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異邦変移の散歩者

作者: やなせかずひこ

「方向音痴じゃないよ、自分がどこにいるか分からなくなるだけだよ?」


 樹堂あきらは物心ついたときから、よく迷子になっていた。

 両親の話だと、ハイハイを始めた頃から気がつくと姿が消えていたことがちょくちょくあったという。ただ、またふと見るとそこにいるものだから、ちょっと目の届かない場所に潜り込んでいたのだと思ったという。

 彼が初めて“それ”を意識したのは、保育園に入る前の日のことだった。

 「はじめてのおつかい」というやつだ。

 別にテレビの取材でもなんでもないけれど、自宅から二〇mほど離れたところにある肉屋までタマゴを買ってきて欲しいと、夕食の支度で忙しい母から頼まれたのだ。

 あきらはモンスターを小さい器に押し込めて持ち歩き、呼び出しては闘犬みたいに戦わせるアニメを見ていたけれど、はあいと元気よく返事をすると百円玉二枚をビニール袋に入れ、買い物袋を手にして俺は出かけた。

 そして、三〇分経っても一時間経っても戻らなかった。

 半狂乱になった母が、仕事を切り上げて飛んで帰ってきた父や、裏手に住んでいた義弟夫婦や向かいのおばあちゃん、バイクで巡回していた駐在さんたちと探し回っても見つからなかった。最寄りの幹部交番から応援のミニパト三台が到着した頃には、町の防災無線も町内全域に呼びかけを始めていた。

 翌朝にはローカルなケーブルテレビのニュースとなり、昼には田舎から祖父母が車を飛ばして駆けつけ、夕方には地方局のニュースとなった。


 泥だらけになった幼児が発見されたのは、三日目の朝だったそうだ。

 すっかり疲れ切って小学校の門にもたれかかって寝ているところを、登校してきた教頭が見つけたのだ。


 学校の保健室で毛布にくるまっているところに両親祖父母がかけつけてきて涙の再会となったが、あきらの最初の言葉は「ばんごはんにタマゴがまにあわなくてごめんなさい」だったという。すぐに警察もやって来て、婦警さんが何があったのか聞き出そうとしたが、これはうまくいかなかった。

 単純に迷子になっていただけなのだが、どこに行っていたのか最後まで分からなかったのだ。

 ただ、タマゴを買いに出かけたものの気がついたら道に迷ってどこにいるかわからなくなり、うろうろしていたら空き地で焚き火をしていたおじさんに出会ったということ、そして百円玉一枚と引き替えにタマゴを分けてもらったこと、お腹が空いていたら何か焼き鳥みたいなものを分けてもらったこと、とにかく帰ろうと元来た道を探しているうちに疲れて眠ってしまったということ。

 子供の話にしても時間の経過におかしな点があり、そこは日をおいて落ち着いてからまた確認しようというということになったのだが、本当の問題はそこからだった。買い物袋の中のタマゴがニワトリの卵ではなかったのだ。


 袋の中には五個の卵が入っていた。玉子ではなく卵だ。

 大きさは鶏卵でいうならLLサイズ、決して珍品というほどの大きさではないが、色が違った。ピンクのラメ色だったのだ。

 保健室でおそるおそる一個だけ割ってみた母親から悲鳴が上がった。

 中から出てきたのは卵の黄身と白身ではなく、ぬるっとした膜に包まれたトカゲのような生き物の幼生だったのだ。

 大騒ぎになって警察と県と大学の間で揉めたあげく県内の動物園に預けられたが、結局、孵ったのは一匹きりで、それも一週間も経たずに死んだらしい。

 しかし、動物園でも大学の研究室でも、何の卵であったかは分からなかった。この段階で通常で区分されるところの野生動物でもワシントン条約に触れる生物でもないということで県は手を引き、大学と動物園が喜々として連携して調査をした結果、未知の新種と判明。シンヤマノテオオトカゲとかいう野暮ったい名前がついた。

 樹堂あきらの名前をつけようという案も出たらしいけれど、それは両親が断った。現代の神隠しだとテレビに取材されたり、天狗に掠われたなどと周囲からはやし立てられないよう、事件の隠蔽を徹底的におこなったのだ。

 転ばぬ先の杖、あきらの用心深すぎる性格は、この両親から受け継いだものなのだろう。


 これが自分の能力によるものだと気づくのはもう少し先の話で、他の人はそんなことができないというか起きないことに気づくのはさらにその先のこと。いろいろ心配されたりからかわれたりするのもイヤなので、誰にも言わないようになったのだけれど、それでもときどき迷子になった。

 最初の時のように、長い間行方不明にならなかったのは、戻り方を覚えたからだろう。つまりは慣れだ。


 自分では、この力を「異邦変移」と呼ぶようになった。中学二年の頃からだ。こういう難しいことばを使いたくなる時期ってあるよね。

 異邦変移はとにかく移動するだけだ。歩いているうちに、少しずつ周囲の景色が変容していく。佐藤さんちの前を通り過ぎて鈴木さんちの前に行くように、電柱の住所表示が一丁目から二丁目に変わっていくように、サンゴ樹の生け垣がアカメ樫に変わっていくように、周囲が見知らぬ木立になり、沼地や岩場になったり、高層ビルが建ち並ぶ一角になったりしていくのだ。いろいろ不思議な光景も見えるけれど、そこで立ち止まってもさっと画面が流れるようにめまぐるしく世界が変容し、たいていはいつもの町並に戻ってくる。

 今では子供の頃のように、どこか別の世界に迷い込んで足止めをくらうことは滅多にない。

 自転車でもどうなるか試したことはある。

 そのときは突然、目の前に出現した何かにぶつかってはね飛ばされ、気がついたら自宅から二キロほど離れたところにある水田の用水路に壊れた自転車と一緒にひっくり返っていた。

 どうも、速すぎると前方に突然出現する何かをよけられないらしい。

 だから、高校を卒業し、大学に入って運転免許を取得してからも、異邦変移をしながらの運転はしない。うっかり変移しそうになったら、すぐに減速して路肩に寄せ停める。ダメ、ゼッタイ。居眠り運転や飲酒運転よりやばい。事故を起こしたら、どこに放り出されるか分からないのだ。


 高校の頃には滅多に転移しなくなった。

 異邦転移の能力が消えたわけではない。意識して転移しないようになっただけだ。

 具体的には、移動する時は常に目的地を意識するようにする。簡単なようだが、これが案外と難しい。

 誰だって通学路みたいに毎日決まったコースなら、よそ事を考えていても足が動くが、これがまずい。

 小学校を卒業し、中学に入って最初の頃、気がついたら小学校に向かっている、なんて経験は無かっただろうか。アレと同じで、なんとはなしに歩いていると迷子になる。単なる迷子ではなく、異邦転移の迷子だ。気がついたら、天空にオーロラが広がる雪原に立っていたこともある。

 だから、常に気を張って歩かねばならなかった。これはけっこうツライ。


 なんとか慣れたのは、大学に入ってからのことだった。転移はほとんどしなくなった。

 必修科目もクリアし、サークルで友人もでき、コンパで騒いだ。ちょっとかわいい女の子とメルアドを交換し、サークル連絡用にLINEを登録し、ちょっと浮かれてながら帰路についた。


 角を曲がった途端、目の前に人がいた。最初は壁かと思った。

「あ、ごめんなさい!」

 避けようとして失敗したと思った。一瞬、目の前が真っ暗になったからだ。そして何か赤い糸の絡まりのようなものが視野をよぎった。

 しかし、ぶつからなかった。

 少なくとも衝撃はなかった。立体映像か何かのように通りすぎたのでなければ、お互いなんとか避けられたのだろう。

 ただし、自分はよろめいたし、相手は石畳の上に倒れ込んでいた。


「痛っていなあ」

 ふらつく足取りからすると、どうも向こうも酔っているらしい。

「大丈夫ですか」

 ぶつかって転ばせてしまったかのように思えた相手を助け起こそうとした瞬間、樹堂あきらには「やっちまった」とわかった。

 差しだした手に「すまんなあ」と言いつつつかまって立ち上がったのは、深紅の鱗に身を包まれた二足歩行のトカゲだったのだ。

 これはまた新しい世界のような気がする。

 少なくとも言葉が通じるし、大気中に致命的な要素は含まれていないのだろう。そういう世界には本能レベルで停止しないようになっている気がする。

「呑みすぎたなあ」

 照れたように大笑いするトカゲの顔を見て、少なくとも顔には出ないんだなあとあきらは変に感心した。

 呑みすぎたと言いつつ、次の言葉でトカゲはあきらを飲み直しに誘った。

「今日はお金、持ってないんですよ」

「イイよ、これも何かの縁だよ。今日くらい奢るよ!」

「おれ、未成年ですし……」

「歳いくつ? 十九? 人族なら十分に大人じゃねえか!」

 トカゲはウワバミだった。どうやら陽気だけれど(トカゲの表情は読めない)、たちの悪いからみ酒のようだ。

 酔っ払いは機嫌が良いうちに言うことを聞いておくものだということは、大学のコンパで学んだ。

 適当にはいはいと相づちを打っておいて、適当なところでフェードアウトするのが処世術だ。


 危なそうな店に連れ込まれそうだったら後先考えずに逃げようと思っていたが、連れていかれたのは案外と普通の露店の立ち飲みだった。

「おっちゃん、火酒二杯。それからタマゴ、生で」

「おれ、タマゴ茹でたので」

「半熟、固ゆで?」

「固め」

 見たところ、つまみはタマゴしかなさそうだ。男らしい店というべきかな。

 濃厚な赤紫色の液体がお猪口みたいな小さな陶器の器で出てきた。

 ちょろっとなめてみたが、案の定、どろっとしてきつい。フルーティーな甘味もかすかにあるが、度数がとにかく蒸留酒並にありそうだ。

 見知らぬ世界でトカゲと二人で屋台呑みというのは、あきらにとっても初体験だった。

 結局、ぐでんぐでんに酔っ払い、港の突堤で水平線から上る朝日を拝むこととなる。


 呑み友達ができた。

 また逢わなくちゃいけないから、またあの世界へ行かないといけないから、これからはもう少し足下を見て歩こうと思う。

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