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18 趣味の時間

 ニュクスがソレイユの提案を受け入れてから三日。

 魔術による治療に加え、元より治癒力の高かったニュクスは、自由に歩き回れるまでに回復していた。

 しかし、生憎あいにくと部屋の外を出歩く気分にはなれていなかった。

 ソレイユの忠告通り、臣下しんかたちからの風当たりは厳しい。

 ニュクスを目にする度、屋敷の誰もが恨めしい視線をぶつけ、あからさまな不快感をあらわにしている。

 ニュクスは闇の世界で生きる者。他者から向けられる悪意など大して気にはしていないが、だからといって、進んで居心地の悪い空間に飛び出そうとも思わない。

 幸い、ソレイユのはからいで画材一式が提供されたので、部屋を出ずとも、静物画せいぶつがを描くなどして退屈せずに過ごせている。


「今日も居座るつもりか?」


 ニュクスは画材の用意をしながら、ベッド脇の椅子に腰かけるリスの方へ振り向く。

 リスは昨日もニュクスの部屋を訪れており、食事やお手洗いで席を外す時を除き、5~6時間は部屋に居座っていた。

 ソレイユが忠告していた、臣下たちによる自主的な監視が始まったものだとニュクスは考えていたのだが、どうやらリスにはそのような意図はないらしく、


「はい。この部屋は静かなので、読書に集中するには良い環境です」


 持参してきた大判の本に目を通しながらリスが頷く。昨日よりもページが進んでおり、本の半ばにしおりが挟められていた。


「……とかいって、実は俺の監視が目的なんだろ?」


 昨日と同じ質問を、あえて今日もぶつけてみる。


「ソレイユ様の意志は私の意志。ソレイユ様があなたを許したのなら、私もあなたを許します」

「まあ、それならそれでいいが」


 こうして会話を交わすようになって間もないが、自主性の少ない少女だというのがニュクスが抱いた印象だ。

 ソレイユの意志に一貫して忠実な臣下のかがみ。そう言えば聞こえはいいが、リスの場合は若さ故の依存に見えなくもない。


「そういえば、眼鏡っ娘は何歳だ?」


 まだ把握していなかったのでこの機会に尋ねる。


「今年で14歳になります」

「俺の3つ下か」


 だいたい予想通りの年齢だったので、ニュクスは納得して頷いた。


「ニュクスは、ソレイユ様と同い年なんですね」

「意外か?」

「少し、ニュクスは老け顔です」

「せめて大人っぽいとか言ってくれよ」


 ニュクスは苦笑交じりに肩をすくめる。生まれつきの灰髪の印象も手伝って、実年齢より老けて見られることには慣れていた。


「何を読んでいるんだ?」

「ヘンリー著のミステリーを。小説は、ジャンルを問わず大好きです」

「読書家なんだな」

「本は私にとって友達。ソレイユ様の次に大切な存在です」

「友達か。だったら――」


 ならば好都合と、ニュクス自身の持ち物であるカーキのリュックを漁り始め、中から革表紙の大判の本を取り出した。


「ほら」

「こ、これは!」


 手渡された本を見てリスの目の色が変わる。それまでは落ち着き払った印象だった少女が、この時ばかりは年頃の少女のように無邪気だった。


「オットーの新作! まだ発売前のはずなのにどうしてこれを?」

「ここに来る前はメ―デンにいてな。オットーはメ―デン在住の作家だから、アルカンシエルよりも先に発売していたんだ。知人からの貰い物なんだが、読書はどうにも苦手でな。お前にやるよ」

「いいんですか?」

「ああ。お前の手元にあった方が、こいつも嬉しいだろ」

「大事に読みます!」

「お、おう」


 前のめりになって満面の笑みを向けるリスにたじろぎながらも、笑顔を見て悪い気はしなかったので、ニュクスの表情も穏やかだ。


「ニュクスは不思議な人ですね。今のあなたを見ていると、あの夜の出来事が全て幻だったかのようです」

「簡単に人を信用するものじゃないぞ」


 今回のニュクスの行動には、決してリスを懐柔かいじゅうするような意図は無いが、あまり世間を知らなそうな少女に対する親切心のつもりで、あえてそんな言葉を投げかける。

 ニュクス自身もそうだが、殺しと日常を瞬間的に切り替えることが出来る人間は、いつの時代にも確実に存在している。虫一匹殺せなそうな隣人が殺人鬼だったというケースは、歴史上そう珍しくはない。


「年上からの忠告ですか?」

「暗殺者からの警告だ」


 微笑みながらそう言うと、ニュクスは画材の準備を再開した。


「絵描きとしての顔は、周囲に怪しまれないための仮面だと思っていましたが、病み上がりに再開するくらいですし、本当に絵を描くことが好きなんですね」

「絵だけは昔から続けている趣味だからな。とはいえ、仮面という表現もあながち間違いじゃない。趣味人としての顔を印象操作に利用しているのは紛れもない事実だ。近年、世間は芸術活動に寛容かんようだからな」

「趣味すらも殺しのお仕事に利用するなんて、私には考えられません」

「それが普通だ。理解なんてする必要はない」


 やはりこの時も、ニュクスの声色は穏やかだった。


「怖がらせる気かと思いきや、次の瞬間には優しい顔でフォローする。あなたはやっぱり変わった人です」

「変り者じゃなきゃ。暗殺者なんてしてないさ」


 ニュクスの視線は、写生するべき風景ではなく。遠くに置いてきてしまった、戻れない過去に向いているようだった。


「……ごめんなさい」

「どうして謝る?」

「……少し、悲しそうでしたから」

「考えすぎだ。それよりも、俺はそろそろ絵を描き始めるから、気が散らないように大人しく読書してろよ」

「出て行けとは言わないんですね」

「ここは静かで読書がしやすいんだろ? だったら好きなだけここにいていい。趣味を楽しみたい気持ちは人並みには理解しているつもりだ」

「やっぱり変わった人」

「旅の絵描きなんて、変り者くらいで丁度いいものさ」


 その会話を最後に、ニュクスは写生に、リスは読書にそれぞれ没頭した。


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