6章11 『幸福の演算方法』
口元をハンカチで拭っていると、ソアラが急須を朗らかな笑顔で訊いてきた。
「もう一杯いるか?」
わたしはかぶりを振ってそれを断った。愛する人の手で殺されることに少し憧れを抱いているのは認めるが、死因がお茶のマズさでショック死というのはイヤだ。あまりにも格好がつかない。
「そうか。喉が渇いたら、遠慮なく言ってくれよ」
わたしは礼儀上うなずいておいたが、もう渇き死ぬことになってもあのお茶を口にすることはないんじゃないだろうか。
「ソアラは、普段からお茶って淹れる?」
「食堂とか他所で出されたものしか飲まないな。自室で飲む場合はもっぱらベットボトルだ」
「そう」
初心者だから……?
道理で、とは納得しかねる。あのお茶の破壊力をその一言で表すのは、いささか乱暴な気がした。
「お茶のことはもういいだろう?」
ソアラがソファから立ち上がり、向かいに座っているわたしの横に腰を下ろした。そのままそっと私の手に自信の手を重ねてくる。いつになく積極的だし、所作が女性じみている。脈拍が速くなっていく。自分の心がソアラにときめきだしたのに安堵したし、嬉しかった。
さっき感じた警鐘も、今はなる気配がない。
なんだか頭がぼーっとしてきて、体がポカポカしてきた。長風呂した後みたいに。
ソアラがわたしの顔を覗き込んで、微笑を浮かべて言ってくる。
「なあ、アイス。お前は人生が幸福か否か決定づける基準って知ってるか?」
「……哲学の話? それとも宗教?」
「どちらかというと、前者」
わたしはどうにか考えようとしたが、頭が回らない。
かぶりを振ると、ソアラはわたしのことをおもむろに抱きしめてきて、耳元で囁くように言った。
「よく考えてみろよ」
ソアラに抱きしめられているこうしている今が、一番幸せな気がした。
彼の微かなふくらみを持つ胸に顔をうずめた。
いい匂いがする。ホットミルクのような、嗅いでいると安心する匂いだ。包み込むようにわたしの体中に広がって、気持ちを落ち着けてくれる。それでいて心をかき乱すようなドキドキを与えてくる。なんだかズルい。
もやもやした思いを抱えていると、頭上からソアラの声が降ってきた。
「人が自分が幸福な人間か、不幸な人間かを主観的に決定づけるのに、二種類の判断方法が存在するんだ」
「面白そう」
わたしはむねから少しずつ顔を上げていって、より濃ゆい匂いを発する首筋に鼻を押し当てた。さっきよりもソアラの馥郁とした素敵な香りが胸中をいっぱいに満たすかのように広がってくる。頭の中がとろりと蕩けて、ふうわりとミルク色の濃霧が温もりを伴って広がっていく。自分の息が熱っぽく、湿ったものに変わっていくのがわかった。
ソアラが少し身じろぎをして言った。
「くすぐったいって、それ」
「でも別に、イヤだとは思っていない。違う?」
「そうだけど……」
わたしは愛おしいソアラの頬をそっと撫でて言った。
「わたし、今幸せ」
「それはよかった」
ソアラはわたしの背中をそっと撫でた。身体の部位で一番鈍感な場所であるはずのそこが、触れられただけでビリッと快感電流を流し始める。
ビクビク体を震わせているわたしを、ソアラが「ははっ」と笑っている。少し恥ずかしい。
「世の中には二種類の人間がいる」
「気になる。教えて、ソアラ」
わたしはいつもより心なしか、甘えるような調子の声で言った
彼はわたしの背をハープでもつま弾くような指使いで触れながら言った。
「幸せを刹那的なものとして捉えるか、それとも総合的に捉えるか」
「どういうこと?」
「つまり瞬間風速と平均風速だ」
わたしは頭の中の辞書をぱらぱらとめくって言った。
「……瞬間風速が3秒の平均、平均風速が10分の平均」
「え、瞬間風速も平均を取ってるのか?」
驚きの声を上げて背を撫でる指を止めたソアラに、わたしは「そう」と答えた。
「知らなかった?」
「いや、その……。ああ、確かにそうだった」
遅れて落ち着いた声で納得するソアラ。
なんか少しおかしな彼にちょっとおかしみを覚えつつ、わたしは先を促した。
「それで、瞬間風速と平均風速がどうしたの?」
「どちらかのタイプによって、人は幸福の感じ方が変わると思うんだ。平均風速なら、ある定められた時間帯、一日とか、一週間とか。その間に感じた幸・不幸の割合で自分の人生を評価する」
「難しそう」
「日記帳とかつける、几帳面な人が多そうだな。こういう人は論理的な思考の持ち主だからちょっとやそっとのことじゃへこたれない。タフなんだ」
「ソアラっぽい」
「どうかな。俺は結構感情的だよ」
ソアラはわたしの両頬に熱い口づけをしてくれた。
唇を突き出しておねだりしてみたけど「今日はお預けだ」と断られてしまった。
じっと見やっていると、「アイスって、こんな顔もするんだ」と頬をつつかれた。
どうやらむくれていたらしい。
羞恥心がむくむくと心中で膨らみだす。
ソアラは耳元で笑声を漏らして――吐息がかかってゾクゾクした――続ける。
「刹那的な瞬間風速系なら、最後に感じたのが幸福ならそのまま絶頂に至れる。逆に不幸なら奈落の底に叩き落とされたような気分になる――感情的だ」
急に耳を熱く湿ったものがつついてきた。わたしは慌てて口を押えたものの、間に合わずに喘ぎ声を漏らしてしまった。たちまち顔が火照りだして、体中から汗が噴き出してくる。むわっとした熱気が辺りに漂いだし、いよいよソアラのことしか考えられなくなってしまう。
もう、何もかもどうでもよかった。
ソアラがわたしを愛してくれるなら、他のことなんてどうでもいい。
聖霊領域も、メイオウも、さっきまで感じていた警戒心も。
「ソアラ、知ってる?」
わたしも彼の耳元に口を近づけて言った。
「瞬間風速は、平均風速の1.5倍――大気が不安定な時には3倍にもなる」
そこで一度、可愛い形の耳に口づけして続けた。
「わたしのこと、たくさん幸せにしてほしい」
言葉はなかった。代わりに強くぎゅっと抱きしめられた。
わたしも彼の背に手を回し、抱擁を返す。
快楽の波がふわっと太腿から這い上がってくる。
わたしの胸は大きく上下し、口の端からいつの間にか涎が垂れていた。
どこかでカチリとスイッチの押される音がした。
ソファがギシリと大きな響きを立てた。