9 屈強なる赤毛の騎士
正午前には、ニュクスとイリスはリアンの町を見下ろせる丘の上へと到着していた。
子供の足では大変なのではとニュクスは心配していたが、子供ころから周辺の自然を駆けまわっていたイリスの体力はとても優秀で、疲労の色はまったく見えない。
「疲れてないか?」
「全然平気。ニュイは?」
「俺も全然。絵描きというのは、けっこうタフなんだよ」
殺しの仕事のために鍛えているとはもちろん言えない。
とはいえ、殺しのために鍛えた体のおかげで、高山や深い森の中などの厳しい環境下に赴き、普通に生活していたら決して拝むことの出来ないだろう絶景を目にすることが出来る。そういう意味では、絵のために鍛えているというのも、あながち間違いではないのかもしれない。
「あれがルミエール家のお屋敷か」
「そうだよ。大きいでしょう」
ルミエール家のお屋敷は現在ニュクス達がいるのと同じ丘の上に建っており、目視でその全容を確認出来た。
二階建ての豪奢な屋敷は、貴族の威厳を存分に感じさせるが、その反面周辺の警戒はそこまで厳重ではない様子だ。
他の地域の例に習うなら、権力者の屋敷の周辺数十メートル以内には、部外者は許可無く立ち入ることは出来ないケースが大半だが、ルミエール家のお屋敷は、こうしてニュクスが屋敷の直ぐ近くまでやってきているにも関わらず、それを咎める者はいない。そもそも、周辺の見回り自体が行われていないようだ。
流石に門番くらいはいるようだが、領主の屋敷ということを考えれば警備が薄すぎる印象だ。
――平和ボケか、それとも。
時折起こる魔物の襲撃を除けば、目立った争い事もなく平和な領内。領民たちに近い目線に立ち、親近感を与えるソレイユの人柄。
それらを考えれば、悪意ある人間の襲撃などそもそも想定していないのかもしれない。もちろんこれは希望的観測であり、別の可能性も存在する。
例えば、警護が無くとも身の安全を保障できるだけの自信がルミエール家の人間にある場合。
ソレイユはクルヴィ司祭が警戒する程の資質を持つ英雄の原石。警護を置かずとも、自力で賊に対処出来る自信を持っている可能性は高い。もしかしたら警備の薄さこそが、賊を罠に誘い込む魅力的な餌なのかもしれない。
「ニュイ。お屋敷が気になるの?」
「とても立派だからね。絵描きの性で、ああいう建造物には見入ってしまうんだ」
子供というのは意外と鋭い。あまり屋敷に意識を向けるのは控えた方が良いと考え、ニュクスは絵描きとしての顔を全面に押し出していくことに決めた。
「さてと、この辺りでいいかな」
愛用のリュックを地面に下ろすと、ニュクスは持参してきた画材道具一式を広げていく。
画材道具といっても、本職ではないのでそこまで大がかりなものではない。
紙とそれを固定する画板、予備も含めた数本の鉛筆、それを削るためのハンドナイフと線を消すための食パン。ニュクスの絵は鉛筆画で完成なので、用意する道具はせいぜいこんなものだ。
「何を描くの?」
「丘から見下ろした町を描こうと思うんだ」
「いいねいいね。完成したら私に頂戴!」
「いいよ。ただし、俺の絵は着色をしないから、少し物足りないかもしれないぞ?」
「いいの。私、ニュイの絵好きだもん」
「嬉しいことを言ってくれるね」
点在する天然の岩のベンチに腰を掛け、ポジションとする。
標高60メートル程の丘だが、リアンの町や周辺の農園が隅々まで見渡せ、写生を行うにはうってつけのスポットだ。
「ここまで連れて来てから言うのもなんだけど、退屈じゃないか? 俺はここで絵を描くだけだし」
「ニュイが絵を描いているところを見てたいの。私の事は気にしないで」
「そう言われると、逆に気になるな」
ニュクスは不思議な気持ちだった。
絵描きとしても、人目に付くのを良しとしないアサシンとしても、視線を感じながらの作業はどうにも落ち着かない。
落ち着かないだけで、決して不快感があるわけではないのだが。
「ニュイはどこで絵を学んだの?」
「独学だよ。旅の合間の暇潰しに始めたら、いつの間にか趣味になってた」
各地を飛び回るアサシンという仕事柄、移動にかける時間も長く、それだけ色々な風景を目にする機会も多かった。そんなニュクスが絵描きとして目覚めたのは、ある意味必然だったのかもしれない。
「私も頑張れば、ニュイみたいな綺麗な絵が描けるようになるかな?」
「イリスが望むなら教えてあげるよ。俺がこの村に滞在している間だけだけど」
「いつまでこの村にいられるの?」
「まだ決まってはいないけど、たぶん、そう長くはないと思う」
「ニュイがいなくなるのは、少し寂しいな」
「俺は旅人だからな。大丈夫、きっとまたいつか会えるさ」
優しい言葉でニュクスは嘘をつく。
ソレイユ暗殺を果たしたなら、ニュクスはきっと、もう二度とこの地に戻ってくることは無いだろう。
殺しを生業とする人間が私情で町を再訪しても、誰も幸せにはなれない。
「ねえ、この建物ってもしかして宿?」
「そうだ。宿は他の民家よりも背が高いから、シンボルとしてよく映える」
ニュクスの描きき込んでいく町の姿の中に、イリスは自分の家でもある宿を見つけたようだ。住み慣れた家が描かれていく様に、身を乗り出して見入っている。
「凄い凄い。お家だ!」
はしゃぐイリスの歓声をBGMに、ニュクスは穏やかな表情で鉛筆を動かしていく。
イリスにあげるための絵だ。いつも以上に力を入れて完成させようとニュクスは心に決めていた。
「おや、誰かいるのか?」
イリスの声を聞きつけたのだろう。ルミエール家の屋敷の方向――修練場として使用されている空き地から、一人の大柄な青年が歩いてきた。
銀色の重量感のある分厚い鎧を身に着けた屈強な肉体と、堀りの深い端正な顔立ち。髪型は、赤毛の短髪をオールバック風ににまとめている。そんな物々しい外見とは裏腹に、声色と瞳はとても優しい。
「こんにちは、クラージュ様」
「おお、宿屋のイリスか。しばらく見ない内にまた少し大きくなったな」
「クラージュ様。台詞がおじさんっぽいよ」
「お、おじさん?」
「隣のおじちゃんみたいな物言いだから」
「私はまだ20歳なんだが」
「知ってます」
「まったく、小生意気なところは変わらんな」
クラージュと呼ばれた騎士と、イリスが同時に破顔し笑いが巻き起こる。
クラージュはとある仕事で半年前より王都へ出向いていたため、イリスの顔は見るのは久しぶりだった。育ち盛りの町の子供を見ればこそ、親戚の子を見るかのような、年寄り染みた言動も飛び出すというものだ。
「騎士様でございますか」
「これは失礼。名乗るのが遅れた」
ニュクスの存在を失念していたクラージュは申し訳なさそうに一礼し、咳払いをして仕切り直す。
「私は代々ルミエール家に仕えるアルミュール家の騎士。クラージュ・アルミュール。以後、お見知りおきを」
「旅の絵描き、ニュイと申します。こちらこそよろしくお願いします。アルミュール殿」
「クラージュで構わんよ。見たところ、年の頃も私とそう変わらなそうだ」
「それでは、クラージュさんと呼ばせていただきます。私のことも、ニュイで構いません」
「承知した」
初対面の挨拶を終え、二人は握手を交わした。
「ニュイ殿の噂はソレイユ様から聞いている。良い絵を描くそうだな」
「お褒めに預かり光栄ですが、私は画家としてはまだまだ未熟です」
「そう謙遜するな。ソレイユ様は芸術にも傾倒しており審美眼に優れる。あのお方に褒められるというのは、とても名誉なことだと思うぞ」
「勿体なきお言葉です」
謙遜する振りをして、ニュクスはクラージュという男をつぶさに観察していた。
名乗られる前から、クラージュの名は知っていた。
代々ルミエール家に仕える勇猛果敢な騎士の一族。
主君たるルミエール家の令嬢を狙う以上、クラージュの存在は暗殺の障害になりかねない。
無論、暗殺である以上、周辺の人間に気付かれずに事を終わらせる予定だが、万が一対峙することになった場合に備えて警戒は必要だ。
クラージュは重装の鎧を軽々と纏い、それでいて動作の一つ一つが滑らかだ。体格からも見て取れるように、フィジカルに優れる人物に違いない
現時点で武装は不明だが、あの強靭な肉体の持つ力を最大限に活かそうとするならば、大剣か斧辺りを扱うのではとニュクスは予想した。
「クラージュ様。今日はニュイと一緒に絵を描きに来たんだよ。見て見て、ニュイの描いた町」
「おお、これは素晴らしい」
芸術に疎いため語彙に乏しいが、それ故に感想が率直だ。
「ソレイユ様も気に入られるわけだ。赴きがある」
「ありがとうございます」
クラージュの言葉には裏は感じられない。きっと彼は、ストレートに思考を言葉にするタイプの人間なのだろう。
そう感じたからこそ、ニュクスはクラージュからの好意的な意見を素直に喜んだ。
「クラージュ様。私達はもうすぐお昼にしようと思うんだけど、一緒にどう? ニュイもいいよね?」
「俺は構わないよ」
「申し出はありがたいが。まだ鍛錬の途中でな、食事はまたの機会にさせてもらう」
「えっー、つまんない」
「イリス。クラージュさんを困らせたら駄目だぞ」
「ははっ、まるで兄妹だな」
ポンとイリスの頭に手を乗せるニュクスを見て、クラージュはほっこりした様子でそう言った。
「ニュイ殿はしばらく町に滞在するのであろう?」
「その予定です。現在はオネットさんの宿にお世話になっています」
「機会があれば一度ゆっくりと話しをしたい。聞くところによると、各地を旅してきたのだろう? 旅の話には興味がある」
「分かりました。機会があれば是非とも」
「ああ、楽しみにしている」
豪快に笑うと、クラージュは再び修練場の方へと戻っていった。
――クラージュ・アルミュールか。
面倒事は嫌いだ。出来れば彼と刃を交える展開にはなりたくないとニュクスは思った。