三章1 『静かなエンジュ』
緩慢に意識が覚醒していく感覚。
これは……いつも暴走して、無理やり眠らされた時の後の目覚めによく似た感じ。
タールの海から浮上してくるような、寝起き。
いつも忙し気に靴のつま先が床を叩く響きなり、バリバリと砂糖を絡ませた落花生を噛み砕く音なり、誰かと苛立ちのこもった声で話す声なり――言うまでもなく、全部エンジュのものである――が聞こえてくるのだが。
考えている内に、意識がはっきりとしてきた。
目を開くと、見覚えのある天井。確か……軍の宿泊施設のものだったっけ。
「目が覚めたか」
声のした方を見やると……。
「なんだ、いたのか」
エンジュが俺の顔を覗き込んでいた。
「なんだとは失礼だな」
「悪かったな。今の育て親の教育があまりいいものじゃないんだ」
「ぶっ飛ばすぞ?」
額にぶっとい青筋。笑みを浮かべているが、目はマジだ。
「冗談だって。そんなに怒るなよ」
「ふんっ」
エンジュは憤懣遣る方ないといった様子で丸椅子に腰を下ろした。
その横でティアが小さくなって座っていた。
格好は軍で借りたのだろう、Tシャツにジャージという彼女にしては珍しい格好だった。
ただそんなことはどうでもいい。
俺の気にかかったのは、その顔だった。
まるで覇気がなく、目は虚ろ。俺が死神がだったらまず真っ先に声をかけそうな雰囲気である。
「どうした、ティア。元気ないじゃないか」
「……お目覚めになられたのですね、天神さま」
ぼんやりとした様子で顔を上げる。俺を見てもなお、表情にはあまり変化がなかった。
「いつも赤面してあたふたしてるお前らしくないな」
「あはは……、そんなイメージを持たれていたんですね」
僅かに顔が緩む。でも生気は欠片も戻らない。
「髪、いいと思うぞ」
「え……?」
「ポニーテール」
ティアは自分の頭に手をやる。
彼女は格好に合わせてか、あるいは誰かに勧められたのか、一つに結わいていた。
「いつもの垂れ流しにしていてお淑やかっていう感じも好きだけどさ、今のスポーティーな雰囲気も悪くない」
「……ありがとうございます」
呟くような感謝の一言。聞いていると、こちらの気分まで落ち込んできそうだった。
「なあ、何かあったのか?」
「……いえ、特には」
このままじゃ埒が明かないと思い、俺はエンジュを見やった。
彼女はため息を一つ吐き、首をティアの方に巡らし訊いた。
「なあ、話してもいいかい?」
「……はい。お任せします」
葬儀場でも、ここまでの落ち込みぶりはなかなか見かけない。俺もガチャで爆死したり、ゲームの大会で惜しくも敗退した時もここまでではなかったと思う。
ヘビーな話が来るだろうと覚悟し、体を起こして聞こうとしたが。
「ああ、そのままでいい」
と、エンジュに止められた。
「まだ体調戻ってないはずだ。寝たまま聞いてくれ」
「珍しいな、俺の体を気遣ってくれるなんて。明日にゃ雪かチョコレートでも降るんじゃないか?」
冗談めかして訊いたが今度は怒りもせず、微かに鼻から息を抜くように漏らすだけだった。
「……かもしれないな」
神妙である。異常なぐらいに。
これは本当に明日、天変地異の一つでも起きるかもしれない。
エンジュは髪を掻き上げるようにして額を押さえ、しばし黙した後に口火を切った。
「なあ、体に異常はないか?」
「以上?」
「胸が苦しかったり、頭が痛かったり、熱があったり……。体の一部が動かなかったりとかだよ」
俺は試しに手を握り開いたり、足を持ち上げたりしてみた。
「……特にそんなことはないが」
「そうか……」
彼女はホッと息を吐いた。
「……本当に今日はなんでそんな心配をしてくれるんだ?」
「いきなりぶっ倒れられたら、誰だって心配するさね」
「いきなり……倒れた?」
「覚えてないのかい?」
「……確か、岩石野郎を倒した途端に急に力が抜けて、気を失ったんだったっけ?」
エンジュは「ああ、そうさ」と一回きっかりうなずいた。
「その後変身が解けたところを、サイボーグに助けられて命を落とさずに済んだってわけ」
「……そういや俺達、空中にいたな」
もしもサイボーグがいなかったら、そのまま地に落下していたのだろうか? ……想像しただけで全身の毛が逆立ってきた。
俺はベッドに手をつき、体を起こした。
「お、おいおい……」
止めようとするエンジュを手で制し、俺はティアの方を見やり、頭を下げた。
「すまなかった」
「え、な、なぜ天神さまが謝るのですか?」
「お前を危険に巻き込んだ……死なせてしまうかもしれなかった」
「いや、天神が謝ることじゃない」
断然とした調子で、エンジュが言い切った。
俺は訳が分からずに顔を上げた。彼女にはふざけた様子なんてまるでなく、ただ真顔でこちらを見ていた。
ティアはというと、膝の上で硬く握った拳に目を落としていた。
「……どういうことだよ?」
「それを説明すると少しばかり話が長くなる」
ちらと腕時計に目を落とした後、エンジュは念を押すように訊いてきた。
「天神、本当に体調は大丈夫なんだな?」
「ああ。問題ない」
「そうか……」
重たい荷物を下ろすように――あるいは背負った時のように息を吐いた後、彼女は首の後ろを執拗に撫でた。
「……さて、どこから話したもんかね」