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第58話 口内炎

作者: 山中幸盛

 一週間前の金曜日、夕食を食べていたときに、痛っ、と舌を噛んでしまった。涙をにじませながら舌を動かしてみると、下の歯がざらざらしているようなので、歯が欠けてその尖った部分に舌をこすりつけてしまったのかもしれない。

 以来、土曜日、日曜日は、噛むたびに痛いので食事に要する時間がべらぼうにかかるようになった。しかしまあ、舌を噛んで口内炎になることは年に一、二度はあることで、これまでは放っておいても知らぬまに治っていたから、この時はまだ、そのうちに治るだろうと安易に考えていた。

 ところがである、夜、歯を磨く際に口の中を観察してみると、舌の裏側に白い部分がくっきりと、一センチ以上の幅で二センチほどの長さに広がっている。これほどまでに巨大な炎症は初めてのことなので仰天した。

 案の定、月曜日の朝、いつものように前夜の残りのコーヒーを口にふくむと痛いほどにしみる。だから朝食は、卵かけごはんをぬるく冷ました味噌汁でそろそろと喉の奥に流し込む。通勤途上の車の中でペットボトルのお茶を口にふくむと、これがまた傷ついた舌にヒリヒリとしみる。

 それでも、月曜日と火曜日の朝は職場に到着すると、いつものように三百十円弁当を注文した。しかし痛くて噛めない。だから痛くない方の左側の歯を使って噛もうとするが、慣れていないので弁当がなかなか減らない。ふしぎなことに空腹感は去るのでもったいないが大半を捨ててしまう。

 だから水曜日からは弁当を断念し、家からカップラーメン一個を持参した。ラーメンは前歯でも噛み切れるのでなんとか腹に納まってくれた。そして、この期に及んでやっと、仕事帰りに薬局でスプレー式口内炎の薬を千円も出して買った。シュッと吹き付けると痛みが一時的にやわらいだが、内容量が二十ミリリットルだからこんな調子で使っていればまたたく間に空になってしまう。

 金曜日は悲惨だった。タバコの煙を吸い込むとヒリヒリ痛み、そして口を少し動かすだけで口内炎が暴れ出す。それでも必要最低限の会話は交わさねばならないので、そのたびに顔をしかめる幸盛に、誰しもが同情してくれる。

 昼食の時間に、同僚の一人が見かねて、愛用のタブレットで幸盛の近所で口内炎を治療してくれそうな『オクシマ歯科クリニック』とやらを探し出してくれた。幸盛もそれでやっと、これはもはや、市販の薬でどうにかなるような状況ではないことを悟った。

 帰宅してすぐ、インターネットで確認してみた。その歯科クリニックのホームページによると、JR蟹江駅のすぐ北側、幸盛の家から徒歩で五、六分の近所にあることが判明した。夫婦で歯科医師、スタッフがパートも入れて八名いるクリニックで、「歯科口腔外科で扱う主な疾患」として【口腔内の外傷】と明記されている。これぞ地獄に仏。ああ、神様、仏様、『おくしま歯科クリニック』様。

 夕食の支度を済ませると、電話予約もせずに電動バイクにまたがって救世主のもとに飛び込んだ。

 受付の女の子にガバッと口を開いて口内炎を誇示し、すがるような目で見つめると、彼女は少々お待ち下さいと言って奥に引っ込み、すぐに、副院長の屋島由美先生を連れてきた。幸盛は由美先生にも口を開けて自慢すると、少し待つだけで診てくれることを確約してくれた。

 先客が二名いただけだったので十分ほどで呼ばれたが、今度は院長の屋島浩記先生が登場し「こんなにデカイのは滅多にお目にかかれない」と呵々大笑した後、その『神の手』で患部を手際よくレーザーで焼いてくれた。もちろん麻酔などしなかったのだが、それまでの刺すような痛さに比べたら、むしろ頼もしい重量感のある鈍痛があっただけで処置は一分もかからずに終了した。


 幸盛はメタボ腹だ。体重はベスト体重より三キロも多いので、二カ月後の健康診断までに一ミリでも腹を引っ込め、体重もベストまで戻そうと食事制限を始めたところだった。たとえば、北斗の月例会の帰りに『どんきゅう』に寄って、「桜えびのかき揚げおろしソバの大盛り」を、汁を一滴も残さずに平らげることに無上の喜びを感じていたのだが、前回は断腸の思いで大盛りを並盛りに代えたばかりだった。

 しかし、口内炎がほぼ完治した今、ハタと気付いた。この一週間というものまともに食事が摂られていない。アルコール類も、口にふくめば悶絶卒倒しそうなので月曜日から一滴も飲んでいない。

 そうなのだ、結果として、下手なダイエットなんかより、断然、体重は減っているはずだ。

 これぞまさしく怪我の功名、瓢箪から駒、ひょっとしたらベスト体重に近づいているかもしれない、と過大に期待しながら体重計に載った。

 ところが、その目盛りを見て幸盛はわが目を疑った。体重がほとんど減っていないのだ。

「なんで?」

 どう考えても理屈に合わない。そうだ、体重計の電池切れかもしれない、と、もう一度電源を入れ直して計ってみる。ところが、なぜだか数値は変わらない。

「そんな馬鹿な!」


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