第九節 : 嵐の魔女
第九節 : 嵐の魔女
愚直と誠実を尊しとする真実の神の教えは善良な人々にとっては日々の営みの中でも実践できる現実的な教義でもあった。真実の神殿が突出した信徒の数を誇っていたのもこの教義が人々にとっても当然であって欲しいと思える物だったからという所が大きい。
つまりは赤竜亭のような荒くれが集まる冒険者酒場のような場所においても、真実の神の信徒は少なからず居るという事でもあった。だから伝説の聖人を前にして思わずひざまずいて手を合わせた者が何人もいたのはある意味当然の事だった。
だが女戦士はそんな状況にちょっとばつの悪そうな顔をすると頭を掻いた。
「やめておくれよ、そんな御大層な名前はとうの昔に捨ててきたよ。今の私はただのフォルセリアさ。」そう言いながら近くで膝をついていた者の手を取ると立ち上がらせる。
それを見て他の者も仕方なく膝を払って椅子へと戻っていった。さすがに酒場中回って手を取って貰う訳にはいかないだろう、あいつ羨ましいな、とは思ったが聖人様が迷惑されるのなら致し方ない。
名を捨て神殿を去ってもなお、真実の神は彼女を祝福し続けていた。彼女を敬うのにはその疑う余地など無い事実だけで十分であった。
「フォルセリア様、御目にかかれて光栄の至りです。この赤竜亭に御来訪戴きました事、我ら一同心より歓迎致します。」
普段は気さくな印象を心掛けている銀翼の口調にも敬意が満ちていた。最早警戒心など誰も抱いてはおらず、赤竜亭の冒険者達も歓迎一色となっていた。
「ご丁寧過ぎて痛み入るけど有難う。改めまして、流れの戦士フォルセリアだ。うちの子達の紹介はまた後で構わないかな? 何しろ寒空の中夜通し歩きっぱなしでね、腹がとにかく空っぽなんだよ。」
「荷物を無くして途方に暮れてた旅人さんに食料みんな渡しちゃうからそんな事になるんだけどね~。」くすくすと笑いながら彼女に容赦なくツッコミをいれたのは魔女の幼女だった・・・幼女連呼するのも字面が悪いので以後魔法幼女、じゃなかった、ちっこい魔女と呼称する。
このちっこい魔女さん、酒場に入って来てから随分とご機嫌の様子だった。エナン君を見るまでは死んだ魚のような目をしてたのに一体何の心境の変化があったのだろうか。
「それは失礼しました。この酒場の裁定者を務めている銀翼と申します。何か不自由あれば御相談下さい。」銀翼はうやうやしく礼をした。このイケメンにこれをされたら大抵の女性はいちころなのだがさすがは聖人様、揺らぎもしなかったのはさすがである。
「やっぱりあんたが銀翼かい? 名前だけなら私でも知っていたよ。」フォルセリアが破顔一笑した。「すでに親父さんを上回る腕前らしいじゃないか、お見知り置きを御願いするよ。」
いえそんな事は、と銀翼が謙遜していると『実力も性格も顔も全部上だぞ!』と彼のファミリアの面々から声が飛んで酒場が笑いに包まれる。
立ち話が長くなりそうだと思ったのか、あのちっこい魔女がすたすたとその場を離れ空いている席へと歩き出した。五人がまとまって座れそうな空きはあの寒い角の席だけだった。それでも図体の大きなフォルセリアが座るとかなり無理がある、だがその隣のテーブルいるのは今はエナン一人だった。そこに一人座れば余裕が出来る。
ちっこい魔女は真っすぐにエナンのテーブルへと歩いていった。
「ねえ、ここいい?」ちっこい魔女は空いている角席ではなくエナンのテーブルの椅子を掴んで言った。もちろんエナンに、である。
「ん?いいですよ。このテーブルはいつも俺一人だし。」エナンは普通に答えた。何度も言うがエナンは気配とかそういう物を読むのは疎い。だから彼女が他の者達が思わず身構えるような凄まじい魔力の持ち主だという事にも全然気が付いていなかった。ちっこい魔女はその返答を聞くと速攻で椅子に飛び乗った。
「一人でこんなに食べるの?」それはエナンのテーブルの上に置かれたままの大皿の残骸を見ての質問だった。もう皿の料理はほぼ無くなっていて、串物が二本ほど残されているだけだった。
「あーそれは今日は宴会だったから・・・銀翼さんに貰った料理なんだ。ほとんど他の人に食われちゃったけど。」食い物の恨みは恐ろしいからみんな気を付けた方がいい。
「じゃあこれ貰う。」そんなエナンを気にもせずちっこい魔女な皿の上に残った串を両方つかむとかぶりついた。
「ん・・・ここの料理美味しい。」一生懸命頬張りながらちっこい魔女が嬉しそうに目を細めた。エナンはぼーっとそれを見て無邪気で可愛いなどと盛大に勘違いをしていた。酒場の他の人間には飢えた猛獣が襲来しているようにしか見えなかったのだが。
あっという間に二本とも平らげたちっこい魔女は一息つくとエナンに訊いた。
「ねえ、隣のテーブルも空いてる?」
「空いてるよ。そこ風が入ってきて寒いから誰も座らないんだ。大丈夫?」
「うん、法囲するから大丈夫。」
ちっこい魔女がそう言った瞬間、エナンのテーブルまで含めたその一帯が春のような心地よい暖かさに包まれた。なにか術式を使った様子も無く一瞬での出来事だった。
「すごいな、これ君がしたの?」エナンが素直に感心しているのを見てちっこい魔女は少し不思議そうな顔をした。「自分じゃしないの?」と訊かれたエナンは笑いながら答えた。
「俺は魔法は使えないよ。練習はしてみた事あるけど、全然才能なくってさ。」
彼女がエナンの魔力を察して魔術師だと勘違いしていた事は大体予想できた。がっかりさせちゃったかなと思って様子を見るとそうでもなかった。むしろ一層面白そうな顔をして目をキラキラさせているではないか。
「ねえねえ。じゃあ今何やってるの?」
「仕事の事? 鉱石堀師って言って珍しい金属とか鉱石を探してるよ。」
「ふーん、ねえそれ見せて!」
子供扱いされているのを知ってか知らずか、彼女が次に興味を示したのはエナンの大事な収納箱だった。それはエナンにとっても大切な人の形見のような物である。さすがに子供のおもちゃにされるのには抵抗があった。
「これは、駄目だよ大切な物だから。」
だがそれを聞いた途端、ちっこい魔女の機嫌が急降下し始める。
「え~少しくらいいいじゃない、ケチ!」
明らかに機嫌の悪そうな声を上げるとテーブルの脚を蹴飛ばした。だがその音にびくっとしたのはエナンではなく周りのテーブルに居た冒険者達だった。
やめろぉお~!そいつを怒らすなぁ~と周りの冒険者達が心の中で悲鳴を上げる。赤竜亭を吹き飛ばすつもりか、頼むから爆発させないでくれ・・・という皆の願いも空しくエナンはちっこい魔女の要求を再び却下した。
「ごめんね、駄目なものはダメだよ。」
エナンは諭すように要求を拒絶したが、それで大人しくなるようなちっこい魔女ではない。ガタガタと椅子を揺すると自分の頼みを聞いてくれないエナンへの怒りを露わにする。
「ぶぅ~~~!! バカァ! 毛糸モンスターの意地悪!!」
毛糸モンスターとは着ている毛織物のサイズがいささか体のサイズに合っていないので勝手につけられたようだ。縦幅はともかく横幅がかなり余裕が有り過ぎた。
「どうしても見たいの! 言うこと聞いてくれないならこうだっ! えいっ!!」ちっこい魔女はそう言うと右手を開いてエナンに向かって突き出した。普通の子供ならおまじないでもかけているような他愛もないポーズでしかなかったろう。だが、それを見た酒場の一同の顔が引きつった。その手から魔法ではなく、魔力そのものの強烈な波動が放たれたのを感じたからだった。
『やりやがった!』魔術師シガノーはそれを見た瞬間そう思った。
魔力は決まった姿を持たないエネルギーだ。それは持ち主の意図によって様々な性質に変わる。そして攻撃的な意図で放たれた魔力は生物にとっては非常に有害なのだ。
とはいえ、シガノー程度では純粋な魔力だけで人を殺すような真似はできない。同じ事をやってもせいぜい目まいを起こさせる程度だろう、魔力を持たない人間相手でも。だが人間の中にもごく稀に生まれながらにして尋常でない魔力を持った者が現れる。そうあのちっこい魔女のような存在が。
そういう存在は時に“母殺し”と呼ばれる。赤子に善悪の判断が出来るわけもないし魔力を制御する事など不可能だ。ぐずったりしただけで攻撃的な魔力の波動をまき散らし、その影響はまず最初に一番身近な母親の体調に現れる。
酷い時には出産時に亡くなる場合すらあるが、別に赤子に殺意があるわけではないのでそこまで酷い事は稀である。しかし子育てを始めるとまず間違いなく悪影響が出始める。
突然原因不明の体調不良が起こり体力が見る見る失われていくようになると、そのまま手を打たなければ間違いなく遠からず死に至る。金持ちの家庭などでは母親の代わりに子育てをする乳母がそのような症状で次々と倒れていく。
そのような赤子は忌み子とされ、魔力の素質を持った子供を望む魔術師の所へと養子に出されたり、酷い時には野山に捨て子として置き去りにされたりする事もある。そうして普通ではない人生を育っていく子供たちが普通の感性を持ち合わせていないというのもある意味必然であった。
そしてちっこい魔女の手から放たれた魔力の波動は、常人なら間違いなく即死する程の強烈な物だった。それはエナンを直撃すると、その背後にある店の壁までみしり・・・と軋ませた。
フォルセリアはその様子を見て血相を変えた。いや、それよりも前にちっこい魔女の機嫌が急変したのに気が付き止めようとしたのだが真言を直前に使ったばかりで力を発動させる事が出来なかったのだ。いかな真言のフォルセリアであっても神の力はそうそう使える物ではなかった。
血相を変えたのはフォルセリアだけではなかった。銀翼もおやっさんも、何が起こったのか理解できたこの酒場にいる人間はほぼ全員、エナンが死んだと思っていた。
フォルセリアに罪はない、しかし連れてきた仲間がいきなり酒場の中で殺しをしたとなれば最早是非もない・・・そう皆が思った時、エナンの間の抜けた声が聞こえた。
「はいはい、お友達になれたら言う事聞いてあげるから我慢してね。」
「・・・・・・・。」
「はぁ?!!」
いやお前何言ってんだ今殺されかけただろう、ってかなんで生きてんだよおかし過ぎるだろ色々と。その状況に酒場の皆が騒然とする中、ちっこい魔女だけは満面の笑みを浮かべ興奮したように顔を上気させていた。
「何これ!? おもしろい!!!」
ちっこい魔女はそう叫ぶとさっきのよりさらに強烈な一撃を放った。今度はエナンの後ろの壁にヒビが入った音がした。
「あぁあ~っ?!」酒場の常連達から悲鳴のような声が上がる。だがエナンは無事だった。後ろの壁が突然ひび割れた事にびっくりして後ろを向くと、その後頭部に二発三発と追い打ちが叩き込まれ壁に塗られた漆喰にクレーターが掘り込まれる。
「何しさらすんじゃワレぇ!!!!」 おやっさんの怒号が赤竜亭に響き渡った。
だがちっこい魔女はもう完全に興奮状態で何も聞こえていなかった。さらなる一撃を見舞うべく魔力を練り始めたその時、鬼の形相をしたフォルセリアがやってきた。
「ミュリッタ、そのノックアウトごっこは知らない人間にするんじゃ無いって言ったはずなんだけどねぇ」そのフォルセリアの怒りのオーラを感じてちっこい魔女はようやく正気に戻った。
「だ、大丈夫だよ。この毛糸モンスター平気だから・・・」
「そういう問題じゃないんだよ、このお馬鹿!」
ちっこい魔女の脳天にフォルセリアの鉄拳が落ちた。ぎゃんと犬のような声をだすとちっこい魔女はテーブルの上で頭を押さえてのたうち回る。
「痛い~酷い~」わざとらしくそう喚くちっこい魔女を無視してフォルセリアはエナンの顔を覗き込んだ。そしてエナンが無事なのを確認するとほっとした表情にもどった。
「大丈夫なのかい?兄さん。うちの馬鹿がとんでもない迷惑かけちまったね・・・本当に申し訳ない。」
「いえ、俺は全然平気というか、それより壁が。」そう答えたエナンの顔が引きつった。フォルセリアのさらに後ろに、鬼の形相を超えた領域に突入したおやっさんの顔が見えていた。
「フォルセリア、今日のところはあんたの顔に免じて叩き出すのは勘弁してやる。そのちっこいのがこれ以上馬鹿しないように頼むぞ。」
「すんません、親父さん本当に申し訳ない。きっちり直して弁償させますので今日だけは見逃してやって下さいどうかご勘弁を何卒オネガイイタシマス・・・」
「・・・次やったら空井戸の中で逆さ吊りだ、覚えとけ。」
かくしてちっこい魔女ミュリッタは鮮烈な酒場デビューを果たしたのであった。