四十話 気軽げな殺意
部屋に飛び込んできたのは、ブレダンの現在の婚約者、アナベナだった。
「聞いて下さい、お城の人たちが意地悪で、私の怪我を治してくれないんです」
彼女も神殿の崩壊で、体中に怪我を負って、包帯が巻かれている。そう、人として出来る治療はされているのだ。
彼女が求めているのは神秘による、完全な現状回復を指しているのだろう。
聖女なのだから、本来は回復神術が使えるはずだと、誰もが思うところだ。しかし、王太子の婚約者という肩書きが、その疑問の声を辛うじて仕える者たちの喉奥に押し止めている。
ただ、その王太子の評判も現在下り坂で、何時までも効力がある者でもないが……。
「アナベナ、君は聖女だろう、自分では治せないのかい?」
「そんなこと、出来ないわ。痛くて痛くて、祈りに集中出来ないもの」
「ああ、そうなのかそれは困ったな」
神官の多くが死に、そもそも少なかった神術が使える人員が、王都には居なくなってしまっていた。でなければ、王太子であるブレダンの怪我が、癒されていないままであるはずが無い。
マリーが居れば、こうでは無かった。
この程度の怪我など、直ぐに治させる事が出来た。何人でも、いくらでも……。
しかし、今となっては彼女の帰還は、ブレダンの死と同義だ。
「……それとも関係しているんだが、君の姉を呼び戻すという話が出ているんだ」
「はぁっ! なんで、どうしてっ……ですか、ブレダン様。お姉様が帰ってくるなんて、私嫌です!」
「解っている、私も嫌だよ」
彼女が戻れば、自分は勿論、腕に抱きしめた愛するアナベナも殺されてしまうだろう。
何処までも私たち二人の邪魔をする、やはりとんでもない女だったのだと、ブレダンは歯がみした。
「けれど、王命なのだ従わなくては……」
「そんな、どうにかならないのですかぁ」
ブレダンとしても、マリーを妖精から出来るだけ遠ざけておきたい。ただ、その方法が解らないだけで。
すると、アナベナは暫く思案し、そして口を開いた。
「お姉様が送られた、北の修道院はここから遠いのですよね……」
「まあ、そうだね」
「長旅になりますよね」
「そうなるね」
それが如何したというのだろうっと、ブレダンは内心で思った。
ただ、自分に縋り付き、上目遣いで見詰めるアナベナの潤んだ瞳と、その下に見える豊かな曲線の素晴らしさは即座に理解できたが。
「そういう長旅には、危険がつきものだと、お聞きしますわ。……何かが起きて、お姉様が王都に辿り着かなければ良いのにって、私は思うのですけれど?」
「ああ、なるほど!!」
素晴らしい名案を授けられたと、ブレダンは一気に表情を明るくする。まさに逆転の発想、むしろ一度聞けば、それ以外の選択肢は無いと思えるほどだ。
来ると拙いのなら、来させなければ良い永遠に。
「それは良くある事だよな! そうなってくれたら良い」
「はい、そう思います」
可愛らしい婚約者は、解っていて言っているのか、純粋に都合の良い事が起こるようにと、祈っているのかブレダンにはいまいち解らなかった。だが、都合の良い事が起こるように、自ら計らう事は出来る。
事故が起こり、マリーが居なくなってしまえば、仕様が無い。神霊だとて、知らぬ土地で事故が起こったとなったら、その内諦めるだろう。
なにより、これで死なずに済む。
「怒りが、暫く治まらないとしても、これ以上悪くなる事は防げるな!」
方針が決まれば、動く事が出来る。聖女のためなら何でもする者、報酬次第で何でも引き受ける者、どちらも心当たりがある。
そうして、マリーの迎えにその者達を、手配する事も王太子のブレダンには難しい事では無い。
「何とかなりそうだ、有り難うアナベナ!」
「いいえ、私も嬉しいです。それで私の怪我は……」
直ぐに王の命令に従う形で、息の掛かった貴族を向かわせる。
貴族にも犠牲者が出ていて、あまり能力の高い者を行かせる事が出来なかったが、修道院で孤立しているはずのマリー一人、問題ないと送り出した。
それと同時に、王都では沸き出した水を川に流すため、緊急の排水路の工事が行われる事になった。王都は元々水の都、水路が多少増えるくらいなんて事は無いはずだ。ブレダンは、これで状況が落ち着く事を願った。




