第三話:黎明
※※ 03 ※※
安政四年〈一八五七年〉十一月。昼下がり。
お城よりやや離れた、騎馬を許されぬ下級武士が住まう場所。
御徒町と呼ばれるこのあたりは、本丸詰めと西の丸詰め合わせて徒歩組十五組の組屋敷が軒を揃えている。
町人の往来も激しい。大川から獲れた鮒を桶に入れて売り歩くもの。現場へ急いでいるのだろう、大きな仕事道具を担いで器用に人波をくぐりながら走る建具師。大店の若奥様風の小奇麗な小袖の女人。大きな声で呼び込む瓦版売り。
喧騒な街の様子が、組長屋のひとつ、小さな屋敷の一室にも響く。
春明は着流しまま、転げてタバコを吸いながら、聞くともなしに耳を傾けていた。
「兄様!!」
開けっ放しの襖から縁側が見えるところに少女が立っている。年の頃は十二・三といったところか、幼さの残る愛らしい頬をふくらませ、眉間にしわ寄せ本気で立腹している様が見てすぐわかるが、それすらも可愛らしく見えた。
「ん? 里か……」
里と呼ばれた少女は足音激しく近寄り、春明を見下ろす。
「里か……ではありません。家督相続は許されたとはいえ、無役のまま。だらけすぎですッ!!」
「っつでも無役だからなァ。これといってやることもなし」
すいーっと白煙を吐く春明。と同時に里の怒りが頂点に達した。
「兄様!!」
その場に正座して、掌で畳を叩く里。春明ものろのろと起き、あぐらをかく。こういう時は決まって里の説教が始まる。が、これを無視すると泣き喚き、決まって池田様か、遠山様に告げ口をし、後がもっと面倒になるので、春明はいつも従うことにしている。
母は里を生んですぐ逝ってしまい、春明が里の面倒を見ていた。父親は南町奉行所で与力をしていた。その縁か、当時お奉行を務めていた遠山景元様、その後任の池田頼方様には随分とお世話になったのだ。しかし、父が御用中、不幸な事故のもと殉職した。
嘉永六年、春明十六の頃、丁度昌平坂学問所を「甲」で主席修了した年だった。跡目相続は池田様が骨を折ってくれ、ご公儀に認められたものの、お役は無かった。いくら主席でも身分が低かったからである。
そして現在に至る。
里は春明を正面から見据える。
「我が家は大権現様のご祖父にあたる清康公以来の三河武士なのですよ!!」
「まあ、そうだな……。今や貧乏御家人だけど」
里はむうっと再び小さな頬をふくらます。
「兄様は、我が家の家紋丸に一葵の由来をご存じですよね?」
「そりゃー、おめぇ、散々聴かされたからな。なんでも清康公がちぎって、はいこれみたいな……」
春明は当然の顔をして言う。対して里の怒声は一層激しくなる。
「なんと恐れ多い!! 良いですか? 清康公が勝ち戦で岡崎城に移られたとき、井戸に絡まっていた葵のつたを拾い上げになられた。そこには四枚の葉がついていて、もったいなくも我が先祖にあたる井瀬春清殿に一枚下げ渡されたのです」
一旦言葉を切ると里はお城の方角に向かってお辞儀する。そして再び厳しい視線を春明に向けた。
「その時の一枚が我が家の家紋、あとの三枚の葵が恐れ多くも公方様の家紋なのです。我が家と将軍家は切っても切れぬ関係なのです。それをまあまあ、よくも無役だからと……」
里の凄みに圧倒されて、思わずよろける。春明は喧嘩で負けを認めた闘犬のように項垂れながら、遠慮がちに里の後ろに回る。
「……兄は、ちぃーと用事を思い出したので、出かけてくるからよ……」
「兄様!! どこへ参るのです!?」
愛刀の加州一文字兼祐と黒漆の腰刀を握り、春明は脱兎のごとく門を出た。
この度もお付き合いいただき、ありがとうございます。
これをお読みいただいた方はすでにご存じとは思いますが、井瀬家は全くの架空です。
ちなみに松平清康が井瀬家に下したという葵の葉の逸話は全くのフィクションで、三つ葉葵の由来は諸説ありますが、今回の逸話は当然フィクションです。
ご感想お待ちしております。