、横に引き伸ばされた後軽く開けるように動く。何か言葉を紡いでいるようだったが、その声はイリスには届かない。

 しかし、イリスは知っていた。鏡の中のイリスが紡ぐ懐かしい響きを。


 そして鏡の中のイリスはイリスにくるりと背を向けると、イリスとは反対方向に向かって歩き始める。


(待って!行かないで!!)


 声の限りに叫びたいのに、口から音が出てこない。

 焦って困惑するイリスを置いて、鏡の中のイリスは歩みを止めることなくどんどんと遠く離れて行ってしまう。


 イリスは思わず鏡の中のイリスに手を伸ばし、あらん限りの力を込めて叫んだ。




「ティ……っ!!」


 しかし伸ばした手が目的の人物に届くことは無く、目の前には明かりに照らされた板張りの天井が広がっていた。

 天井へと伸ばした手に激痛が走り、思わず顔を顰める。


「イリス、気付いたのか!大丈夫か!!」


 急に傍からリュカの声が聞こえて驚き、咄嗟にイリスは声が聞こえた方を見ようとした。しかしそちらを見ようと頭を動かそうとして、頭のみならず全身にも酷い痛みが襲う。

 そして天井へと伸ばした腕に包帯が巻かれていたことで、イリスは大地の裂け目からニーナを救出するために全身を負傷したことを思い出した。


「そう、だっ、ニー、ナッ、は?」


 何故か喉が枯れていて声が出しにくく、早く喋りたいのにイリスの言葉は途切れ途切れになった。

 ニーナの救出に向かって大地の裂け目に降り、迫りくる岩を避けながらフラッデルで飛び上がったところまでは覚えているが、その後の記憶がイリスには一切なかった。どうやって自分が無事に助かったのかも、ニーナがその後どうなったのかも分からなかった。


 焦ったように問うイリスを余所に、リュカは心配そうに顔を覗き込みながらそっとイリスが天井に伸ばした手を両手で包み込むと、ベッドの隣の床にへたりと座り込んだ。


「良かったっ!二日間目を覚まさなかったんだぞ!どれだけ皆が心配したかっ!!」


 イリスの手を取ったまま座り込んで俯いたリュカの声が震えていた。それだけで、どれだけ心配をかけたのかを察する。


「ごめ、……さ、い」


 漸く言葉を絞り出してイリスが声を掛けると、リュカは立ち上がって腕でグイッと顔を拭った。


「声を出さなくていい。二日間寝ていたんだ、喉が渇いているだろう。今はとにかくゆっくり休め。今医者と皆を呼んでくるから」


 そう言ってリュカは、ベッドの隣にある簡素な書机の上に置いてあった水差しからコップに少しだけ水を注ぐと、イリスの口元にタオルを当ててコップの水を飲ませてくれた。

 横になった状態なので上手く飲み込めずに口から零れた水がタオルを濡らしていくが、構わず飲める分を口に含み喉を潤した。


「ありがとう、リュカ。ね、それで、ニーナは……」


 聞いていも答えてくれないことに最悪の事態がイリスの脳裏を過るが、コップを書机の上に置いて扉に向かっていたリュカが振り返った顔は、笑顔だった。


「大丈夫だ。衰弱はしていたがどこも怪我をしていないし、昨日から起き上がって過ごしているよ」

「……良かった」


 ニーナの無事を知りイリスは安堵の息を吐く。リュカによると、救出した時は宙づりで身体が圧迫されていたことで軽い呼吸困難に陥っていたそうだが、大きな外傷もなく今はもう元気とのことだ。

 扉を開け半分廊下に出たリュカは、足を止めイリスを振り返ると意地悪な笑みを浮かべた。


「そうして安心していられるのも今の内だぞ。レオンとロイにがっつり怒られることを覚悟しておくんだな」


 そう言ってリュカは人を呼びに部屋を出て行く。扉が閉まった瞬間、駆け出す足音が聞こえ、それがどんどん遠ざかって行った。きっとイリスの意識が戻ったことを早く伝えようと急いでくれているのだろう。


「皆に迷惑をかけちゃったな……」


 ニーナを助けに大地の裂け目に飛び込んだことは一切後悔していないが、軽率な行動だったことは否めない。イリスは二人に怒られる覚悟をしながら、審判の時を待つことにした。


「……」


 ぼんやりと天井を眺めながら、イリスは今さっき見ていた夢の内容を思い返していた。

 真っ暗な空間の中にいたけれど、不思議と嫌な感じがしなかったのを覚えている。寧ろ温かい気持ちになったような気がするけれど、それ以上の事が思い出せなかった。


「懐かしい夢……だったような気がする」


 言葉にして呟いてみてもそれが確信に変わることは無く、時間が経つにつれて夢の内容はどんどん曖昧になっていく。

 忘れたくないのに、忘れてはいけないのに、大切なことを忘れてしまっている気がして胸が苦しくなる。

 

(どうして……)


 懐かしく温かい気持ちになったはずなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのか。訳が分からず痛む胸を、イリスは包帯が巻かれた手でぎゅっと掴んだ。


 その理由を知りたいと、イリスは再び目を瞑る。

 だが瞼の裏に先程の夢の内容を想い描くことは出来ず、もう一度あの夢の続きを見ることも出来なかった。




◇◇◇   ◇◇◇




 程なくして複数人が駆けてくる音が廊下に響き、リュカ、レオン、ロイと、遅れて見たこともない老紳士が部屋に入ってきた。手に医療カバンを持っているのを見るに、医者なのだろう。

 

 焦った様子で部屋に飛び込んできたレオンとロイは、イリスの顔を見るなり安堵と共に複雑な表情で顔を歪めた。イリスが無事に目を覚ましたことに気持ちが緩んだのもあるが、同時にリュカが言っていたようにイリスの軽率な行動に対して言いたいことは山ほどあり、気持ちがごちゃ混ぜなのだろう。


「レオンもロイも、心配をかけてごめんなさい」

「……」


 これは先に謝っておいた方がいいと判断してイリスが謝罪を口にすれば、レオンもロイもぐっと押し黙った。


「さてさてお嬢さん、気分はどうだね?」


 老紳士がベッド脇にある書机の椅子を引き寄せて座ると声を掛けてきた。


「全身が痛くて動かせないです。でも、吐き気などはないですね」

「特にどこが痛むかね」

「左側頭部が痛いです」

「……ふむふむ、傷は塞がってきておるが、もう暫く……そうさね、一週間ぐらいは安静にしておいた方がいいだろうね」


 老紳士はイリスの頭部の包帯を取って傷の状態を確認し、清潔な包帯で患部を巻き直した。縫う程の深い傷ではなかったそうだが、岩が側頭部を掠めた際に打撲と裂傷を負ったのだそうだ。


「それじゃあお嬢さん、お大事にな」

「ありがとうございました」


 寝たままで申し訳ないと思いながらイリスが軽く頭を下げるような仕草をすると、「無理に動かしなさんな」と言いながら老紳士は部屋を出て行った。

 そして扉が閉まった瞬間、ロイがイリスに向かって息巻いた。


「あの人は集落に住んでいるナタラ族の医師なんだそうだよ。腕は確からしいけど、……回復して移動できるようになったら、大きい病院でしっかりとした医師に必ずもう一度診てもらうからね」


 こんな山間部に医師がいるだけでもありがたいが、どうしても小さな集落の医師となると信用しきれないのだろう。大怪我だったこともあるし、ここはロイの言う通りにしようとイリスはその提案を拒否しないでおいた。


「言いたいことは山ほどあるが、とりあえず無事で良かった。今はとにかく休め」

「……こんなところに長く足止めしてしまって、ごめんね」

「そういうところだよ。気にしなくていいから、今は療養に専念しなよ」

「ん、分かってる」


 腕を組んで溜息を吐きながら告げるレオンに謝れば、隣に立つロイが肘でレオンを小突きながら笑顔ですかさずフォローを入れた。

 レオンもイリスに呆れているのではなく、寧ろ安堵しているからこそその態度だと分かっているので、イリスも笑顔で応えた。


 救助からはすでに一日半が過ぎており、今は二日目の夕刻なのだそうだ。そしてここはサンスタシア帝国側の山の中腹にある山小屋だという。あの、ニーナが落ちた大地の裂け目の近くの山小屋だ。


「……そういえば、ノーラさんの熱はどうなったの?」


 ニーナは熱のある母親のために、妊婦でも使うことが出来るという特殊な薬草を求めて大地の裂け目の近くまで行ったのだ。気になってイリスが問えば、それにはリュカが答えてくれた。


「ニーナが採った薬草は大地の裂け目の中に落ちたけど、ダンが問題なく採取して煎じて飲ませたって言ってたよ。直ぐに元気になったって言ってた」

「良かった!」


 妊娠中に体調を崩してしまうと母子ともに危険に晒されることになる。無事に回復したのならば良かったとイリスは胸を撫で下ろした。


「大地の裂け目がある方角には本来行けないように、山小屋の裏手からは柵がめぐらされていたそうなんだ。だがその柵が、木の杭を等間隔で打ち付けただけの簡易なものだったから、その少女は柵の隙間を潜り抜けて中に入ってしまったんだそうだ」


 レオンの話を聞くに、大地の裂け目などの危険な場所を封じるための柵としては簡易すぎる気がしたが、柵の目的は注意喚起が主であり、侵入者を防ぐための物ではないのだという。

 広大な山の斜面にどこまでも堅牢な柵を張り巡らせることは現実的に不可能であるため、そのような簡易的な柵で注意を促しているのだという。今後は見張りの強化や口頭での注意喚起などを増やして対策していくとのことだった。

 ニーナも大地の裂け目の危険性は重々分かっているだろうし、今回は止むを得ず侵入してしまったが、今後はこんな危険を冒すことはしないだろう。


「さっきイリスが目を覚ました事を伝えに降りたら、ダンとニーナもイリスを見舞いたいって言ってたけど、どうする?」


 リュカの言葉に直ぐに反応したのはレオンだった。眉間に皺が寄り、不機嫌さを隠そうともしていない。


「イリスはまだ絶対安静だ。今、無理に会わなくてもいい」

「そうだね~、元気になったら何時でも会えるしね」


 ロイの援護を受けてレオンが深く頷く。そんな二人のやり取りに思わず口角が上がるが、イリスは悩んだ末に口を開いた。


「大丈夫。話すくらいなら出来るし、会うよ」

「今会う必要はない」

「でも、私の状態を目で見て確認しないと不安でしょう?せめて姿を見せて安心させたい」

「別に俺達でイリスの状態を伝える事もできるし、どうしても今すぐ会わなきゃいけない理由はないよ?」


 感情的に頭から否定するレオンとは対照的に、ロイが優しく諭すようにイリスに言い聞かせる。それに納得しかけるが、イリスは頭が痛くない程度に首を横に振った。


「ニーナ、自分のせいだって責めているでしょう?」


 母親のために危険を冒してまで薬草を取りに行くような優しい子だ。責任を感じているだろうことは想像に難くなかった。

 案の定イリスの予想通りだったようで、三人は押し黙ってイリスから視線を逸す。


「ふふっ。大丈夫、ちょっと話すだけにするから」


 イリスの言葉に納得しかね表情が険しいままのレオンの肩に、ロイが苦笑しながら手を置く。

 昔から、騎士団という男社会の中で虚勢を張り無理を通そうとするイリスに対し、心配して正論で止めるレオンを宥め最終的に味方し背中を押してくれるのがロイだった。

 

 レオンはジトッとロイをひと睨みするも、やがて仕方が無いとばかりに溜息を吐いた。


「絶対に無理はするなよ」


 そんな三人のやり取りを見て、リュカは密かに疎外感を感じていた。自分には入り込めない空気が漂い言葉を発することが出来ない。

 自分に出来ることはこの場からいなくなることだと察し、リュカは三人に気付かれないようにそっと部屋を出ようとする。しかしその後ろ姿に気づいたイリスが呼び止めた。


「リュカ?」

「……ダン達を呼んでくるよ」


 気不味さを感じて顔を伏せながら、リュカは何か問われる前に言い訳を述べて部屋の外へと出ていってしまった。


「……」


 こちらを一切見ることもなく出て行ったリュカの背中に、何かが重なってイリスは押し黙る。


(……こんな場面を前にも見たような気がする……)


 しかしどんなに記憶を遡ってみても該当する出来事に辿り着くことはなく、イリスはベッドに身体を横たえたままリュカが消えた扉の先をただ黙って見つめることしかできなかった。






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