第四話:花の生命
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晩秋の風が強い。冬の到来を感じさせる冷たさだった。
春明は巣鴨、池袋村を抜け、隠田川〈渋谷川〉沿いに、無数の水車が立ち並ぶ田園風景を眺めながら、隠田橋を渡る。渡った先にあるのは彦根藩邸下屋敷である。
表門をくぐりと回る。木々に囲まれた裏手に出ると、長年出入りしていないと見つからないほど、目立たない勝手口を開いた。
周囲には季節を彩る花々が飼育されている。花壇の真ん中を突き抜ける細道を抜け、やがて離れ小屋の縁側に辿り着いた。
「センセ、今日もチャカポンですかい?」
春明は無遠慮に縁側に座る。奥の座敷で四十前の覇気溢れる壮年が瞳を輝かせて花を活けていた。
「ん? そんとこかいな」
花を活けている男の口元は愉しそうで目は真剣だ。
ふいに一人の女中風の女人が、お茶と菓子を持って現れた。
「あらあら、井瀬様。いらっしゃってたんですか? 殿も殿です。一声おかけくだされば」
「たか、堪忍や。それかて春さん、たった今来はったばかりよって言う暇もなかったんや。なあ、春さん」
「そんなんでさァ……。ってことで面倒掛けやす、たかさん」
春明はバツの悪そうにぺこりと頭を下げる。
たかは、茶盆を春明の傍に置き、
「それはそうと、井瀬様も、いい加減表からいらして下さいね。昔の部屋住みの頃とは違い、今や彦根のお殿様なんですから。殿の立場もあります。で、ございますわよね? 殿」
たかの苦言に男は困った顔をして、春明を見た。是非も無しと言った笑顔に、春明はやっぱり藩主として家督継ぐ前の井伊直弼のままだと思った。
春明は傍らの番茶に手を伸ばし、一口すする。
本来なら、殿様のために用意した茶と菓子を、ふらりと現れた貧乏御家人に振る舞うこと自体あり得ないことだ。仮に他家で同じ振る舞いをしたら、その女中はその場で手打ちになっても仕方がない。
ここにはそういう自由がある。春明は直弼の格式張らず、来客を等しく受け入れる人柄が好きだった。
「殿のお茶は改めて持って参りますね。では井瀬様、ごゆっくり」
たかは柔らかな物腰でお辞儀をして、小袖の裾を鳴らしながら去って行った。
「……センセ。生け花ってのは花の生命力で美しい世界を表現するってことでしたよね?」
「一輪一輪の花の美しさと生命が融合し調和しやしたとき、世界が広がり感動を受けるもんや」
春明はハサミで切られた花を手に取り、
「人の都合で手折られ、作られた箱庭の世界に閉じ込められてっのに、そこはやっぱり美しい世界なんですかね?」
直弼は手を止め、不思議そうに春明を見る。
「春さん、なんしたんけ?」
「昨晩、行きつけの店で酒を呑んでたとき、水戸の家中らしい侍が入ってきたんでさ。そこで攘夷だの異荻を斬るだのと大声を張り上げて、気分が悪くなっちまったんで別の店で呑みなおしたんでさ」
ほうっと嘆息する春明。
「センセの花にケチをつける気はねぇ……。ただそれを見てると地面のねぇ侍という花だけで活けられた世界を美しいと思い込んで、蜜を運ぶためにやってきたミツバチをやたらめったら斬ろうとしてるような気になるだけでさ」
直弼は笑う。
「異国は蜜を運びはるミツバチやと?」
「いや、単に花園を荒らすだけのクマかイノシシの類かも知れねぇ。ただ、今はわかんねェだけさね」
直弼は立ち上がり、縁側にどかりとあぐらをかいた。おもむろに春明が一啜りした茶を見た直弼は、自分が手持ち不沙汰に気づき、「たか、たか」と呼ぶ。
しかし、たかが持ってきたのは茶ではなく、酒だった。直弼は満足そうに大きく頷くと、猪口の一つを春明の手に乗せ、酌をする。
「えーほん、ほてから春さんなら花をどう生けるん?」
直弼は手酌で注ぎ、くいっと干す。春明も同じように干し、今度は直弼の猪口に酌をした。
「おいらにはテンでわかんねェけど……」
と、言いつつ庭を見渡しつつ、一輪の小さな野花を見つける。
少し間があったが、春明なりに何かを決めたのだろう、迷いなく縁側を降りて、その一輪の花を土ごと掬う。
「オイラの花はこれだけでさ」
春明の、素朴で荒削りな、でも純真な心に直弼は思わず魅かれた。
ハッとした顔もつかの間、笑い出す。
「ほんま、春さんはおもろいわぁ!!」
直弼はまた一口、酒を干した。