表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春乃坂  作者: 武田 信頼
8/11

第八話:ハリスの真意

                 ※※ 8 ※※


 



下田沖を一望できる秘湯に案内され、身も心もさっぱりとした。


 ヒュースケンが『シャボン』という、何でも身体を洗う時に使うものらしい固形物を出し、ヘチマで洗い出したものだから、春明も興味深々に眺めていたら、春明も一緒に『シャボン』だらけにされてしまった。


 春明とヒュースケンは浴衣に丹前を羽織り、宿場町に戻ってきた。


 歩くと背中が擦れて、少々痛いが、この香は悪くない。その証拠に、すれ違う町娘の鼻腔をくすぐるたび、頬を赤くして去っていく。


 (里が見たら、おっかねェ顔して説教しだすかもしれねぇな……。「兄様の節操なしィ」ってな)

 

 

そのまま赤鬼一家の旅籠宿に入ると、赤鬼自ら平伏して待っていた。


「だんな方、こちらへ」


 赤鬼はすいっと前を邪魔にならないよう、長廊下を先導する。突き当りの襖が開き、そのまま奥へ座らされた。

 春明とヒュースケンが上座に落ち着くと、柏をたたく赤鬼。


 とたんにたくさんの膳と酒を運ぶ女中と芸姑が入っていく。

ヒュースケンは目を見開き「ハラキリィー! 何これ、すごいよォ」と狂喜乱舞する。


手際よく料理が並べられたところで、女中が二人に酒を注いだ。


「当面は、手前どもが精一杯お世話させていただきやす。お愉しみくださいやせ」


赤鬼が去ろうとしたとき、春明が盃を置いた。


「待ちな」


 少しばかり愁眉を見せ、再び平伏する赤鬼。もはや春明に臣従する覚悟でいるように見えた。

春明は立ち上がり、赤鬼の眼前に盃を突きだす。


「おいらはどうやら、風介とお前さん方を背負うことになっちまったようだ」


にやりと笑う春明。


「兄弟、一緒にやろうぜ」

「へえ!!」


赤鬼は春明の盃を受け取った。


 やがて数刻が経ち、酔いも回ってヒュースケンは浴衣がはだけたまま、三味線と鼓の調べにあわせてよたよた踊りまわる。

春明は、左右に寄り添った麗しい芸姑の酌を受け、酒を愉しんでいた。

突然、ヒュースケンが倒れ、慌てて女達が介抱する。鳴り物も急に止まってしまった。


ぐいっと杯を空ける春明。


「……どれ」


手ごろの三味線を手に取る。


「いずれおとらぬ~阿呆ぞいなぁ~」


バツの悪い静寂に、張のある通った声が響く。


隣に座っていた芸姑の一人が思わず、驚きの声を上げる。


「あら、お上手。お師匠さんはどなたさん?」

「天才だから~独学ぅ~」

 

 左右の芸姑が「まあ」と笑う。

ヒュースケンも介抱されながら、むくりを起きて、


「ハラキリ、剣もすごい! 歌もうまいねぇ!」


手放しに褒めながら、春明の傍まで近寄り、杯を空ける。


「……でも、わたしの友人、絵がとても上手だったね」


と、ヒュースケンは哀しい笑顔で、年季の入った獣の皮で出来たカバンから一枚の紙を取り出す。


「わたし、下田に来た目的、もうひとつあったね」


 手渡されて見た春明は、知らない技法で描かれた富士の山の尾根と海の絵に驚嘆した。

どこぞで見た北斎の『神奈川沖浪浦』という版画も素晴らしかったが、この絵の繊細で写実的な斬新さに春明は心を惹かれた。

裏を見ると「Aan een vriend Van de Shimoda」と書かれている。


「なんて書いてあるんだい?」

「……親愛なる友へ。下田より」


ヒュースケンに春明は絵を返す。眼頭に涙を浮かべていた。


「わたしの友人、下田にいたね。今何してるか知りたいね」


三味線を脇に置き、黙って控えていた赤鬼に、春明は視線を流した。


「下田に異人がいたって話は知ってるかい?」


対して赤鬼は申し訳ないといった面持ちで言う。


「あっしは生まれも下田ですが、以前から異人が住んでるって話はとんと知りやせんね……」


暗くうなだれるヒュースケン。慌てる赤鬼。そして「まあまあ」とヒュースケンの杯に酒を注ぎながら


「風介の旦那、あっしがちょいと調べて回りますんで、気を落とさず待っててくだせえ!!」



赤鬼の合図で再び鳴り物が奏で出した。




玉泉寺の境内に着いた春明とヒュースケンを待っていたのは下田奉行の井上清直だった。


「どうだったィお二方。ゆっくりできたかい?」


駕籠から降りたヒュースケンは満面の笑みで言う。


「いっぱい楽しかったねぇ」

「そいつは良かった。ただ……」


それを聞いた井上は破顔するが、刀の柄に肘を置き、嘆息する。


「どうも、ハリス殿に間違った報告がはいったみてぇで、ヒュースケン殿を呼べと」


頭を掻きながら二人を促し、山門をくぐった。


「しかも、このままだと交渉どころか戦にもなりかねない剣幕でなァ」


ただ事でない事態に、口をはさむ春明。


「戦!? 異国と戦ですかい!?」

「そうはなんねぇよ……つーか、そうさせてはいけねぇ」


驚く春明に、井上も自らを窘めながら、


「日ノ本の民草を、戦に巻き込むわけにはいかねぇ。とりあえず、今は岡田備後殿が何とかハリス殿を抑えてるところだが……」


井上は座敷に上がり、春明とヒュースケンも上がったところで、春明には初めて聞く言語の怒声が響いた。


「外交交渉をするのにおひざ元である江戸に領事館が開けないとは我が合衆国を舐めないでいただきたい!!」


井上を先頭に春明とヒュースケンが一室の前に着いたところで、廊下の端の襖が与力によって開かれる。

畳の上に絨毯が惹かれ、白檀の丸テーブルが置かれている。そこに老人の白人と羽織袴の人が向かって座っており、はさんで川原又兵衛が通訳に辟易していた。


川原がヒュースケンを見て救われたように言う。


「ヒュースケン殿! ようやく参られた」


と、同時にハリスが立ち上った。


「ヒュースケン!! どこで何をしてた!? 無頼漢に襲われたときいていたが」


ハリスは井上を睨む。井上は頭を下げる。「シット!」とハリス。


胸に手を当て、頭を下げるヒュースケン。


「たしかに賊には襲われましたが、ここの御仁に救われました」


その言葉に便乗する井上は、春明を前に押し出した。


「ハリス領事閣下。これは井瀬春明という者で此度海防掛並のお役につき、警護に当たる副責任者にござりまする」

「お初にお目にかかります」


春明はゆっくりをおじぎをした。


「ミスター井瀬、まずは礼を言うよ」


ハリスは春明の右手を取って、自らの両手で包み込み、上下にしきりに振る。この動作に意味が分からなかったが、ヒュースケンが片目をつむって笑った。


「ハラキリにありがとう言ってるよ」


とまどう春明。


「閣下のご恩情恐れ入ります」


頭を下げ、鉛を咀嚼するように言うと、ヒュースケンがすぐに訳す。するとハリスが春明の前に進み出て更に強く手を握ってきた。


「私たちの文化では親愛なる証ね」

「…風介、余計なことは吹きこむんじゃねェ」


辟易とする春明。



井上は岡田を促し、立ち上がる。


「……ではこれにて」


立ち上がろうとする清直達をハリスが制した。


「期限はとっくに過ぎてるよ。江戸に領事館を置く話ね」


すぐさまヒュースケンは訳した。


「江戸に領事館を置く話はどうなかったかと……」


井上は露骨に困惑しつつ、深々と頭を下げた。


「……それは、いまだ吟味中につき、もうしばらくの猶予を」


ヒュースケンがそれをハリスに伝える。


ハリスが話す横でヒュースケンが訳した。


「私たちも物見遊山で来てるわけないね。合衆国大統領の命令でここにいるね。条約の件も江戸で話し合わないとまるで意味ないね」


さらにハリスの言を訳す。


「わたしたちは様々な問題を抱えているが、それを解決するために艦隊を呼び寄せるしかないね」


その言に慌てる井上。


「今吟味中なれば、しばらく猶予をいただきたい。また参りますので、本日はこれにて」


清直は立ち上がり頭をさげたまま、後ろに伺候し下がる。春明もそれに従った。


飛び出すように廊下に出た井上と岡田の後ろを歩く春明。突然腕を引かれて、立ち止まる。


「ハラキリ、ちょっと……」


呼ばれた春明。それを見た清直もうなずき、先に行った。その後ろに春明が一礼し、ヒュースケンに促した。


「なんだい? 風介?」


その場に座り込む。


「さっきの話でハラキリに嫌な思いをさせたと思ったので謝りにきたよ」

「おいらはどうってことねぇよ。まあ、てぇへんだなぁってのは思ったけどよ」

「そういってくれるのハラキリだけね!! うれしいね  mijn beste vriend!!(私の親友)」


春明はヒュースケンの無邪気な笑顔を見て、最初に出会った時を思い出した。


「そういえば、風介が持ってたあの絵の主が分かったぜ。これから一緒に赤鬼の宿に行くかい?」

「もちろんね!!」


こんなにも『異人』と共にある自分に驚きつつも、改めて日ノ本がとんでもない危機に直面していることに畏怖を感じた春明だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ