第九話:未来
※※ 9 ※※
夜も更け。暗澹とした路地に橙光色の光が一つ、ふらふらと下田奉行所に近づいた。
「……こちらにございます」
門番はひっそりと音を鳴らさぬように、大門を開け、一人の侍を中へ促す。
侍はそのまま、正面の玄関から上がらず、中庭に歩き出した。
小さな小庭を抜けると、奉行の私室である離れにあたる。侍は腰の大刀を鞘ごと抜きながら左手に持ちかえて、縁側に上がる。
座敷には、上座に着流しでくつろいでいる男が一人、すでに酒を傾けながら、手前に促した。
「春。まずは執着」
縁側から上がってきた侍に、大きな丼茶碗を突きだす。
春と呼ばれた侍、春明は座敷の真中にどかりと座り、それを受け取った。
「は、頂きまする、信濃守様」
「心にもないことを言うな。今日は久しぶりの再会を祝そう!」
そして、奉行こと井上は、下田の活魚をふんだんにあつらえた郷土料理を春明の前に差し出す。
「うまいぞ、喰え」
破顔していう井上が、春明に渡した丼茶碗に並々と酒を注いだ。井上自身も同じくらい大きな茶碗に注がれた酒を一気に飲み干す。
春明も嬉しくなって一気に飲み干した。
やがて、二人で酌み交わすこと、数刻。
井上は、ふわりと煙草に火を点け、紫煙を燻らす。
「春、おめぇさん、異人を……いや、人を斬れるかい?」
手酌で呑んでいる春明は、三味線の調子を合わせながら、逆に井上に問う。
「……清さんはもう剣を抜かないのかい?」
井上はキセルを火鉢に叩き、大いに笑った。
「昔はなんでもありだったなぁ、おいらだって昔は御家人で無役だったし。酒、女、賭博……奉行がいうことじゃぁねぇな」
春明は、三味線の弦をつまみながら、言う。
「高家に就いた嵩兄ぃとお城で会ったけど、清さんと同じこと言ってたな」
「相変わらず嵩は変わってねぇな……」
ほうっと嘆息する井上清直は、乾いた笑みを浮かべる。
「まあ、これ見てくんねぇ」
渡された文を広げると、くねくね曲がった異国の字の下に和訳された文字に目を落とす春明。
酒を傾けつつ、静読する。
以下、
第一条:長崎港を開港し、メリケンのために食糧、薪等を供給し、必要とあらば船の修繕をすることができる
第二条:下田および函館を開放し、さらに合衆国市民に永住権を与えることができる
第四条:メリケン人に治外法権を与え、領事の裁判に服させる
条文が進む中で江戸に領事館なる異国人の藩邸を提供することも記載されてあった。
「清さん。これを見れば、攘夷だの異国を打ち払えだのと騒ぎ立てる輩の気持ちがわかりますぜ」
最初の感想を漏らす春明に、是非も無しといった顔で丼茶碗の酒を干す。
「しかし、おいらたち幕臣はそんなこと言ってらんねェ。日ノ本はあっと今に戦の中さッ! そしてその戦は必ず負けるさねェ!」
再び、茶碗に酒を注ぎに一気に煽る井上。
「今、日ノ本の諸大名も含め、幕府はどれだけ外国に対抗できる? 攘夷って浮かれてる奴は現実を知らねェ!」
春明に、井上は茶碗を突きだす。
「斬って解決するならぁ、いくらでも斬らぁ!!」
春明は突き出された茶碗に酒を注ぐ。それをすすりながら、やや熱が冷めた井上はぼそりと呟いた。
「なかでも欧州では外交交渉するにあたって、その国の都に領事館なる藩邸を提供せねばならぬらしいが……」
「それは帝がおわします京にってことですかい?」
小首をかしげる春明に、井上は言う。
「嵩には悪りぃが、長袖衆(※公家に対する侮蔑)に何ができるってよ? お江戸にだよ」
井上はつるりと顔をなで、不退転な決意で春明を見る。
「すべてとは言わねェ。とりあえず今は公方様のおひざ元に異人館は作らせてはなんねぇ」
ちびりと酒を啜りつつ、春明は三味線の弦を一つ抓んだ。
「最終的に交渉しよってなら、逆にその領事館なる藩邸が必要ではないんですかい?」
春明に顔を近づける井上清直。
「……おめえさん、異人のことどう思うよ?」
「それ、間部様にも聞かれやしたよ。別にどうってことねぇ…風介に会って相手も普通の人間だとわかって、もっとどうってことねぇ」
答える春明に、嘆息する井上。
「まあ、おいらも長崎に行って異人と会ってからは似たようなことを思っちまったけどよ……」
と、頭をかきながら、空いた茶碗を春明に再び突き出した。
「大多数のこの国の人はそうは思っちゃいねぇ」
春明は、酒をおもむろに注ぐ。井上は満面の笑みで、それを干しつつ、
「例えるなら、勝手に上り込んできた赤の他人が家の肴と酒をあさり出したらどうよ?」
春明の答えは出ない。
「さらに、勝手に己の部屋までこさえて、気ままに暮らし始めたらどうよ?」
くいっと杯を空かす井上清直。
「……なるほどねぇ」
うなりながら、春明は茶碗の酒を飲み干した。
「結局、日ノ本の人間の気持ちはみんな同じってことですかい。ただやり方が違うだけで……」
「そういうことさね」
井上は悲しい笑顔で言い切った。