第十五節 : 奈落への逃避
第十五節 : 奈落への逃避
ラブダが蘇った時エナンが発した第一声は『神様、ありがとうございます』だった。
なんでそうなるんだろうと自分でも思った。でも、嫌な気持ちはしなかった。
自分を包むこの世界に満ちる無限の可能性、幸運との巡り合わせもまた人知では計り知れない奇蹟に等しかった。
世界に感謝する時、人はそれを神と呼んでしまうのかもしれない。エナンはラブダの復活が自分の力だけで為されたものでは無い事を悟っていた。
もし、ミュリッタに出会っていなかったらエナンはまた大切な人を失っていただろう。そしてその出会いをもたらしたのもまた数々の幸運のなせる結果だったと今なら分かる。
エナンは自分以外の何かに感謝せずにはいられなかった。
泣いて、泣いて、泣き尽した。
最後はラブダですら迷惑そうな顔になるまで泣き倒してようやくエナンはラブダを解放した。
「エナン、泣きすぎ。」泣き虫のラブダにそんな事を言われてしまいながらエナンはラブダの体を改めて確認する。恐る恐る、ラブダを死に追いやった腹の傷跡に目を向けた。
驚くべき状況が目に入る。まるで穴の開いた鍋を鋳掛けたように傷口の周りを黄金が覆っていた。まるで木の根のような黄金の紋様が傷口を中心にして広がっている。そっと触ってみると金属よりはしなやかだが明らかに肌とは異なる滑るような触感がした。
そんな傷口をまじまじと見つめるエナンを前にラブダは赤面していた。
引き裂かれた服はもう体を覆ってはいなかった。だが裸同然のラブダの腹部に顔を近づけて覗き込むエナンに対しては恥じらいはあっても見られる事を拒絶する気持ちは全く無い。
ラブダは自分が死んだ事を実感していた。体と魂が切り離された刹那、ラブダはそれをはっきりと自覚していた。
黄金の光に包まれ再び目覚めた時もその記憶ははっきりと残っていた。だからラブダには今の自分の命がエナンに与えてもらったものだいう事を言われずとも理解していた。今すぐにでもエナンに身も心も全て委ねてしまいたかった。
だけどやっぱり・・・とラブダは思った。
「エナン・・・ここじゃ駄目・・・」ラブダは消えそうな声で囁いた。
今いるのは輝くような朝日に照らされた往来のど真ん中だった。
物陰に潜むどれだけの目に見られ続けたかなど想像するのも恥ずかしかった。
ラブダが裸同然の姿である事にようやく気が付いたエナンは慌てて自分の毛織物を脱ぐとラブダに着せ、彼女を背負うと逃げるように一目散にその場所を後にした。
心も体も軽くエナンは自分の棲家、斜面の上に見える大井戸跡へと駆け上って行った。
だがそれすらも、世界の、神の差配だったのかもしれない。
エナンがその場を去った直後、目つきの悪い輩の集団がそこへやって来たのは決して偶然ではなかった。彼らは斬り刻まれた暴漢の男の残骸を見ると血相を変え、辺り一帯を調べ始めたのだった。
そんな正に危機一髪という状況だった事をエナンはまだ知る由もなかった。
大井戸跡に着いたエナンは慎重に仕掛けたトラップを確認していた。
自分が留守の間に侵入者があればすぐに分かるように色々と仕掛けはしてあるのだ。用心深さは今一つのエナンだったがそういう事には長けていた。
そして何も問題ない事を確認すると、エナンはちょっとためらいながらラブダを棲家へと招き入れた。
人の棲むような場所じゃない、それはエナンも自覚している。
どうみても動物の巣でしかないその場所は蟻の巣のような通路と狐の巣穴のような寝床で出来ていた。新しい仲間を座らせる場所にも事欠く有様だった。
さすがに自分の寝床に連れて行くのは恥ずかしくてエナンはその奥、大井戸の底へと向かう階段の上にラブダを案内する。そこはまだ建物であった面影と開けた空間の残っている場所だった。平時エナンもその場所は作業場所として使っているのでそこには石材を積み上げて作ったテーブルと、石のベンチが何故か二つ用意してあった。難点は光が入らない事と換気が悪いので火を使えない事だが今ならまだ耐えられない程冷え込んではいないはずだった。
ラブダに渡した毛織物の代わりに皮の上衣を着て寝床から毛布をあるだけ持ち出す。迷路のように入り組んだ通路を抜けてラブダを階段へ連れ込んだエナンは、据え付けのランタンに明かりを灯した。それは魔晶石を使う空気の汚れないランタン、地下の洞窟深くに潜る鉱石堀師には必需品の魔道具だった。
オリジナルのランタンは収納箱に今も入っているもっと小さな物だった。親方の形見の一つだったがエナンはそれを研究して複製に成功していた。かなり大きく見た目も不格好だが明かりとしてはきちんと機能するエナンの自慢の一品だ。
屑石と言われる弱い力しか持っていない魔晶石は今でもそれなりに見つける事が出来る。そんな弱い魔晶石でも使えるこのランタンは魔道具としては現在でもかなり実用的な部類に入る物だった。
量産して売り出せば結構な金になるはずなのだがそこまで思い至らぬところがエナンの悪い所である。根っからの興味本位バカというか知識の応用が趣味の範囲から進展しないダメ研究者街道を現在も驀進中である。
現在研究中なのは水を注ぐと三分で食べられるようになる乾燥シチューである。古代には似たような物があったとも言われているが・・・
エナンは持ち出した毛布をベンチの上に敷いてラブダを座らせた。そしてその上からもう一枚、毛布を羽織らせてやる。
残っている毛布はあと一枚だ。エナンは暫し思案した後、その毛布を体に巻いてラブダの足許の床に座った。
激情に翻弄された反動と疲労が一気に押し寄せてきた。心身共に限界が来た事を悟ったエナンはラブダにそれを告げると床の上に倒れ込むように眠りに落ちていった。
そんなエナンの寝顔をラブダはしばらく眺めた後、自分もエナンの隣に横になるとベンチに敷いてあった毛布を二人の上に被せて潜り込んだのだった。
だがそんな幸せな眠りも長くは続かなかった。
エナンは騒々しい鳴子の音に叩き起こされた。
目を覚ますと目の前にラブダの寝顔があった。
とりあえず彼女が無事な事には安心したが状況は楽観できなかった。
その鳴子はエナンが仕掛けた偽の入口が開かれた事を告げる警報だった。
「ラブダ、起きて・・・」
そう彼女を揺さぶるとラブダも目を覚ました。だが、余程熟睡していたのかまだ意識が朦朧としている。だが次の言葉を聞いて眠気は吹き飛んだ。
「侵入者だ、さっきの奴らの仲間かもしれない。」
エナンの予想は当たっていた。エナンの棲家に押し寄せたのはあの二人組の暴漢の仲間達であった。
あのならず者達の正体、それはこの街では悪名高いごろつき共の集団である“百狼戦団”なるファミリアの構成員だった。
ファミリアといっても銀翼の元に集った仲間達のファミリア、その名も“銀翼”のように心から信頼し合う仲間だけで創られた集団ばかりではなかった。
ファミリアと名乗ってはいてもその実態は不良やならず者の集団、盗賊団と何も変わらない反社会的集団でしかないものも多数存在している。都市の外までは法の及ばぬ辺境ではそのようなごろつき共が数に物を言わせて好き放題に振る舞っている事も珍しくはないのである。
“百狼戦団”はこの街に巣食うそんなごろつき共の集団の中でも最大級の規模を誇るファミリアだった。構成員は公称二百名以上、ありとあらゆる手頃な犯罪行為に手を染めて近隣の住人を苦しめていたためその評判は非情に悪い。
そんなごろつき達があの廃墟に来ていた理由は“人狩り”・・・街から追い出された浮浪児や街に入れず廃墟に住みついた難民流民を襲って身ぐるみ剥いだり、誘拐して慰み物にしたり人買いに売り飛ばしたりする、つまりは外道の所業である。
あの場所に後から来たならず者達はそんな人狩りに出た下っ端共の様子を確認しにきた監督役だった。彼らはエナンに斬り刻まれた仲間の死体を見ると一斉に周囲を捜索した。もちろん下手人を見つけて血祭にする為である。
もう一人いたはずの仲間の姿はどこにも無かった。辺りをくまなく探した彼らが見つけたのは赤竜亭の焼印の入った空の革袋といくつかの焼け焦げた跡だった。
二人の得体のしれない殺され方にならず者達は動揺した。
そんな中、エナンとラブダの絡みを見ていた一人の浮浪児がならず者達に見つかり捕らえられた。その口からエナンの存在と行先を知った彼らは首領に急ぎ状況を伝えると増援の到着を待ったのだった。
仲間の一人は跡形もなく灰にされたという事だった。地面に残された焼け焦げた足跡はその証言の正しさを物語っていた。
相手は強力な魔術師、そう考えると彼らの実力では数に頼らないと不安だった。
そして時が経つ事二時間余、二十名近くに増えたならず者達は一斉にエナンの棲家へ押し寄せてきたのだった。
鳴子の音が変わった。それは本物の入口に侵入者が入って来た事を告げていた。
エナンはラブダに階段を少し下っているように指示すると巣穴からの通路の入口へと駆け寄った。そもそも有事には地下水脈側へと退避する事を想定している。この階段上のスペースは有事における防衛ラインでもあった。
壁に掛けたボウガンを手に取ると鉄の矢をセットする。通路出口の陰に潜み侵入者の様子を伺う。
「さっさと出てこいや、コラァ!!」
侵入者達が複数、怒号を上げながら雪崩れ込んできた様子だった。侵入しながら怒鳴り散らすなど素人の行為にしか思えぬが複数名いるのは厄介だ。そう思った時曲がりくねって先の見通せない通路の奥が明かりを受けて赤くゆらめいた。侵入者が暗闇に恐れをなして明かりを灯したのだ。
馬鹿丸出しだ、と呆れた。相手の不意を襲うなら息を潜めて暗闇の中を進むほうがはるかに有効だ。こちらのランタンはすでにラブダが持って階段を降りている。明かりを持って進んでくる連中などただの的でしかない。ボウガンの狙いを通路の奥に定める。
通路の奥、4メートルほど先に人影が現れた。エナンは間髪入れずボウガンを放つ。男が一人悲鳴を上げて倒れた。
再び怒号が響くと明かりが消えた。ようやく狙い撃ちされる危険に気が付いたのだろう。そして奥から一人の男が飛び出してきた。
恐らくは侵入者の中では戦い慣れた手練れだったのだろう、今度は良い判断だった。エナンが次弾を装填する前に一気に距離を詰め懐に飛び込もうとしたのは最善の手段だったかもしれない。
だがその行動はエナンにでも簡単に想像が出来るものだった。だからそもそもエナンは次弾を射ようなどとは最初から考えていなかった。
エナンがボウガンを放った直後に取った行動は、頭の上にある壁龕に置かれた大きな石材を引き摺り落とす事だった。それには引き落とす為の紐が巻かれてエナンの目の前に垂れ下がっていた。
そして石に巻かれていたのは紐だけではなかった。石には髪の毛程の太さの鋼線が何本も結び付けられていた。通路の壁や天井に泥で塗りつけられていたその鋼線は石が引き落とされるとその重量に引っ張られて泥から飛び出し、通路の中に網の様に張り渡された。
その鋼線はあの暴漢を切り刻んだ物と同じ、魔力付与師としてエナンが作った数少ない作品の一つ、どんな強い力でも切れた事のない蒼灰鋼の糸だった。
刃のような細さの鋼糸の網に全速力で突っ込んだ男は断末魔の悲鳴を上げながら切り刻まれていった。丈夫な甲冑でも着込んでいれば勢いを止められだけで済んだかもしれなかったが、革の胴当てが半分ほど切り裂かれてようやく止まった時にはすでに男は全身血だらけとなり、蜘蛛の巣に絡めとられた虫のように痙攣していた。
侵入者達がパニックになる。再び明かりが灯され、何が起こったのかを確認しようとした侵入者達はそのむごい有様を目にすると悲鳴を上げて一目散に逃げ戻っていった。
だが、あまりの恐怖からか逃げ出した侵入者の誰かが通路に火を放った。それはラブダが火攻めにされた時に使われたあの油瓶による物だった。
取り残された仲間すらお構いなしに放たれたその火は追撃を恐れた誰かがパニックになって放った物だった。だが一度に多数の油瓶を投げこんだせいで凄まじい炎がエナンがいる通路の出口まで一気に吹き出した。恐らく火を放った本人も無事ではいられなかっただろう。
非常にまずい状況になった。ぐずぐずしていれば内側に閉じ込められたエナン達はあっという間に煙に巻かれてしまう。大慌てでその場から退避すると階段を駆け下ってラブダと合流する。そして足の悪いラブダを背負うと深井戸の底へと向かって全力で階段を駆け下りていった。
目指すは深さ100メートルを超える奈落の底、地下大水脈跡への入口だった。最早進める道はそこにしか残されていない。だがエナンは半年以上もこの地下水脈を探索していたが地上へと抜ける道を未だ見つけた事がなかった。
そこは自然の造った迷宮、一度迷えば命さえ危うい未知の世界だ。いざ地上への脱出を目指さなくてはならなくなった今、それは想像を絶する難関だった。
急速に前途が暗くなっていくのを感じていた。