表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

100%願いの叶う神様への祈り方 -底抜けに簡単な神様の見つけ方ー

作者: 誰でもない誰か

前回のフィクションで少し手紙の主が言及していた内容は、

以前に少し考察していたものです。

その具体的な形が、こんな試論になってます。


神様は、いますよ?w


人間の中には神様がいます。精神と呼ばれます。ほら、いたでしょ。(Q.E.D.)


ところでよくバカにされる概念に、精神論と言うのがあります。なぜバカにされるのか理由を考えたことはおありでしょうか。そうですね、精神論で成功する例が100%ではないからでしょうね。


ここで、精神論として、

・我に七難八苦を与えたまえ

・心頭滅却すれば火もまた涼し

というのがあります。


実はこれは願いの叶う精神の使い方です。なんでそんなこと言えるんだ。なんで願いが叶うのか。という声が聞こえてきます。はい、そうですね。


これが叶っているかどうかは、本人しか知りません。そこがミソです。精神論に頼るとき、多くの人は他の人からもわかる結果を出すために使おうとします。これがまずい。これをやりすぎると結果が出ないときに、精神論は当てにならない、という間違った確信を抱いてしまうのです。


はい、間違ったと言いました。だって、間違ってるんだもん。精神論はいわゆる結果を出す目的では使えません。使えないというかこれは上級者向けです。精神論は状況に耐えるのが目的なのです。あとでもう少し補足説明しますけど、まずはこんなもんかなと思うといいです。


誰にでもわかる結果を出すのが、ものすごく難しいことはわかります。そしてそんなことが簡単に精神が成し遂げてしまったら、努力とか成長とか交渉とかあらゆる経験に意味が見いだせると思いますか。意味がなくてもいいから無双したいですか。なら、余計に神様を知らなくてはいけません。


結果を出すことの難しさは基本的には次の事情によります。


結果を出したとしても、他の人が評価する限り、願い通りの結末を用意するとも限りません。999本安打を打った人と、1000本安打を打った人の違いは1本で、その結果は現象的に(偉業として)ほぼ等しいですが、1000本安打を打った人しか殿堂入りしないので、人々の記憶に残る結果はその閾値を超える必要があります。


このように結果を出すことを願うのは、願い方そのものが実は簡単ではありません。たくさん安打を打つ、という願いはよくなくて、殿堂入り、という願いはよいとしたら、その違いは何ですか。結果を出すための精神論においてはこれは重要な観点です。実は精神論は使えないと判断する人の多くは、この望んだ結果の解釈の点で錯誤を犯しています。願ったことが叶っているのに叶ってないと思い込むのです。


とりあえず、ややこしくなるので、今は、結果を出すための精神論はとりあえず脇へどけておきます。


ところで、状況に耐えるときに、精神は不可欠なのはわかりますか。そもそも耐えるというのは精神の働きです。これはどういうことなのでしょう。私たちは状況に耐えるとき何をしているのでしょう。


・この状況はたいしたことない

・この状況はいつか終わる

・この状況は力任せに変えれない


だいたい、こんなことを考えて(信じて)ませんか。これらの3つの考え(信念)がなくなると、耐えるという状態を自ら離脱する選択をすると思うのです。


ここでは、3つのレベルの信念が関与しています。


・この状況はたいしたことない(自分への信念)

・この状況はいつか終わる(世界への信念)

・この状況は力任せに変えれない(力への信念)


例えば、台風がやってきたとして、雨風の音などの恐怖に耐えるのは自分の理解です。台風はいつか去るという確信は世界への信頼です。台風は自分ではどうにもならないという力の原理を弁えています。自分は「意識」、世界は「超意識」、力は「潜在意識」に対応しますが、ここではちょっと触れておくだけにします。


ここで、耐えるという状況で絶対に確実にどうにかできるのは、実は、たいしたことないという自分の実感だけです。いつか終わるというのは世界に対する科学的信念ですが、自分の力の及ぶところではありません。同様に力任せには変えられないのも文字通り力は及びません。


ですが、耐えるときに信念が深く関与しているのは事実としてわかると思います。そして信念は精神の働きです。それも最も重要な働きです。この言葉の中に、すでに「神を信じる」という内容が含まれています。神と信じるは同語反復に近いのです。信じるあるところ、神ありですね。


さて、耐えるというときに3つのレベルの信念が関係して、それらが保たれていることがわかりました。なので、耐えることはそもそも精神論そのものであることもわかるのではないでしょうか。耐える力を拡大するにあたって、精神論を深く理解することは不可欠になります。


さて、台風の例で我々が、これはいつか終わる、と見なしたのは科学的統計による蓋然性です。ある意味、人智が及ぶところで信じられたのです。おそらくこれが信じるに属することを認識する人も少ないくらいです。


信じるのために何でも活用するというのであれば、これが神様です。人智が及ばない領域に対して、世界を信頼するという働きが「神を信じて」いるということです。世界を信頼することは能動的な活動で得られます。科学が進歩したのだって、実はこの世界を信頼しようというモチベーションは無視できないはずです。


同様に、力任せでは変えられない、についても蓋然性が大きく関わってますね。結果を出すための精神論とは、この蓋然性を打ち破るほどの信念が関わっているので、ものすごく困難なのです。つまり願っても叶わないに相当します。力任せに変えられない蓋然性を認識すると、変えようとするより、変わるを待つ、が戦術的に有効だと判断できるのです。もちろん、変わるのを待つ、ことができるのは、いつか終わる、という信念と関わります。


力任せに状況を変化させようとする人は、つまり、世界への信頼が乏しい人、という言い方はできると思います。力任せに状況を変化させることを「神様を信じる」人は嫌がる(愚かだと思う)し、「神様を信じない」人は歓迎します。実行力やリーダーシップは世界への信頼の欠如の蔓延によって、待望されるのですね。


実行力やリーダーシップを誇る人は、世界への信頼よりも力への信頼が大きい人です。その力が世界への理解と信頼に基づいてコントロールされている場合は確かに問題はないのですが、世界への理解も信頼もなく、物理的な力を頼る実行力やリーダーシップは問題が大きいです。


世界は絶対に壊れませんので、殴った力は世界が元に戻る作用として、必ず返ってきます。完全に弾力性のあるボールを殴ってるのが人間の技術だと思うと当たっています。ボール表面そのものの持つ揺らぎと調和して、技術は利用する必要があります。まだ、そこまで人間の科学への理解は達していません。人間が作り上げた秩序を破壊するのはこの力です。神様の怒りと言うのは基本的にはこの自然力を指しますが、人間が理解できないだけで単なる作用反作用です。


そういう人たちによって、世界の在り方の蓋然性が崩れること思えば、信頼の大切さは理解できるというものです。


おお、余談が過ぎました。


耐えるというのは受動的なようで、きわめて能動的な活動です。世界への信頼は意志を使う行為だからです。常日頃から、世界への理解を深めて秩序を弁えることにより、蓋然性を超えた信頼を持つことは、きわめて能動的な意志の活動です。そして「神様を信じる」ことは機能的な有効性を持ちます。これを人生で確認していくのは大切だと思います。


世界への根本的信頼を失わせるのは、前述したように力任せに状況を変えようとする人の存在です。世界を信頼していない人が、世界を信頼するに足らないものにしてしまうのです。精神論を根源的に否定し、耐えることへそれを適用しなくなることの弊害は、非常に大きいと言わざるを得ません。


ここまで見てきた通り、耐えることへの精神論の活用は有効です。100%願いが叶うのは実際に「世界は信頼するに足る」というのが真実だからです。世界が信頼するに足る理由は簡単です。世界は必ず変化するからです。つまり、いつまでも終わらない状況はないのです。


力任せに状況を変えることが有効なのは、力任せに状況を変えればうまくいく場合だけです。そうでない場合は、力をふるった結果として全く違った結果を呼び込むことになります。力任せに状況を変える人の多くは、この結果を誠実に見ようとしないから、また同じように間違った力の使い方をします。


耐えることに精神論を活用する場合は、100%願いは叶います。本当に深く世界を信頼していれば、「心頭滅却すれば火もまた涼し」は事実でしょう。その信頼を自ら求めて「我に七難八苦を与えたまえ」は有効でしょう。


世界が信頼できない人に神様はいません。神様がいない人は力任せで世界を乱します。その結果、世界が信頼できない人を再生産し、神様は見えなくなっていきます。


神様は耐えるという活動の中にいます。耐えていることで、力任せに状況を変化させなくても、いつか耐えなければならないような状況は去ります。世界は変化であると知れば、世界は信頼できます。待つことができる人は神様に近い存在です。待つとは信頼して耐えることに他なりません。


待つ能力が高まると、自分自身の力が拡大します。世界への信頼を意識せずとも、自分の許容範囲が広くなるのです。つまり、自分が世界と一体化していくということです。この過程をうまく使えば、意図して力を及ぼす範囲も拡大します。力をふるうということの本質は、それをコントロールすることにあり、それは自分への信頼と理解が核なのです。


物理の力より精神の力の方が圧倒的です。結果を出すために神へ祈ることが上級者のやることであるのは、この道筋をたどる必要があるからにほかなりません。願い方を知っていて、願いの叶うまで待てて、願いの叶ったのをわかるというのであれば、結果を出すために「神様に祈る」だって100%叶うのです。


ですから、精神論を耐えるという目的のために、まず活用しましょう。その機能の有効性を実験のように自らの人生で確かめることで、世界への信頼を深め、自分と世界との一体化を促進しましょう。耐えるための祈りが確実になっていけば、結果を出すための精神論も活用できるようになります。


力任せに状況を変化させる、という活動をしている限り、人間は人間を超えません。能力に限界がある理由はそこに留まるからだと知るべきでしょう。神様を信頼し、世界が変化だと見抜いてしまえば、能力に限りなどありません。物理的な効果すら、精神は生み出すことができるのですから、筋力を鍛えるより、よほどコストパフォーマンスはいいです。


耐えるために精神を使う、つまり待つことが最初のステップです。耐えることは信じている限り失敗はありません。それを人生を使って実験し、確認していくことで、どんどん神様に近づくのです。


神様に近づけば、世界が信頼できる理由がどんどん明らかになることも付記しておきます。自分と世界がつながると知らなかったはずのことを知ることができるのです。根拠などなく得られる直観は、この構造を知っていれば正しい、少なくとも有効な情報であることを信頼できます。


神様は待つという精神の動きの中にいます。待つとはきわめて能動的な働きだと知ると、きっとそれだけで楽しくなるでしょう。信頼するとは至福の体験です。


少しでも神様に対する大いなる人類の誤解を解けたなら、これに勝る幸せはありません。神様の実体を探さないでください。神様に結果を求めないでください。神様を否定しても自らの限界を確定するだけです。実体もなく、結果も導きませんが、神様は信頼に足る存在です。天罰なんてのは、間違った力の使い方の結末です。神様の怒りなんかではありません。


あなたの神様が見つかりますように。

少し回りくどかったですかね?


神様は見つけようとして見つからないから、いないと断言する人多いけど、

そんな簡単に諦めたら、かわいそうだよ?w


ちなみにこの辺の洞察については、


・ヘーゲル『大論理学』(『精神現象学』で出現する絶対精神が真の筆者w)

・エヴァ・ピエラコス『パスワーク』


あたりから導出しています。

前者は大著なので、手引書としては、


・海老澤善一『対話 ヘーゲル「大論理学」 -存在の旅へ-』


がめちゃくちゃわかりやすく読みやすいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ