19 日陰者
「失礼します」
翌日の朝。ソレイユはニュクスの部屋を訪れていた。
ニュクスは鈍った感覚を取り戻すかのように、上半身裸で腕立て伏せに没頭している。
その姿を見たソレイユは、一瞬目を丸くした後、表情を綻ばせた。
「順調に回復しているようですね」
「おかげさまで」
腕立てを中断してベッドに腰掛けると、ニュクスは首にかけていたタオルで汗を拭った。
「今日はお願いがあって伺いました」
「お願い?」
「これから町へ下りる予定なのですが、同行していただけませんか? あなただって、何時までも屋敷の中では退屈でしょう」
「どうして俺を? 護衛役なら他に幾らでもいるだろう」
そもそも暗殺者を退けるような強者に、護衛が必要なのかとさえニュクスは思う。
「いいえ、あなたでなければいけません」
「……まあいい。暇潰しくらいにはなりそうだ」
ソレイユの願いを聞き入れ、好印象を与えておくことは決して損にはならない。素っ気ない態度ながらもニュクスは同行を決めた。
「決断が早くて助かります。お着替えは如何されますか? もしよろしけば屋敷の者に用意させますが」
「着慣れた服が一番だ」
水差しからコップに注いだ水を飲み干すと、ニュクスはリュックの中からプライベートで着用している浅葱色のプルオーバーとベージュのコットンパンツと取り出した。絵描きのニュイとして町を訪れた時の服装だ。
「女性の目の前だというのに、躊躇なく着替えだすんですね」
「そういうお嬢さんも、恥じらって目を逸らしたりはしないんだな」
ソレイユに見つめられたまま、ニュクスは淡々と部屋着の麻のズボンを脱ぎ、インナー1枚の肉体美をさらけ出す。
細すぎず、重すぎず。人を殺すために鍛え抜かれた実用的な肉体は、ビジュアル的にもとても美しい。
先の暗殺未遂で負った真新しい傷が痛々しいが、それを除けば目立った傷跡はほとんど存在しない。暗殺者として、常に一撃必殺で仕事を果たしてきた実力を、その体が何よりも証明している。
「あら、恥じらう反応がお好みでしたか?」
ソレイユは悪戯っ子のような笑みを浮かべ、目を両手で隠しながらわざとらしく顔を逸らした。
「可愛げのないことで」
皮肉交じりに苦笑を浮かべながら、ニュクスは手早く服を着こんでいく。なるべく隙を見せたくないという暗殺者の性分か、日常敵な動作にも無駄が少ない。
「画材もお忘れなく」
「画材も?」
「たまには外で絵を描くのも悪くないでしょう?」
「それはまあ、そうだな」
素直に頷き、ニュクスは画材をリュックへと詰め込んだ。
「リス。お待たせ」
「いえ、私の方も今し方準備を終えたところです」
屋敷のエントランスには、斜めがけのバッグと、昼食が入った木製のバスケットを携えたリスの姿があった。リスが小柄なせいか、標準サイズのバスケットが大きく見える。
「眼鏡っ娘も一緒か」
「はい。ソレイユ様の外出には、私が付き添うことが多いので」
「リスはとても優秀ですよ。護衛としても、気の利く友人としても」
「確かに、俺も一撃くらっちまったしな」
不意打ちとはいえ、ニュクスはリスからも手痛い一撃を貰っている。ソレイユはもちろんだが、リスの魔術師としての戦闘能力も相当だ。
多少は心を開いたということなのだろうか? ニュクスの言葉を受け、リスは誇らしげに控えめな胸を張っている。
「さて、メンバーも揃いましたし、そろそろ出発――」
「お待ちください!」
ソレイユの声を割って、クラージュ・アルミュールが険しい表情でエントランスへと飛び込んできた。
稽古終わりなのだろう。上半身は鎧を脱ぎ、黒い半袖のインナー一枚となっている。
「どうしました?」
「どうしました? ではありません! 賊を伴って町へ下りられるとは本当ですか?」
「はい。これから向かうところです」
「危険です! ソレイユ様の身に何かあれば」
「心配し過ぎですよ。それと賊という呼び方は止めなさい。ニュクスは私に助力してくれると約束してくれました。今では立派な客人です」
「その件、私は納得しておりません。ソレイユ様はお優しすぎるのです。悪いことは言いません。今からでも賊を拘束し、王都へと送還いたしましょう」
「あなたの心遣いには感謝しています。ですが、もう決めたことです」
「ソレイユ様……」
「私を信じてください。ニュクスはきっと、私達にとって有益な存在となってくれます」
――勝手に期待されてもな……。
正論なのはどう考えてもクラージュの方。当事者のくせに無責任と思われるだろうが、変り者のお嬢様に振り回されるクラージュを、ニュクスは不憫に思っていた。
「……ソレイユ様がそこまで仰るのなら今は引きましょう。ですが、納得したわけではありません」
苦々しい顔で頭を垂れたクラージュが顔を上げた瞬間、ニュクスと目が合った。
「荷物を検めさせてもらうぞ」
「ご自由に」
ニュクスは快くリュックを差し出す。中身は全て画材なので、疚しいものは何もない。
ククリナイフも返却されているが、現時点で帯刀したままソレイユに近づくのは心象が悪いだろうと判断し、部屋に置いてきている。今のクラージュの対応を考えれば、ニュクスの考えは正解だったといえるだろう。
「……画材ばかりか」
怪訝そうにクラージュがリュックの中身を調べていくが、ある物に手が触れた瞬間、声を荒げた。
「刃物! 貴様、懲りずにまた――」
「落ち着けよ騎士様。そいつは鉛筆を削るためのナイフだ。人を殺傷するような威力は無いよ」
画材として必要だから持参しただけであり、ナイフにそれ以外の意味合いはない。
もちろんその気になれば武器として使用することは可能だが、ソレイユ相手では現実的ではないし、何よりも画材を凶器として使うことはニュクスのポリシーに反する。
「……まあいい」
渋々といった様子でナイフをリュックへと戻し、クラージュは荷物の検閲を終えた。
「持っていけ」
「どうも」
乱暴に突き返されたリュックを、ニュクスは淡々と両手で受け取る。
「ソレイユ様の身に何かあれば、その時は分かっているな?」
「即、首でも刎ねるかい?」
「王都に送還だ」
「ずいぶんとお優しいことで」
「首だけでだがな」
「そいつはいい。長旅は身軽に越したことはない」
生真面目な騎士と軽薄なアサシン。決して交じり合うことのない二人は、さながら水と油だ。
「ソレイユ様。決して隙を見せませんように」
「分かっています。まったく、クラージュは心配性なんだから」
「私はソレイユ様をお守りする盾ですから」
「ありがとう。クラージュ」
「どうかお気をつけて」
ソレイユに向けて短く一礼し、クラージュはその場を後にした。
「……お堅い男だな」
「苦手なタイプですか?」
ニュクスの呟きをリスが拾う。
「苦手というよりも、眩しいね」
「眩しい?」
「生真面目で実直。俺には真似出来ない生き方だ」
「羨ましいんですか?」
「そういうわけじゃない。だけど――」
自虐的な笑みを浮かべ、ニュクスはリュックを背負い直す。
「――日陰者には、真っ当な人間は眩しすぎる」