6章12 『聞きたくない名』
目覚めたわたしの前には、暗がりが広がっていた。
眼前にある手の皴すら見えないぐらいだ。
汗となんか妙に甘ったるい臭いが部屋の中に充満している。嗅いでいると羞恥心が蘇ってきて、かっと顔が熱くなってくる。
自身の体を抱くようにすると、腕が素肌を晒した胸に触れた。
ぼうとした頭をしばし現実世界に馴染ませるよう時間を置いた後、わたしは「明かりをつけて」と言った。すぐに天井の照明がぱっとつく。
白い天井が広がっている。一面わたしの顔みたいに、感情というか個性すらない。
もう一度手を上げて、人工的な光にかざしてみる。
白い肌、桃色の爪。細い指。何度となく見た自分の手なのに、眺めていると夢の中にいるような気になってくる。
手近にあった自身の着物を羽織り、ふと気付く。
ソアラがいない。
目が覚めて、どこかに行ってしまったのだろうか。
まだアジトの中をあまり一人で歩き回ってほしくないのだが、と思いつつベッドの縁に腰かけて、スタホを探す。しかしいつも置いている場所にない。
昨日はあの後、ソファでソアラと共に触れ合った後にベッドに連れていかれて、そのままもっと……。
思い返しているだけで、顔からぼわっと熱を伴った蒸気が出てきた。
ともかく、いつもとは色々事情が違ったのだ。
だからスマホも別の場所に置きっぱなしにしていたのだろう。
元々ものが少ない部屋だ、探せばすぐにみつかる。
思った通り、机上に脱ぎ捨てられた袴風のスカート下に置いてあった。
ほっとして、手にと取ろうとしたその時――
ヴゥウウッ、ヴゥウウッ!
横にあった無線機からやかましい音が鳴りだした。
なんだろうとわたしは手にして、耳にやった。
「もしもし?」
『おお、王。やっと出てくださいましたな』
ボルトがやけに明るい――気が遠くなるほど長い間洞窟を彷徨っていた遭難者が出すような種類の声を上げた。
やっと……?
イヤな考えが頭に思い浮かんだが、ひとまずそれは頭の隅に押しやって訊いた。
「何かあったの?」
『それがですな……』
声が打って変わり、暗く沈んだものになる。楽観的思考なボルトにしては珍しかった。
わたしは直感した。かなりマズイ(・・・)ことが起きている、と。
ごくりと唾を飲みこみ、続く言葉を待つ。
覚悟はしていた。
しかし告げられた事実は、わたしの想像を容易く絶するものだった。
『アジトが何者かに襲撃されましてな』
「えっ……?」
予期せぬ単語が、冷たいナイフのように頭の中に突き刺さる。
「ここは、国にも存在を知られてないはずじゃ……?」
『ええ。襲撃者は軍ではありませんでした。正体不明の敵でありました』
背筋を冷たい汗が伝った。
正体不明の敵のこともあった。
だけど、それよりも……。
「どっ、どうして?」
『はい?』
わたしはギリッと奥歯を噛みしめ、叫ぶようにボルトに問うた。
「どうして、わたしに連絡してくれなかったの?」
重苦しい沈黙が無線機の向こうから聞こえてくる。
わたしも喉の奥が塞がったような、息苦しさを覚える。
心臓の鼓動音が耳を突く。
まさか本当に……いや。わたしに限って……、わたしに限ってそんなことはないはず。
でも万が一、もしかしたら……。
『あの、王……』
申し訳なさそうなボルトの声が聞こえてくる。
「な、何……?」
聞き返すわたしの声は酷く震えていた。
短くない間が続いた後、彼は言った。
『ワシは何度も何度も連絡させていただきましたぞ』
ピシィッ……。どこかでヒビが入ったかのような音が聞こえてきた気がした。
訪れた静寂が異様にうるさかった。
痛みを伴う渇の渇き。ぐるりぐるりと視界が回転し、気持ち悪くなってきた。
暗転していく頭の中に、嘘、嘘、嘘……と埋め尽くされていく。
吐き気を堪えて、わたしはボルトに訊いた。
「それ、本当……?」
『はい。誠にございます』
爪先から体温が失われていく。
体に力が入らなくなっていく。
蛍光灯の光が部屋を満たしているにもかかわらず、目の前が暗くなっていく。
……わたし、わたし……、長失格だ……。
○
暗い闇の中、わたしは膝を抱え込んで座り込んでいた。
昨日はソアラにたくさん温めてもらった体が、今は冷たい。部屋の空気が冷え込んでいるせいだ。
無論、いたずらに室温を下げるよう空調の設定をいじったわけではない。ただの感じ方の違いであり、全てわたしの精神状態に帰結する。
それでも吹雪の中にいるよりもよっぽど辛く感じた。体がさっきからとめどなくガタガタと震えている。
なぜ、こんなことになってしまったんだろう?
何かわたし、悪いことした?
ただ昨晩はソアラにたくさん可愛がってもらって、そのせいでちょっと寝るのが遅くなってしまったかもしれないけど……。夜更かしぐらい誰だってするだろう。
無線機が鳴ったのに起きれなかったのは、確かにわたしの落ち度だ。だけどその罰がこれだというのなら……あんまりだ。
わたしはぎゅっと唇を噛み、闇に慣れた目で床に転がった黒い無線機を見やった。
さっきのボルトの声が蘇ってくる。
『……では、王は具合が悪く起きれなかったと?』
わたしは胸中に棘が突き刺さったような痛みを感じたまま『ええ』と答えた。
ボルトが長く息を吐きながら黙り込んだ。
どうしようもなく幼稚な嘘だ。子供の仮病みたいに、あからさまな。
けれどもボルトは追及はしてこず、話を先に進めた。
いつになく真剣な声音で彼は言う。
『いいですかな。どうか落ち着いて聞いてください』
『えっ、ええ……』
前置きしてから無線機の向こうが静まり返った。
電源が切れたわけじゃない。環境音はずっと聞こえていた。
何度かボルトが口を開こうとした気配を感じた。しかし声は続かなかった。
それは何かを言おうと口を開きかけたが、先を言うのを躊躇って閉口したような感じだった。
もう薄っすらわたしは予感していた。
アジトを襲撃された、しかし出撃や避難を命じてこない。おそらく戦いはこちらの勝利で終わったのだ。
となれば、残るは戦況報告だ。
そこで口ごもるということは十中八九アレだ。
わたしは心の準備をして続く言葉を待った。
ボルトが一度咳払いをして言った。
『誠に遺憾ながら、此度の戦では殉職者が出てしまいました』
『……そう』
覚悟をしてたお陰で、どうにか冷静さを保ったまま返事することができた。
彼は感情を押し殺した声で続けた。
『今から、殉職者のリストを読み上げさせていただきます。どうか心を落ち着けて訊いてください』
わたしは一度深呼吸をしてから『ええ』と答えた。
その時になって、ふと疑問が心の表層に浮かび上がってきた。
なんでソアラが室内にいないのか?
おそらく、外の異変に気付いて飛び出していったのだろう。
じゃあ、なんで帰って来てない?
……きっと、ケガをして治療を受けているのだろう。
本当に?
……………………。
『聞き取れなかったら、おっしゃってくださいな。後でデータを送らせていただきますが、それを一人で見るのはお辛いでしょうからな……』
一人で――その言葉が鋭利なナイフのように心に突き刺さる。
一人なんかじゃない、わたしには、わたしには……。
声が出ない。声帯が麻痺してしまったかのように。無理に言葉を発そうとすると、途端に息苦しくなった。
そうこうしている間に、ボルトが淡々とした調子でリストを読み上げ始めた。
わたしは神に祈りを捧げながら、それを聞いた。
聞く名はどれも顔が思い浮かぶ者のものばかりで、耳にするのは悲しかったが同時に安堵もした。わたしが絶対に聞きたくない名ではない、と。
だが――。
『――』
ボルトがその名を口にした瞬間、世界がガラガラと崩れていくようなショックがわたしを襲った。
あ、ああぁ……っ。
ゾンビみたいな声が聞こえてきた。
なっ、何、これ? 怖い……。
恐怖で血が凍り付くような寒さに襲われたが……、やがてわたしはそれが至極近くから聞こえてくることに気付いた。
本当に至近距離、まるで耳の内から響いてくるようだ。
それから間もなくわたしは答えに辿り着く。
この声、なんか聞き覚えがあるかと思ったけど……当然じゃないか。
だって、これは……。
「いっ……、いっ……」
この声は他でもない、生まれた時からずっと耳にしている――
「いやぁあああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」
わたしの声なのだから……。