第11話 ミッドガルドの長い夜 4
蒼さま……。
蒼さま……。
何処かで自分の名前を呼んでる声がする。
しかし、何処でその声がするのか分からない。
何か、夢のような、気持ち良い音楽を聞いてるような気がするのだが……。
優しい、寝心地のよい、やわらかいベットの上でふんわりまどろんでるような、そんなゆったりとした
感じ。
その雰囲気が自分の全身を包んでいて、何の不安もない気持ちを味わっていた……。
「蒼さま、朝ですよ~。もう起きますかね~……」
不意にはっきりした声がしたと思った。
目を開けると、ふんわりと浮いた顔が逆さに自分を見ていて、ぶつかりそう程近い距離で笑って居るのだ。
「うわーーーっ!?」
蒼は、驚いて飛びのくと、腕に顎を乗せたブリュンヒルデが楽しそうにこちらを見ていた。
丁度、蒼の頭の高さの上ぐらいで、空中に浮いて床にうつぶせになったような格好をしているのだ。
「何やってるんですか、僕の部屋に入ってきて……?」
あまりの事に、蒼はその不思議な状態を見つめ、少し怒ったように言うのだった。
「下に行ったら、有風おかあさんが起こして欲しいというので、やってみましたが。あんまり早く起こすと寝顔が見れなくなるので、少し時間を掛けてみていました……。すみません」
そう言うと、頭を下げてすまなさそうに蒼を見るのだった。
その仕草が、また寝起きの蒼の心を鷲づかみにする。
しかし……、それを見た蒼がブリュンヒルデに苦笑いをした。
「あ、そんな事も出来るんですか……? しかし、それは母さんが卒倒しちゃうから、やめて下さい」
良く見ると、蒼の部屋のドアも壊しても居ないのに、ブリュンヒルデの身体が蒼の部屋からドアを突き抜けて廊下に浮いてるのであった。
確かに、それを見たら誰でも大声を上げて卒倒してしまいそうであった。
「これは、皆さんは出来ないのですか? 不便ですね……」
すまなさそうにそう言って、ブリュンヒルデは蒼の部屋にドアをすり抜けて入って来るのであった。
入ってきて、ちょんと音も無く座って、蒼を見て微笑む。
そんななんて事の無い仕草が、また蒼には眩しいほどに嬉しい気持ちにさせてくれるのだった。
言葉も言わなくても、見てるだけで思わず顔がほころんでしまう……。
しかし、蒼は慌ててブリュンヒルデから目を逸らして、自分の気持ちがばれない様に、誤魔化した。
「いや、起こしてもらってそんな僕の方がごめん。女神さまにそんな事させてこっちの方が申し訳ないです」
「そんな……、申し訳ないなんて、そんな事思わないで下さい」
蒼の言葉に逆にブリュンヒルデが謝って来た。
蒼の謝る事が、彼女にとっては嫌なことなのだ。
本当に、ブリュンヒルデは素敵な女性だな……と、その時蒼は改めて思っていた。
「それに……」蒼は言いにくそうに、他所を向きながら小さい声で呟いた。「それに、起こしてもらって嬉しかったから……」
恥ずかしそうに言う蒼の横顔を見て、ブリュンヒルデは嬉しそうに微笑んだ。
本当に蒼に言って貰えたのが嬉しかったのだ。
ブリュンヒルデは大きく頷いて嬉しそうにもう一度言うのだった。
「はい。私も嬉しかったです」
その笑顔は蒼を幸せな気持ちにしてくれた……。
朝も蒼の母親の有風とブリュンヒルデは仲が良くて、有風が持つお盆を先に持って朝食のパンやコーヒーを運ぶのであった。
やり方は知らない事が多々あるが、ブリュンヒルデはそれでも基本的になんでも聞いたらそつなくこなしてしまうので、有風もそんな彼女の行動に本当に満足して見てるのであった。
有風はブリュンヒルデの働き者の姿を見ながら蒼に近づいて小声で囁いて来たほどだった。
「本当に、あの子が日本で泊まる所が他に出てきても、ウチに泊めると言いなさいよ、もう蒼ちゃんの腕の見せ所だからねっ!」
「あはは……。出来たらね」
蒼も、自分が言った嘘とは言え、出来ればブリュンヒルデにずっと家に居て欲しいよ……と心の中で思うのであった。
朝ごはんのサラダや、目玉焼きを食べながら、三人は楽しそうに笑って日本の文化について話していた。
しかし、朝ごはんを横で食べるブリュンヒルデを見ながら、蒼はふと思ったことがあって彼女を見ていた。
朝ごはんを食べながら、ブリュンヒルデが日本の事を学びに来てるので言葉に全く不自由が無いことや、彼女が荷物も焼けてしまったので手持ちの荷物が無い事を話してるのだった。
いよいよ、蒼が学校に行く事になって、ブリュンヒルデも一緒に家を出て出発をする。
いつまでも手を振る有風に、ブリュンヒルデもいつまでも振り返りながら手を振っていた。
蒼は歩き出した時、先ほどの気になっていた事をブリュンヒルデに聞いてみた。
「ごめんなさい。母さんがなんとか君を引きとめろって煩く騒いでね。……でも、ご飯は食べれるのかなと思って、女神さまはウチのご飯は食べれるのかな?」
蒼がブリュンヒルデに思っていたのはその事だったのである。
ここ地上で生活したことのないブリュンヒルデが、日本の食事を食べる事が出来るとは、どうしても思えなかったのだ。
きっと口に合わないのに無理して食べてるのだと思っていた。だって、どう見ても北欧の出身の感じで、日本食が合うわけが無いと思ったからである。
「昨日もきっと無理に合わせていてくれたんでしょ? 悪い事しちゃったかな……と思って」
蒼はブリュンヒルデと歩きながら一言呟いた。
しかし、そんな言葉にブリュンヒルデは直ぐ様向き直って蒼に言ってくれるのであった。
「それは違います、物凄く美味しかったと言いましたが、それは本当の事だからです! なんでも食べれるのが自慢ですし。それに私、あんなに美味しいご飯みんなで食べたの初めてだったから……」
そう言うと、ブリュンヒルデはクルッと回って、思い出すように言うのだった。
「今日もまたあの美味しい『金色の衣のとんかつ』さん。食べれますかね? 楽しみです! ウフフ……」
見る者を幸せにするその笑顔に、蒼は自分の取越し苦労をまた笑うのであった。
ブリュンヒルデがずっと一緒では相当目立つと言う事で話し合うと、ブリュンヒルデは姿を消せる事が判り、見えない状態で蒼の学校に突いて来てもらうことになった。
蒼がそうしてくれとお願いしたのだった。
それは、ブリュンヒルデに前の晩に言ったとおり、地上の人間の学校を案内したいと思ったのもあるのだが、蒼が居ない間に有風と居て正体がばれてしまうと言う事が心配で、そうしてもらう事にしたのである。
空を飛びながらついてくるブリュンヒルデが、蒼が間に合いそうになかったので走り出すと、そのスピードにも遜色なく着いてくるのには驚かされた。
スピードも自由自在みたいで、便利だなと変な所で感心する。
しかし、驚くのは早かったみたいだった。
その日は、全てがついて居たのだった。
学校に行くのに少し遅くなっていたのだが、蒼が心配していつも運が悪いからと思っていると、気がついたら駅に向かう信号が全て青になっていたのだった。それには周りの車も驚いて、クラクションがチラホラと鳴っていたが、蒼はそのお陰で電車に間に合った。
それだけではない。
電車の中では先日の痴漢騒ぎになったお姉さんと目が合うと、凄い勢いで迫ってきて怒られると蒼が思った瞬間、「この前は勘違いしてごめんね。私が悪かったとずっと君を探してたんだ……」と言われ、紙袋にしまった高級そうなカバンをプレゼントされるのであった。蒼が驚いて返そうとするとお姉さんはぎゅっと蒼の手を握って、「私の気持ちだから受け取ってね」と、優しく言われるのだった。
学校では、苦手の歴史のテストで一度も当たったことのない山勘が、冴えに冴え渡って当たりまくり殆ど満点を取るし、クラスの掃除当番が、なぜだか先週変わってあげた事を思い出した友達の行為でしないで済むことに成るのだった――――。
「こんな事って有るんですかね? 今まで、こんな素敵な日は初めてだ。みんな、僕に良いことばかり起こるんだもん」
昼休み、屋上で姿を隠してる透明なブリュンヒルデに向かって、蒼は嬉しそうに言っていた。
蒼には、その透明のブリュンヒルデの姿も声も聞こえているのであった。
「それは良かったです。きっと、今までの蒼さまの良い行いが、実る日だったのかも知れませんね」―――― ブリュンヒルデは、その言葉に嬉しそうに傍で腰掛けて答える。
しかし、その嬉しそうに笑っていてくれるブリュンヒルデを見た蒼が、何かを思いついた。
「うん、でも待てよ。それって、女神さまがしてくれた事――なのかな?」
蒼が、ブリュンヒルデの顔を見て呟いた。
私? ―――― ブリュンヒルデが自分を指差して聞く仕草をする。
「いえ、そんな事は私はしていません。戦いに関してなら出来るのですが、運命については私の役目には反してるので……」
蒼に申し訳無さそうに言ってくる。
「なら、なおさら嬉しいよ。こんなついてるのが、女神さまの力でないなんて、一生に一度の事なんだろうね……」
そんなブリュンヒルデに向かって、蒼は嬉しそうに笑うのであった。
「でも、きっと君に会えたからなんだよね……? きっと神様の思し召しだよ。あ、女神さまのか?」―――― 蒼は、ブリュンヒルデを見つめながら、心の中でそう呟くのだった。




