56 悪意の螺旋
「レーブ!」
「嫌、レーブ……」
「……ごめんなさい」
大切な家族を喪った兄弟達の慟哭が響き渡る。無力感に打ちひしがれたシエルは負傷も顧みずに悔しそうに床面へと拳を打ち付け、ペルルは親友のソレイユの胸の中で号泣し、ブラウスを涙で濡らした。クリスタルだけは気丈に涙を堪え、我が子の瞼を閉じてやり、その額に優しく口づけをした。
例えアマルティア教団の内通者であったとはいえ、一人の幼い少年が命を落したという事実は心を抉る。身内である王族以外の者達も複雑な感情を胸に宿し、俯きがちに目を伏せる者も多い。この時も平然としてたのは、人の死に慣れ過ぎたニュクスとファルコくらいのものであった。
「……シエル兄さま、クリス姉さま。色々とお聞きしたいことがあります。お二人はどうしてレーブがこのような行動を取ったのか、思い当たる節があるようでした……そして、レーブはクリス姉さまのことを姉ではなく、母と呼んだ……兄弟として、私にも事情を知る権利はあるはずです」
ひとしきり泣きじゃくった後、幾分かの冷静さを取り戻したペルルが腫れた目で兄と姉へと問いかける。コゼットの治癒魔術で腹部の傷の治療を受けているシエルと、レーブの亡骸を抱き抱えるクリスタルが目配せして頷き合い、妹へと真実を語ることを決意する。
「……レーブは私が16歳の時に生んだ実子です。……父親は私達の実父、トルシュ・カンセ・アルカンシエルです」
「そんな……」
衝撃的な告白にペルルは絶句する。この場で唯一事情を知るシエルは沈痛な面持ちで目を伏せ、事情を知らぬ他の者達は一様に動揺を隠せないでいる。ペルルの体を支えるソレイユでさえも、この時ばかりは動揺から目を細めていた。
「一体どういうことなのですか?」
「……当時は母上が病に倒れ、病床に臥せっていた時期。母上を溺愛していた父は母上の死期が近いという事実に絶望し、心を病んでいました。その結果、歪んだ欲望は母上と瓜二つであった私へと向いた……私は激しく抵抗しましたが、父は無理やり私を……」
「そんなことって……」
大国の王が身勝手な欲望を実の娘へと向けた。決して公には出来ない、あまりにもショッキングな事実だ。
「……私がレーブを授かったと知り、父は堕胎を迫りました。父にとってはお腹の子は自身の過ちの象徴。自身の罪は棚に上げ、レーブを激しく忌み嫌いました」
「……我が父親ながらとんでもない男さ。その事実を知った時、俺はあの男への尊敬の念を捨てた」
故にシエルはトルシュ国王が病床に臥せた今となっても、決して見舞いに顔を出そうとはしない。今でこそ誇りを胸に騎士として活躍しているが、少年期に騎士を目指した理由の一つには、王城から、父親から距離を置きたいという思いも少なからずあった。
フォルス・ルミエール卿という尊敬出来る師や、良き姉弟子でありライバルであったソレイユとの出会いがシエルを救ったが、それが無ければシエルは王国を出奔し、もっと捻くれた人生を送っていたやもしれない。
「……身ごもった命を無責任に放棄するような真似は出来ないと、私は強く反発しました。事情を知ったドゥマン兄さんやフィエルテも、『弟を見殺しには出来ない』と私の味方をしてくれました。二人の協力はとても大きかったです。無論、父は反抗する我が子の数が増えたところで気にも留めませんでしたが、ドゥマン兄さんが強い交渉カードを用意してくださいました。当時はすでにドゥマン兄さんが政治手腕を発揮し、次期国王として大きな存在感を表していた時期。ドゥマン兄さんは父の政策によって出た経済的損失を、自らが提唱し進めた政策で得た利益で相殺、損失の解消という形で大きな貸しを作りました。自らの有能さを知らしめることで、政治的影響力もより高まることとなりました。そうなると、国王とはいえドゥマン兄さんの意見を無視することは出来なくなります。結果、私は堕胎を免れることが出来ました。私とお腹のレーブのために尽力してくださったドゥマン兄さまとフィエルテには、今でも深く感謝しています」
涙は見せないが、クリスタルは唇を噛みしめながら亡きレーブの頭を優しく撫でた。
「……奇しくも私がレーブを生んだのは、母上がお亡くなりになる前日のことでした。そのタイミングを利用し、レーブは病床の母上が命と引き換えに生んだ第六子であると、公には発表しました。当時の私が病気療養を理由に離宮に籠っていたことは、幼かったペルルも何となくは覚えているでしょう?」
「……はい。幼い私は何も疑問を抱きませんでしたが、当時の姉さまは身重だったということなのですね」
無言で頷き、クリスタルは語りを継続していく。
「レーブが第四王子であると公にしたことで、父ももうレーブを無碍には扱えません。これで全てが丸く収まったと安心していたのですが……父は露骨にレーブを避け続けました。乳母と私とで赤子のレーブを育てましたが、レーブを第四王子であると公表した以上、私は母を名乗ることも出来ません。レーブにとっての母親は、彼を産み落とすと同時に亡くなったことになっている。父親は我が子を忌み嫌い近づこうともしない。幼少期のレーブは母親の顔と父親の愛情を知らずに育ったのです。私は母としても愛情も注いできたつもりでしたが、レーブにとって私はあくまでも歳の離れた姉でしたから」
「……そんなことになっていたなんて、私、全然知りませんでした」
「当時6歳だったペルルにだけは悟られないようにしようと、兄さま達と話し合って決めていたの。あなたには王室の影を知らぬまま、健やかに育ってほしかったから。それに、何も事情を知らぬまま、純粋にレーブに対して姉弟として接してあげることの出来る存在であってほしいとも思ったから。本当はシエルにも真実を知らせるつもりはなかったのだけど、この子は本当に勘が良くてね。父との交渉材料を手に入れるため、ドゥマン兄さまとフィエルテが水面下で動いていることに気づき、私達に真実を問い詰めてきた」
「……幼いなりに、姉さんの変化には気づいていた。口に出すと少し恥ずかしいが、当時の俺は姉さんっ子だったからな」
当時の自分と邂逅するかのようにシエルは目を伏せた。当時9歳の少年には感情的に父親に反発することくらいしか出来なかったが、仮に今の自分のまま過去に戻れたなら、もっと、大好きな姉の力になってあげられたのだろうかと、そんなIFを想像する。
「……父との確執はあっても、レーブは立派に成長してくれました。出生に秘密を抱えていようとも、家族として深い愛情を注いでくれた兄弟たちのおかげだと思っています。レーブ自身もとても頑張り屋で、勉学や武術の稽古に励み、一人の王子としても将来を期待されるようになりました。そんな我が子の成長が心の底から嬉しくて……私は昨年、禁を犯してしまいました」
「姉さんは、レーブに本当の母親は自分であると伝えてしまったんだな」
「……はい。それこそが今回の事態を招いてしまった一因だったのかもしれません」
「レーブの反応は?」
「最初こそ驚いていましたが、幼いなりに私の態度が実の姉以上の何かであると直感していたそうです。レーブが事実を受け入れ、私を母と呼んでくれるまでに、時間はかかりませんでした……このことは、親子二人だけの秘密としました。これ以上は兄弟たちに余計な心配をさせたくありませんでしたから。余計な火種を生まぬよう、周りの目のある場では変わらず姉と呼ばせましたが、二人きりで過ごす時間は親子として接しました。この一年間は、私達親子にとっては夢のような時間でした……」
「……出生の秘密を知ったとはいえ、それだけでレーブが今回のような凶行に及んだとは思えない。親子として姉さんと心穏やかに過ごせたのなら尚更だ。いったい何がレーブの心に影を落とした?」
「……父です。今から半年ほど前だったでしょうか。病床の父が、それまでは避け続けていたレーブを自室へ呼びつけ、一対一で話をする機会を設けたのです。病で弱った父は威厳を失い、一時に比べれば随分と性格が丸くなっていました。レーブだって列記とした血を分けた息子ですし、各分野で才能を発揮し王子としての自覚も備わってきた。ついに父がレーブという存在を受け入れ、温かな言葉をかけてくれる時が来たのだと、そう思っていました……ですが現実は違った……」
「あの男は、レーブに何を伝えた?」
「……あろうことか父は、幼くも様々な分野に才能を発揮するレーブへ嫉妬心を抱き、酷い言葉を浴びせたそうです……耐えかねたレーブは、父の前で禁忌を漏らしてしまいました」
母であると告げてしまったことを、クリスタルは激しく悔いている。
レーブが出生の秘密を知らなければ、父にそのことを問い掛けることが無ければ、この時のやり取りが、これ程までに残酷なものになることはなかったかもしれない。
「……自らの出生の秘密を口にしたのか」
「……レーブは優しい子です。自らの出生の秘密を知っても、例え避けられ続けているとしても、父親のことを愛していました。レーブは自身の思いの丈をぶつけることで、父からも愛情を向けてもらいたいと考えたのです。彼らしい、純粋で優しい考え方だと思います……ですが、偏狭で小心者の父の捉え方はまるで違った。愛を求めるレーブの純粋な思いは、父の目には自らの過ちを責める行為と映ったのでしょう……10歳のレーブに怯え、これまで以上に酷い言葉の数々をレーブへと浴びせかけました。自分とクリスタルの間に生まれたお前は本来存在してはいけない忌子。やはりあの時堕胎させるべきだった。お前の顔など見たくない。どんなに努力を重ねようともお前を王子としては認めない……自慢の息子である三人の王子たちには、忌子であるお前は遠く及ばないのだと……父から浴びせられた暴言の数々を……レーブは淡々と私に聞かせました……まるで他人事のように……レーブの心が壊れてしまったのは……その時だったのだと思います……」
思い返すだけで胸を締め付けられるのだろう。俯くクリスタルは終始嗚咽交じりであった。
「……くそ親父が!」
「……酷すぎます」
怒りと失望の念がシエルとペルルの胸中に渦巻く。
父親のあまりにも身勝手かつ残酷な一面を知ったペルルは元より、すでに良い感情など微塵も抱いていないシエルは、失望を通り越して憎悪すら覚えていた。
「……レーブは言いました。『優秀な兄さま達を越えることが出来れば、父上は僕を認めてくれるでしょうか』と、『だったら、僕はどんな手を使ってでも兄さま達を越えてみせます』と。その時のレーブの凍てつくような冷徹な目は、今でも夢に見ます。レーブの意志は暴言を浴びせた父に対する怒りではなく、父の認める優秀な三人の兄を、どんな手を使ってでも越えるという執心に支配されてしまったのです。
もちろん私は、あんな男の言葉なんて気にしなくていい、そうレーブへ訴えかけました。兄さま達とはこれまで通り、仲の良い兄弟でありましょう。あんな男の言葉を真に受け、兄弟同士でいがみ合う必要などないと。……レーブは最初こそ虚ろな目をしていましたが、数日もすれば今までのように自然に笑ってくれるようになりました。シエル達への接し方もこれまでと変わりありませんでしたし、心の整理がつき、元のレーブに戻ってくれたのだと、本当に強い子だなと、そう感じて安心していました……そのまま何事もなく、半年の月日が流れましたが……まさか、今になってこのような事が起こってしまうなんて……今夜、事態を知った私は半年前のレーブの冷徹な目を思い出し……即座に我が子の関与を疑ってしまいました……思い過ごしであってほしかったけど……」
全てを語り終えたクリスタルは、救ってあげられなかったことを悔い、レーブの亡骸を力強く抱きしめた。
レーブの凶行を止め、シエルの命を救うために無心で矢を放った。しかし、無情にも矢はレーブの心臓を射抜き、その命を奪ってしまった。我が子の命を自らの手で奪ってしまうという残酷な結末。それこそが禁を破り、母であるとレーブに告げてしまった自分に与えられた罰なのだと、クリスタルは今の状況をそう受け止めていた。
「……レーブ君一人の感情でこれ程の事態を招いてしまったとは思えません。アマルティア教団の介入が彼の闇を増大させた部分も大きい……教団からの接触が無ければ、レーブ君とて凶行に走ることはなかったと、私はそう思います。過ちは犯しましたが、レーブくんも被害者の一人です」
それまでは沈黙を貫いてたソレイユの発言。レーブを裏切り者の内通者と断ずることはあまりに酷だ。本来の彼はとても優しい少年のはず。教団の関与が無ければ、このような悲劇は起こらなかったに違いない。教団に加担してしまったグロワールの市民たちもそうであったが、教団は人の心の闇を増長させることに長ける。本来、過ちを犯すはずではなかった人間に一線を越えさせる。許しがたい行為だ。
「……レーブを一人にさせては可哀そうよね」
レーブの亡骸を床へと横たわらせたクリスタルが、生気のない声で徐に立ち上がった。その手には、懐に隠し持っていた短剣が握られている。
「駄目だ! 姉さん」
これからクリスタルが何をしようとしているか、誰にでも容易に想像出来る。
クリスタルは自らの心臓目掛けて突き刺せるよう、両手で握った短剣を内側へと向けた。
「止めて! 姉さま!」
「ごめんね、二人とも」
兄妹が必死に訴えかけるも、我が子の後を追おうとする母への説得には至らない。
「死んではなりません! クリスタル様!」
ホール全体に響き渡る程に声を張り上げたのは、大粒の涙を浮かべるリュリュ・ビーンシュトックであった。音量故から感情故か、その叫びはクリスタルの挙動を微かに遅らせた。
「死んでは駄目だ姉さん! レーブだってきっとそんなことは望んでいない」
「シエル……」
一瞬の隙を見逃さず、一番近くにいたシエルが力技でクリスタルの両手から短剣を奪い取った。衝撃でクリスタルは転倒しすぐさまペルルが介助に入る。
「……姉さままでいなくなってしまったら、私……」
「ペルル……」
「死んではいけませんよ、クリスタル様」
「……リュリュ」
「……子を産んだ経験のない私には、我が子を失ったクリスタル様の心境は想像することしか出来ません。……ですが、大切な人を失う悲しみは痛い程に理解出来ます。クリスタル様が死んでしまったら、シエル様やペルル様、ドゥマン様やフィエルテ様が深く悲しみます……ご兄弟のためにも、あなたを愛する全ての国民のためにも……どうかクリスタル・ポワソン・アルカンシエル王女の命を奪わないでくださいませ……お願いいたします……」
兄弟の温もりと、普段は大人しいリュリュが感情的に放った説得の言葉は、生を諦めようとしていた女性の瞳に微かな希望の光を灯した。
「……私は……本当に愚かですね……残された者の気持ちも考えず……身勝手に逝こうとするなんて……」
「ありがとう、姉さん……」
「……姉さま」
最愛の弟の死と、最愛の姉の生が、兄弟達の感情を爆発させる。
兄弟三人が身を寄せ合い、涙が枯れるまで泣き続けた。声が枯れるまで泣き続けた。ずっと、ずっと、感情のままに泣き続けた。
心に闇を宿した少年の抱いた小さな悪意。
それを利用しようとしたアマルティア教団の悪意。
私的な感情で殺戮を楽しむ暗殺者達の悪意。
愛情ゆえに凶行に走ってしまった乙女の悪意。
憧れ故に憧れの人へ刃を向けた青年の悪意。
歪んだ欲望の果てに、過ちを犯した愚かな王の悪意。
王都へ渦巻く悪意の螺旋は、アマルティア教団の作戦失敗及び、運命に翻弄された一人の悲しき王子の死によって一応の収束を見せた。
しかし、螺旋の与えた影響は大きい。
此度の事件は関係者たちの心を穿ち、大きな風穴を残していった。




