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春乃坂  作者: 武田 信頼
5/11

第五話:直参旗本





            ※※ 5 ※※




  翌日、老中である井伊直弼自らの直筆で、大目付の池田頼方が仕官お目見えと登城差し許しの免状をを持ってきた。

 本来は評定所を経て、若年寄のお役にある者が下げ渡しに来るはずなのだが、何でも破格の扱いらしい。

 建前は昌平坂学問所を首席修了の者を無役のままに捨て置くのは無駄であり、かつ父、春高の公儀に対する忠誠が見事であることから、元町奉行推薦のもと、現在大目付の大役にある池田頼方が井伊直弼に推挙したという形を取っていた。

 しかし、裃の池田は、懐に『下』と記された書状を、里に渡し、こう言った。


 「里、よくぞ今まで耐えてきたな。殊勝なことだ」


 少し、涙ぐむ池田を見て、春明はさすがに憮然とした。

 

 本来免状が届いたところでお目見えは二月ふたつき以上先になるのが通例だが、その日のうちに登城を許す文が届いた。

 里が仏壇の前で「兄様が仕官ッ!!仕官ッ!!」と修羅のように朝方まで唱えている声が脳内で響いて、ついに春明は一睡も出来なかった。




日は昇り、清水門から二の丸に入り、本丸に入る許可を得、桔梗門を抜ける。すると巨大な石垣が見え、春明は御天守が健在ならば、どれだけ荘厳だろうと感慨深く見上げた。ご本殿の勝手口で小姓が名刺と呼ばれる木札を求めた。もともと昇殿が許されたのは本日初めてなので、井伊直弼からの文を見せる。その文を小姓が奥に持って行くと、小姓頭のような輩が現れて、腰低く、頭を垂れて両手を上げた。一瞬何事かと思ったが、すぐに得心し、腰の加州一文字兼佑を預けた。

 本来、ここは公方様の執務室や私室があり、さらに主だった幕閣の執務室や応接の間等がある、直参でもなかなか出入りできない場所である。

 長い廊下を静々と渡り、小姓から聞いた場所へと向かう。途中、裃が整えられ、姿勢のよい近習とすれ違うたび、己の様相を気にして裃の袖や、腰刀の位置を直す春明だった。


 やがて、六畳間の一室につく。開けると中の小姓が平伏して、春明を案内した。

 座に就くとすぐに上座にご大身が坐した。春明は厳かに平伏した。


 「その方が御家人井瀬春明か」


春明、平伏のまま「は」と答える。


「わしは間部じゃ。……まあ井瀬氏、表を上げられよ」


春明は顔を上げる。


「井伊様のお墨付きということで異例ではあるが……。御家人から旗本に昇格した例もなくはない……か」


困惑した顔で独り言をつぶやく間部を春明はただ眺める。


「井瀬氏に伺いたいのは……まあひとつだな」


春明は間部の要領を得ない言い回しにイライラすることなく、黙々と聞いている。


「異人について思うことを何でもよいので言うてみよ」


「は……。巷では天狗顔の大柄で毛むくじゃらの獣ようだとか…よなよな生き血を啜るとも聞き及んでおりまする」


ごほんっと咳をし、扇を膝に立てる、間部。


「異人に会うたことは?」


「ございません」


春明は直言し、間部を見据えた。


しばし目をつむり、間部も正面から春明をしっかりと見据える。


「異人と出会うたら、斬るかね?」


間部の重い口調に、春明はふっと穏やかに笑う。


「問答無用はそれがしの性分ではありませんぬ。異人とて人間……。話し合ってからでも遅くはないと心得ます」


「ふむ…下がってよい」


間部は満面の笑みを浮かべた。



部屋を辞し、裃の春明は勝手のわからぬ場所で翻弄しつつ廊下に出ると、


「春!!」


突然、思わぬところで意外な人に呼び止められた。


「崇兄い……。珍しいとこであうもんだ」


鮫柄の裃に御紋は『武田菱』。かの信玄公の血を受け継ぐものだが、直系ではない。信玄公の次男にあたる血族であり、武家の名門に似つかわしくないほど様々な苦労の末、現在に至るのだ。


「そういえば、高家職を継いだんだって?」 


武田家の部屋住ながら高家見習として召し出された武田崇信は、心の底からつまらなさそうな顔で嘆息する。


「毎日、毎日公家衆の相手をさせられて、やれ和歌だ、やれお茶だってなもんよ……。お前さんと賭場を荒らして酒を呑んでた日々がなつかしいぜ」


「ご大身の旗本になっても兄いは変わんねぇな」


「春こそ旗本の仲間入りだぜ」


豪快に笑う崇信。しかし急に顔を寄せ小声でささやく。


「春のお役は噂では異人関連みたいだぞ……。攘夷派連中に気をつけろ」


春明の背中をたたき、再び大笑いしながら手をあげ去っていく崇信。


崇信の遠ざかる背中を見送り嘆息するのもつかの間、突然障子が開き、手を引かれて中へ連れ込まれてしまった。


「やあ、春さん」


普段と違う場所で会うと急激に緊張が増す。


「こ、これは、井伊様……」


 膝を突こうとする春明を直弼が両手で支える。


「誰もいないんやし、いつものセンセでよかんせ」


「間部氏になん聞かれはったん?」


その問いに少し戸惑いを覚えつつも、春明は端的に答えた。


「異人を斬るか…と」


直弼は愁眉をみせる。


「んで?」


「話し合っても宜しいのではと答えました」


「ほいね! せやたら近々使いを出すよって、今日はお疲れさん」


颯爽と出ていく直弼。一人取り残された春明はぐったりと座り、大きく肩を落とした。



翌々日。再び裃の池田頼方が春明邸に顔を見せた。公方様の御印が捺印されている海防掛並に就く旨のお役状を正座している春明に渡す。横で里が何度も何度も平伏していた。それをげんなりした面持ちで見つめていた春明だった。


さらに翌日。センセから伝助なる丁稚を貸し与えられ、ともに下田へと行くことになったのだった。 



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