十五話 消えた聖なる印
祭壇と上に置かれていた、捧げ物や花、香台に燭台や大精霊神の聖印が、大きな音を立てて投げ出される。川辺に咲いていた小さな花々がなぎ倒され、美しい川の流れが、香や油によって穢れてしまう。
「こら、駄目じゃ無いか」
「だってぇ」
自由奔放に振る舞う婚約者を、ブレダン王太子は可愛らしいと思っているらしい。形ばかりの注意をしつつ、腕の中に抱き寄せた。
この様子に、周囲はそれ以上何か言う事が出来なくなってしまう。勿論、王太子という壁が無ければ、批難されて然るべき行為なのだが。
「聖印が」
それでも神官は、転げ落ちたそれらを、そのままにする訳には行かない。
急いで聖印だけでもと、川の中から拾い上げようとする。しかし、屈んだ手の先で、大ぶりの金属の塊であるはずのそれが、水の流れに運ばれ掻消えた。
不可思議な現象に、慌てて神官は叫ぶ。
「大精霊神様の聖印が、聖印が川の中に、消えてしまいました!」
「なに!? お前たち、探せ!!」
神殿に用意させた、由緒あるものだと解っていたので、ブレダン王太子も流石に焦り、警護のために連れてきていた騎士などに探すように命じる。
王太子の命令だ、誰も何も言わずに従う。本当に小さな小さな川に、男たちがザブザブと大勢入って、黙々と川底を浚い始めた。
「あーあ、こんなつもりじゃ無かったのにな」
アナベナにとってその光景は興ざめだ。
つまらない上に、ちょっと大事になってしまい、彼女は口をへの字に曲げる。
今日は姉に代わって妖精を呼び出し、周囲の関心と、信仰を一身に浴びる予定だったのだ。それは想像するだけで、彼女の自尊心を高めてくれていた。
だと言うのに、肝心の本番で失敗してしてしまうとは。
「お気になさらずに、我が騎士団所属の者たちです。すぐに見つけ出しましょう」
「アナベナ様、残念でしたが、みんなでピクニックと言う事にいたしませんか?」
その様子に気が付くと、騎士団長子息と魔術師団長子息がそう言った。
美貌の貴公子である二人に慰められると、直ぐに彼女の機嫌は回復する。何時までも、ここでくよくよするよりも、その提案に乗る方が楽しそうだと思ったのだろう。
「そうね。お弁当を用意させてあるのだったわ」
「それは楽しみだ。ここは騎士たちに任せて、お昼にしよう」
そう気軽に言うとアナベナと王太子は、貴族の子息子女たちを引き連れ、表の庭園に移動して行った。
「これは、大丈夫なのでしょうか?」
「だ、大丈夫でしょう。大丈夫で無ければ困ります」
暢気な子供たちの背中を見送り、その場に残った神官が、国王の側近に尋ねられ、しどろもどろに返答する。
お互いに王家に旨い汁を吸わせて貰っている身、大丈夫で無くても反論する事も出来ないが、濁った川を見ていると何とも不安になった。
神官も側近も、ここでアナベナとその姉が、神霊と会話をする姿を何度か見ている。
それは無知な子供が、国に都合の悪い事を言わないように、監視する為であったが、そもそも実際に人と神霊が関わる事は少ない。
「このまま、このままならば、大丈夫のはずだ」
姉の方が、放逐された事を知られないためにも、このまま出てこない方が平和なのだ。神官としてはむしろ、神霊に政や神殿に直接関わられると都合が悪い。
王家の強権に賄賂、彼らは間違いに気付きながらも、色々な事を計らってきた。それを断った者は全員、何らかの犯罪が暴かれ裁かれ、辞職に追い込まれ居なくなった。
自分たちの所為では無い、何度も心の中で責任転嫁する。その利益に浴しながらも、断れなかったのだから全ては王家の所為であると。王太子も今の聖女様も大丈夫だと言ったから、この場を設けたのだと。
そう、以前の聖女を偽物であると認定したのも、彼らの要望を受けてであったのだ。
「ええい、まだ聖印は見付からないのか!」
「申し訳ありません」
結局夜になるまで捜索したが、大精霊神の聖印が見付かる事は無かった。
仕方が無く、王太子は新しく聖印を作らせると、公には元の物が見付かった事にして神殿に戻し。関係者にはまた賄賂を渡して、黙らせる。
表面上が取り繕えば、構わないだろう方針は何時もの事。黒も白くなる、真実など気にする者は誰も居ない。
ただ、その聖印を神殿に納めた時から、徐々に妖精の宿る川は黒く濁っていったのだった。




