記憶を無くす世界でジャズ喫茶をやっています
『いそげ、いそげ』
私、夏美流花は寒空の下、勤務先のジャズ喫茶に急いでいた。
肌に当たる風が冷たい。季節はもうすっかり冬だ。
昨日の夜降り積もった雪を“ギュッ、ギュッ”と踏みしめながら歩く。
「こりゃ店着いたら雪かきだなぁー、めんどー!」
昨日は『そんなに積もらないでしょ!』と余裕をぶっこいていたのだが、まさかこんなに積もるとは……足首辺りまで雪で埋まっている。
降り積もった雪に足を取られながら急ぎ足で歩いていると、右手に大きな文字で『CD』と書かれた看板が見えてきた。
それは私が行きつけのCDショップの看板だ。現在は……ええと……そう2083年だからCDで音楽を聴く人なんて殆どいない。
今はサブクスリプションサービス全盛の時代。だから、まだCDでも音楽を聴いていると友達に言うと、まるで宇宙人を見るかの様な目で見られてしまう。
私は現在妹と二人暮らしだが、家に遊びに来ていた妹の友達にその事を話すと『流花ちゃん……もしかして未だにガラケー使っている人?』なんて言われてしまった。
その時は
『ちがいますぅーーー!!!そんな過去に生きる女みたいに言わないでくださーーい!、私は時代の先端を行く女よ!!!!』
なんて言って中古で買った4年型落ちのスマホを見せつけたりしたけど、今や骨董品扱いになってしまったレコードでも音楽を聴いているから、傍から見たら現代人にはみえないんだろうなぁー。
しばらく歩くと、電柱を背にしてうずくまっている人影が前方に見えた。どうやらスーツを着た男性の様だ。
「……ん?どうしたんだろう?」
私はそのまま歩みを進め男性に近づく。
その男性は、生気が全く感じられない様子でうなだれている。
人間というより、スーツ店の店頭にあるマネキンが電柱の前に無造作に置かれているといった感じだ。
私は胸騒ぎを覚えつつも男性をそのままにはして置けないと思い声をかける。
「すみませーん、大丈夫ですか」
返事がない。私が声をかける前と全く表情が変わらない。
私は再度声を掛ける。
「あの、大丈夫で——」
そこまで言いかけた時、男性がいきなり
「うぁああああああああ!!!!!」
と叫び始めた。
「ここは……何処だ……?」
「俺は……?いや、そうだ電柱が……電柱が俺を……!」
そのまま男性は後ろを振り返ると
「あぁああああ!!!!」
とまた叫び、そこから逃げ出そうとする。明らかに電柱を恐れている。
——いけない!
私は逃げ出そうとする男性の腕を反射的に掴み、その場に静止させる。
私の小柄な体躯に似合わない強い力に驚いたのだろう。男性は目を丸くしている。
「落ち着いて下さい。——あなたは電柱にのまれたのですか?」
「ああ、そうだ……ところで私は……誰だ……?」
「自分の事は思い出せませんか?」
「……分からない」
悪い予感が的中した。
この男性は“魂壊人”に記憶を吸われている。
「私が専門の救急隊に連絡しますので、どうかそのまま落ち着いて待っていて下さい」
男性が逃げない様に腕をつかんだまま、私はスマホを取り出し“000”にコールする。
その後、直ぐに大きな黒塗りのバンが到着し、男性はそのまま運ばれていった。
救急隊のバンを見送りながら、私は改めてひどい世の中になってしまった事を実感する。
現代、2083年は“魂壊人”という異形の存在に怯えながら人々は生活を送っている。
40年程前に突如発生したとされる魂壊人は、吸い取った人の記憶を養分に生きている。
主に魂壊人が人間を襲う行動パターンは2つに分けられ、一つは先程の男性のケースの様に電柱に擬態し、人をのみこみ記憶を吸い取るパターン。
もう一つは、夜間に魂壊人自身が直接人を襲うというパターンだ。
そもそも魂壊人に遭遇しないのが一番だ。しかし、生涯で一度も遭遇せずに天寿を全うする事が出来る人はとても少ない。
魂壊人に直接襲われた場合は、早期に専門の治療を受ける事が出来れば記憶が無事の事も多い。
しかし、電柱にのまれてしまった場合は確実に記憶が消える。
その理由は魂壊人を生み出した存在。通称『諸悪の根』に直接記憶を吸い取られている事が大きい。
『諸悪の根』はこの日本の地下深くに存在しており、電柱に飲まれると諸悪の根の元に送られる。
そこで諸悪の根に直接記憶を吸い取られるのだ。現代の医療技術では、諸悪の根に記憶を吸い取られた人間の記憶を再生する方法は見つかっていない。
人類もただ手をこまねいていた訳では無く、研究を重ね対魂壊人組織を組織し、日々魂壊人根絶に向けて戦っている。
ちなみに今男性を運んで行ったのは、対魂壊人組織が運営する専門の医療機関だ。
その医療機関では専門の治療が施されるのだが、電柱に飲まれたというのなら、残念だがあの男性の記憶が戻る事は無いだろう。
本当に嫌な時代になってしまったと思いつつ、私はスマートウォッチに目を落す。
……ヤバい。
「このままじゃ遅刻だー!!」
私は走りだす。
頼む間に合え!!!!
ま、間に合った~~!!!
私は勤務先のジャズ喫茶の前で両ひざに手をつきながら、ゼーゼーと息を切らしていた。
目の前に佇むのは私たちが営むジャズ喫茶だ。
外壁の大部分はツタで覆われており、ツタの隙間からは茶色のレンガが覗いている。
入口の両脇と窓の近くには寄せ植えのハンギングがぶら下がっており、自然的でありながらもシックな雰囲気が漂う外観を私はとても気に入っている。
呼吸が整ったので、いざ店内に入ろうとすると後ろから「お、流花じゃん」と声が聴こえた。
振り返ってみるとそこには柳蓮香が柔らかな笑顔を浮かべながらひらひらと手をこちらに振っている。
この子は一緒にこのジャズ喫茶を経営している親友だ。相棒と言っても良い存在。
今日の蓮香は黒のチノパンにネイビーのダウンコート、首元には同じくネイビーのマフラーを巻いている。
黒のチノパンはお店の制服だから仕事モードだという事が分かる。
そのシックな色味のコーデに、銀髪にピンクのメッシュカラーが入った綺麗なストレートのロングヘアーが良く映えている。
蓮香は同性の私から見てもめちゃくちゃ美人だ。
大きくて切れ長の目、そのハッキリとした目鼻立ちはどこか日本人離れした美しさがある。
身長も173センチあるから158センチの私との身長差がとてつもない。
そのモデルばりのルックスから、蓮香の事をよく知らない人からはどこか近寄りがたい印象を持たれてしまう事がある。しかし、実際に話して見ると凄く話しやすい人だという事が分かる。
黙っている時は凛とした印象だが、いざ話して見ると一気に柔らかい印象になる。
とてもおっとりしているのだ。それでいて相手の事をしっかりと見て、的確な思いやりのある受け答えをするものだから、常連客の中には蓮香にお悩み相談をしに来る人もいる位だ。
私が男だったらそのギャップに惚れていたかもー!とつくづく思う。
「おはよー」
そう言いながら蓮香がこちらに駆け寄って来る。アシンメトリーの前髪が揺れている。
「蓮香おはよー。あ、今日は開店前に雪かきあるから急がないと!」
それを聞いた蓮香がげんなりとした顔をしながら言う。
「めんどー、まさかこんなに積もっちゃうとはねー」
そう言った蓮香は、何かに気づいた様に急に私の顔をまじまじと見てくる。
「ど、どうした」
その綺麗な顔で真正面から見つめられるものだから、私は思わずたじろぐ。
「お、流花髪色変えたね、イイ感じ♪」
——あ、髪を見ていたのか。
私はショートボブの毛先だけを青に染めているのだが、つい先日そこにうっすらグリーン系の色を混ぜたのだ。ほんの少しだけ。
「え、本当に少し変えた位だよ、良く気付いたね」
私の言葉を聞いた蓮香は得意げな顔をしながら言う。
「私は良く気付く女ですから」
「なんじゃそれ」
忘れそうになっていた。流石に雪かきに取り掛からなくては。
「よーし!蓮香!めんどい雪かきはちゃっちゃと終わらせちゃおう!!」
私はそう言いながら、雪かき道具がしまってある物置に向かって走りだした。
面倒な雪かきを何とか終わらせた私達は、店内での開店準備に取り掛かっていた。
「蓮香―、コーヒーお願い!」
「はいはーい」
蓮香がコーヒー豆をミルで挽き始める。ゴリゴリと小気味良い音が店内に響く。私はその音が好きだ。
私はスイーツの用意をしながら、ふとこのジャズ喫茶を初めてからもう3年が経過している事に気づく。
この魂壊人の脅威と隣り合わせの世界で、こんなにも長くお店を続ける事が出来たのはとても幸運な事だ。
蓮香とでなければここまで続ける事が出来ていなかったかもしれない。
ジャズ喫茶を始める前は蓮香とは面識がなかったけど、昔からずっと友達だったかの様に気が合うし、何より居心地が良い。
蓮香と出会ったのは行きつけのレコード店だった。
雑居ビルの地下にある小さなレコード店。
その頃の私は、以前の仕事をとある理由で辞めており、やりたいと思っていたジャズ喫茶開業に向けて準備をしている所だった。
その日もいつもの様にレコード店に着き、店のドアを開けた。
そこには女神がいた。
重力を感じさせないサラサラのロングヘアー、170センチ以上はあろうかという長身、切れ長の大きな目。精巧に彫られた彫刻の様な横顔
……あまりにも美しかった。
私は週4日最低でも通う超常連だが、過去に一度も観た事が無いお客さんだった。
いつも店内はおじ様方ばかりだから、私と歳が近い人間がいる事にまず驚いたし、何よりもこんなに美しい子がいるとは夢にも思わなかったのだ。
その子はジャズのコーナーの中でも、1960年代のジャズコーナーを見ていた。
私も一番1960年代のジャズが好きだ。
当時は『これは気が合いそうかも!』と思ってワクワクしたなー。
蓮香とはその後も何度か店で遭遇し、次第に私の方から声をかけて話す様になった。
このCDですら殆ど音楽を聴かれなくなった時代に、同年代でしかもジャズでレコードを聴いている人を見つける事が出来たのは嬉しかった。
「ほーら流花、ぼーっとしないの」
緩やかな蓮香の声がして、私は回想から現実に引き戻される。
「ごめんごめん」
「そういえばさ、私が蓮香に『ジャズ喫茶やろう』って言った時あったじゃん」
「うん」
「そん時ぶっちゃけどう思った?」
「おお、3年越しに聞くねー」
「そういえば聞いた事なかったなーと思ってね」
それを聞いた蓮香が冗談めかした様子で言う。
「『何言ってんだコイツ』って思った」
普段柔らかい雰囲気の蓮香からこんなドストレートな言葉が返って来るとは思っていなかった私は、思わず吹き出してしまう。
「あっつはははははは!」
私は笑いながら言う。
「超ド直球じゃん、いやーまあそう思われるのも無理ないよね」
蓮香も笑いながら答える。
「ごめんごめん。でもなんだか同時にすごくワクワクしたのを覚えてる」
蓮香がニコニコしながらも真っすぐに私の目を見ながら言う。
「今はいつ魂壊人に襲われて記憶を無くすか分からない世の中でしょ、だからみんな少しでも安定した職に就こうとするから、流花みたいなチャレンジ精神をもった人はもういなくなっちゃったのかと思ってた」
「だから『何言ってんだコイツ』よりも、すごく嬉しい気持ちとワクワクした気持ちの方が大きかったな。何か目の前が開けた様な感覚にもなった」
「まあ私自身ジャズが好きというのもあるし、何よりジャズ喫茶をやりたいと思っていたのもあるけどね。」
う、嬉しい……
初めて聞いた蓮香の気持ちに、私は嬉しさと恥ずかしさがミックスされた気持ちになる。
「う、嬉しいぞ蓮香よ……」
恥ずかしさを誤魔化そうとしてつい変なしゃべり方になってしまう。
蓮香が笑いながら「なにその喋り方」と言った。
蓮香がふと壁掛けのアンティーク時計を見やり、はっとする。
「いけない、開店時間まであと5分!流花、スイーツの準備は出来た?」
「ばっちり!」
「じゃあレコードかけよう。最初は流花が選曲してもらって良い?」
「まっかせなさーい!」
そう言い私はレコードプレイヤーに向かう。
このお店はジャズ喫茶なので、ジャズクラブとは違いライブはしない。
レコードとCDを蓮香と私で選曲して、物凄く良いオーディオ機器で流すのだ。
私はレコード棚から1956年に録音された、テナーサックスのワンホーンカルテットの名盤を手に取る。
そのレコードをプレイヤーにのせ、針を落した所で“カランカラン”と店の入り口が開く音がした。
『いらっしゃいませー!』
蓮香と挨拶がハモる。
ああ、なんだか今日も頑張れそうだ。
「ふー、疲れたー」
私は思いっきり伸びをする。今日は平日だけど結構忙しかった。
休日とあまり変わらないくらいの忙しさに私の体はバッキバキになっていた。
今は午後7時。外はすっかり暗くなっている。
大体の閉店作業は終わっているから、残すはオーディオ機器の点検作業だ。
レコードプレイヤーからスピーカーまで、中々の年代物を使っているから、毎日の閉店後のメンテナンスが欠かせない。
この作業は、オーディオシステムを組んだ私の担当だ。正直この作業が一番楽しい。
いざ作業に取り掛かろうとした所で、ふと連香が先ほどからやけに静かなことに気づいた。
どうしたかと思い、蓮香がいる窓際のテーブル席を見やる。
すると、あろうことかテーブルを拭く体制のままうつらうつらと船を漕いでいるではないか。しかも立ったまま。
そのシュールさに私は笑いをこらえつつも蓮香に声をかける。
「蓮香―!!」
「……ふぇ?」
あ、起きた。
「立ったまま寝なーい!」
「あ、あれ……寝てた私?」
「立ったまま盛大に船漕いでた」
蓮香がこの様に仕事中うたた寝をする事はかなり珍しい。どんな時でもしっかりと仕事を最後までやる子だから少し心配だ。先に上がってもらった方が良いかもしれない。
「今日忙しかったからかなり疲れてるでしょ。私はまだオーディオのメンテあるから、蓮香は先に上がっていいよ」
私の提案を聞いた蓮香は少し申し訳なさそうにしながら「うーん。ごめんそうさせてもらうね」と答えた。
やはり結構疲れているみたいだ。
「おっけー。帰ってしっかり休んでよー」
「ありがと」
蓮香はそう言い残し、更衣室に入っていく。
それを見届けた私は、スピーカーの点検から着手する。
少しすると、後ろから「お先に失礼するねー」と声が聞こえた。
振り向くと連香が店の入り口で手を振っている。
「また明日ねー」
そう言い、私も手を振り返すと、連香はドアを開けて出て行った。
よーし私も早くメンテ終わらせて帰るぞー!
思ったよりも早く終わった。
私の愛しのオーディオ機器たちは最近すこぶる調子が良いようだ。
今回のメンテナンスでも、特に不具合はなかったからざっと確認するだけで作業は終わってしまった。
「帰るかー」
私は作業するために座っていた椅子から立ち上がる。
身支度を終え、ガスの元栓、蛇口の確認を終えた私は正面入り口のドアを開けた。
真冬の冷気が店内に吹き込んで来る。肌が痛い。
「寒っむ」
あまりの寒さに、私は巻いていたマフラーを口元まで上げる。
入り口のカギをちゃんと閉めた事を確認してから、私は歩き始める。
夕飯どうするかなー。
妹は……そうだ友達の家に泊まりに行くって言ってたから今日はいない。
なら作らなくても良いか。そうなるとどこで買うかだなー、牛丼のテイクアウトか……
私は夕飯をどうするかについて思案しつつ、家に向けて歩みを進める。
丁度暗い路地裏に差し掛かった時だった。いきなり声が頭の中に直接流れ込んで来る。
《ねえ今日は雪かきしないといらっしゃいませねむどうするの計算喫茶いくよありがゆき——》
「——ッツツツツツ!!」
頭の中をかき回す様な声。私は思わず頭を押さえ、堪える。
聞いた瞬間に分かった。これは他人の記憶の声だと。
頭の中に直接響く意味の分からない言葉の羅列。
今、この瞬間魂壊人に人が襲われている証拠だ。
夜間になると、魂壊人は電柱には擬態せず、自らの足で歩き始める。
歩く魂壊人は透明だから、回りの人には気付かれない。しかし、記憶を吸い取る時だけその醜い姿をいきなり周囲に晒す。
そして、今私の頭の中に流れている様に、吸い取られた記憶の中の声が周囲にいる人の脳内で再生されるのだ。
だからまさに今、人が魂壊人に襲われ、記憶を吸い取られている最中という事になる。
マズイ……!今から対魂壊人対策局に通報しても間に合う訳がない。
「……私がやるしかない」
そう決心した私は、声のする方に向けて走りだす。
普通の人はこの声が聞こえる方向は分からないのだが、流花には分かる。
だんだんと頭の中に流れてくる声が大きくなる。
魂壊人に近づいている証拠だ。そのまま私は走り続ける。頭の中の声は鳴りやまない。
徐々に声が大きくなって来る。その時、この記憶には聞き覚えのある声が混ざっている事に気づいた。
《ゆきれいあけいほーら流花ぼーっとしないの雪かき何言ってんだコイツって思ったありがとうございました》
全身からサーっと血の気が引いていく。
…………蓮香?
この声。話している内容。間違いない、今頭の中に流れているのは蓮香の記憶だ。
今この瞬間、蓮香が襲われている。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……
嫌だ!!!!!
あの時の様な思いは二度としたくない。
私は全力で暗い路地裏を駆ける。声が頭の中に聴こえているという事は、まだ記憶を吸われ始めてそんなに時間は経っていないはずだ。
早く倒す事が出来れば大丈夫だ。現役時代を思い出せ !
突き当りを右に曲がると、約100メートル先に醜く汚い姿をさらした魂壊人に頭部を丸呑みにされている蓮香の姿があった。
首から上は完全に魂壊人の大きく長く伸びた口の中に納まってしまっている。
魂壊人は人型の異形であるが、人間の記憶を直接吸い取る時にだけ口が前に長く伸びる性質がある。
その光景を見た私は強烈な怒りと嫌悪感を覚える。
……殺してやる。
背負っていたリュックのサイドポケットから、対魂壊人用近接武器のサバイバルナイフを取り出す。
私はごく短い深呼吸をする。頭の先からつま先までを満たしていた怒りと嫌悪感が徐々に静まっていく。
「……よし、行ける」
私は地面を思い切り蹴り上げ、一気に魂壊人との距離を詰める。
冷たい冬の冷気が肌を切り裂いて行く。近付くにつれ、魂壊人の姿が段々と大きくなって来る。
醜い。
「醜い醜い醜い醜い醜い醜い……私の大切な友達に触るなこのクソ異形が!!」
魂壊人の表情がハッキリと視認出来る程に近づいた時、私は渾身の殺意を込めてサバイバルナイフを魂壊人の首元をめがけて放つ。
見えない糸で引かれて行くかの様に、私の放ったナイフが真っ直ぐに飛んでいく。
鈍い音を立ててナイフが魂壊人の首元に刺さった。
「グァアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
ナイフを首元に食らった魂壊人は、その衝撃から思わず蓮香を口から落とす。
地面に倒れ込んだ蓮香は意識こそ失っているが、直ぐに搬送すれば恐らく大丈夫なはずだ。
少しの安堵を覚えた刹那、先ほどまでとは比べ物にならない密度の他人の記憶の声が頭の中に流れ込んで来る。
「あああっつ!!!あああああああああああああ!!!」
頭の中に流れ込んで来る気が触れそうになる程の他人の記憶の密度に私は思わず絶叫する。
私は普段カチューシャを模した小型のヘッドギアを装着しているが、今回に限ってそれを忘れた。そのヘッドギアがあればこの声を防ぐ事が出来るだが。キツイ、キツ過ぎる。
私は対策局の隊員だった頃に特殊な訓練を受けているから、まだ理性を保つことが出来ている。しかし、普通の人間であればとっくに気が触れていてもおかしくない。
蓮香を医療機関に連れて行こうと思った矢先、魂壊人がこちらに向き直って来た。
——まだ死んでいなかったか。
致命傷を与得ているはずだが、この状況で起き上がってくるのは厄介だ。頭の中の声は止まらない。早く片付けないと、いくら私でも正気を保っていられる自信はない。
《キェエエエエエエエエエ!!!!!》
聞きたくもない奇妙な声を上げながら、魂壊人は鋭利な刃物の様な形に変形させた自らの腕を振りかざして来た。
現役の時によく見た光景だ。私はそう思いつつ、横に飛び攻撃を避ける。
私を切り裂く事が出来なかった魂壊人の腕は、轟音を立ててアスファルトを切り裂く。
一歩間違えると確実に死ぬ。私は1,2歩助走をつけて魂壊人の頭上に飛び上がる。
こうなれば脳天に直接ナイフを突き刺してとどめを差すしかない!
「ハァアアアアアアッツ!!!!!」
肉に刃先が刺さる感覚が手に伝わる。ナイフが魂壊人の脳天に突き刺さる。
私は空中で後方に身を翻し、魂壊人の正面に着地した。
《キェエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!》
再度不快な雄たけびを上げ、魂壊人が地面をのたうち回る。
頭の中に流れる声がさらに大きくなる。
「あああああっつ、あああああああああ!!!!!」
圧倒的な他人の記憶の濁流。さすがに気がおかしくなりそうだ。
もうダメかもしれないと思ったその時、フッと頭の中の声が止まった。
顔を上げると、天に手を伸ばした状態で静止した魂壊人が、灰の様にバラバラと崩れて行くのが見えた。
「や、やった……終わった……」
私は思わずその場に倒れ込む。声は止んだが、脳が焼けるように痛い。強烈な吐き気もこみあげて来る。
「フーッ、フーッ、フーッ、フーッ、フーッ」
現役の隊員時代に叩き込まれた呼吸法を使う。大丈夫、落ち着いて来た。
私は飛び起きて倒れている蓮香の元に駆け寄る。
「蓮香!蓮香!私だよ!ねぇ分かる!?」
意識が無い。
私は急いでスマホを取り出し、“000”にコールする。
この番号は、除隊した隊員だけが知る緊急通報先の番号だ。
2回コール音が鳴った後に通話が繋がる。通話口から無機質なオペレーターの声が聴こえて来る。
「こちら対策局専門緊急窓口。除隊員番号と要件を述べよ」
「除隊員番号77698。要救助者の緊急搬送を求めます。座標は送信済み。お願い早く来て!!!」
「了解した。数分後に専用車両がそちらに到着する」
私はそのまま電話を乱暴に切る。
思ったよりも時間がかかってしまった。一刻の猶予も無い。
このままじゃ……また大切な人を失いかねない。
「ダメ!こんな事を考えていたら」
私は頭を振って脳内に浮かぶ最悪の考えを振り落とす。
お願いだから早く来て……!私はこの子とじゃなきゃジャズ喫茶なんて出来ないしやるつもりもない!
「もう失いたくない……」
私は両ひざを地面につき、その上に蓮香の頭を乗せる。このままでは寒いだろうと思い、来ていた上着のマフラーを蓮香に掛けた。
その時、遠くから自動車のヘッドライトが近づいて来るのが見えた。
ああ、良かった……間に合った……。
その後はどうやって病院にたどり着いたのか良く覚えていない。
蓮香は専門の治療が受けられる病院に搬送された。
到着後、蓮香は即座に緊急治療室に入った。直前まで私は担架のそばで付き添っていたけれど、意識は戻らぬままだった。『手術中』のランプが点灯する。
私は手術室の近くにある壁際の椅子に腰かけた。張りつめていた緊張の糸がほぐれていくのを感じる。同時に強烈な不安が押し寄せてきた。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫」私は自分に言い聞かせる。
私が魂壊人と接敵し、一発目のナイフが刺さった時に魂壊人は蓮香を落している。
つまり、その時点で記憶の吸収は止まっているから、記憶を吸いつくされてはいないはず。だから蓮香の記憶は無事なはずだ。
しかし、私は医者ではないから完全な判断は出来ない。でも大丈夫だと信じたい。
今はただ蓮香の手術が無事終わるのを待つしかない。
少しでも気を紛らわせようと、私は近くの自販機に向かった。
頭が働かない。目に映る世界から色が抜けて行く。
特に飲みたくもないのだが、私はブラックの缶コーヒーを購入した。
ガコンと自販機から無造作に吐き出されたコーヒーを眺めながら、私はもう二度と魂壊人によって大切な人を無くしたくないと強く思う。
私が対策局を辞めたのは、局員時代に相棒と呼べる程に仲が良く、仕事の相性も抜群だった子を魂壊人によって亡くしたのがきっかけだった。
その子と私は魂壊人を撃退する実行部隊に所属していた。その子はとても蓮香に似ていた。
対魂壊人対策局は、在籍中に優秀な働きをした隊員に、退役後にも個人での魂壊人の撃退を強制させる制度がある。
私は局内でも魂壊人の撃退数がトップクラスだったから、有無を言わさずその制度の対象になった。
この事は蓮香には知られていないし、知られたく無い。
しかし、私が純粋な一般人だったら、今回蓮香の事を助ける事は出来ていなかっただろう。
こんな事ばかり考えていると気が滅入りそうだ。
買った缶コーヒーを手に取り、近くのソファーに腰かけた所でいきなり手術室の扉が開いた。
私は驚いてそちらの方を見ると、中から執刀医がこちらに歩いて来る。
……手術は終わったのか!?
私は缶コーヒーを手から落とし、執刀医の方に駆け寄る。
「先生!蓮香は……蓮香は大丈夫ですか?」
「はい。……手術は成功しました。柳蓮香さんの記憶も無事です」
全身から力が抜け、私はその場にへたり込む。
「良かった……本当に良かった……」
涙が溢れて来る。
「柳蓮香さんにはこのまま入院して頂きます。夏美さんも付き添われますか」
「もちろん……もちろんです!」
「では、看護師が病室にご案内しますので、少々お待ちになって下さい」
そういって執刀医は手術室に戻っていく。
私は立ち上がる。
「先生。本当にありがとうございました」
執刀医はこちらを振り返り、一礼した後扉の向こうへ消えた。
——か。——るか。——ねえ流花——。
「……ん、んんん?」
重い瞼を開け、顔を上げるとそこにはベッドに寄りかかり心配そうにこちらを見る蓮香の姿があった。
どうやら蓮香が寝る病室のベッドの端で突っ伏したまま寝てしまったようだ。
……蓮香が起きている!?
「蓮香!具合は……具合は大丈夫なの!?」
「大丈夫だよ。どうしたのそんなに切羽詰まって。昨日帰ってる途中に貧血で倒れちゃっただけだよ。先生もそう仰っていたし」
「私は、私は誰だかわかる?」
蓮香は笑いながら答える。
「何言っているの。流花でしょ」
「今私達がやっているお店は?」
「ジャズ喫茶」
ヤバい……泣きそう。
最高だ。最高の状態で蓮香は目覚めたんだ。
記憶は問題ない。襲われる前の蓮香だ。しかも魂壊人に襲われた時だけの記憶は抜け落ちている。
理想的な回復。
本っっっっっ当に良かった!
泣きそうになるのを私は必死に堪える。まだ直ぐに退院する事は出来ないが、そう遠くないうちにまたお店に出る事ができるはずだ。
ふと私は気づく……今何時だ?
急いでスマートウォッチに目を落とすと、なんと営業時間まであと2時間を切っていた。
「いっけない!私お店行かなきゃ!」
「私も行く!」
「何言ってんの!蓮香はまだ入院してなきゃダメ」
「でもお店一人じゃ大変でしょ……」
「大丈夫。蓮香が戻ってくるまで妹の瑠璃が手伝ってくれるから」
私は続けて言う。
「だから万全の状態にしてまた戻って来て。また元気な顔お客さん達にも見せてよ」
「お店終わったら毎日お見舞い来るから」
蓮香は少し残念そうな表情をした後、直ぐにニッコリと笑って「分かった」と答えてくれた。
「じゃあ今日お店終わったら早速行くね!」
身支度を終えた私は病室の入り口に向かって歩く。
——あ、そうだ。
「何か欲しい物あったら言って。お見舞いの時買って来るから」
「ありがと。後でチャットするね」
蓮香は嬉しそうに手を振っている。私も手を振りながら病室を後にする。
『もう少ししたらまた蓮香と一緒にお店が出来る』
その事実がただただ嬉しかった。
このどうしようもない世界に彩と潤いが戻って来るのを全身で実感する。
今日も頑張れそうだ。
ここまでお読み頂きありがとうございます!
これが産まれて初めて書いた小説なので緊張しておりますが、無理ないペースで書いて行きたいと思います。