朝 〜美結〜
「……おはよ」
扉を開けて、うつむいたまま、やっと絞り出した声に返事をくれるクラスメイトの気配が無い事に、少しほっとして、夏目美結は、教室の中に入った。
窓際の一番前の席にカバンを置くと、椅子を引く前に窓の外へ視線をやる。
「おはよう。黒田くん」
ボール避けのネットフェンスの向こうで、走るサッカー部員の中に友紀を見つけて、小さく呟く。
かなり早い時間の電車に乗って登校しているから、美結がいつも教室には一番に入る。それでも誰かいたら、と緊張しながら毎朝教室の扉を開けていた。
入学して暫くは、もう少し遅く通学していた。クラスメイト達は教室の扉を開けて、あたりまえにおはよう、と挨拶する。先に来ている子達が自然に答える。なんてことない朝の挨拶が、美結は苦手だ。誰かが開けて入る時に、なんとなく後ろからついて入るというのを繰り返していた。
扉の前でなかなか中に入れない美結の頭の上から、日焼けした腕が扉を開けたのは、四月の終わりの事だった。
「おはよう、夏目、何してるの?」
頭上から降ってきた声に、美結は驚いて持っていた本を床に落とした。それを拾い上げて美結に手渡してくれた声の主が、友紀だった。
「あ、あの……」
教室に入れない自分を見られた事が恥ずかしくて、おはようも、ありがとうも言えずにただ頭を下げる事しか、美結には出来なかった。
「おっはよう」
大きな声を出しながら、友紀が美結を促しながら教室に入ると、中にいた数人のクラスメイト達が次々に、挨拶をかえす。
「おはよう、黒田。朝から元気だな」
「おはよう夏目さん、黒田くんの声にびっくりしたでしょう」
「おはよう」
声が出なかった美結にまで、みんなが挨拶してくる。友紀のおかげだったのに、あの時のお礼さえ、ちゃんと言えていない。
あの日を境に、少しだけクラスメイトと話せるようになったけれど、美結はいつも自分の席で、一人で本を読んでいるような少女だった。
初めて日直になった日、緊張のあまり、いつもより二本早く乗った電車の窓から、美結は自転車を走らせる友紀を見つけた。
まだ空いている電車は、いつもの電車より優しい感じがした。そして、朝練でグランドを走る友紀を見つけて、早い電車での登校が、美結の日課になったのだ。
美結はグランドの友紀を目で追いながら、カバンから手帳を取り出した。六月のページに二回、七月のページに一回、青いペンで書かれた傘のマーク。
自転車通学の友紀が雨で、電車通学した日。美結が友紀と一緒に学校に来た日だった。そして、明日の土曜日には、赤い丸印が書いてある。その印に指を這わせ、美結は小さくため息をついた。
「どうしよう…」
美結が手帳を閉じてカバンにしまい、代わりに教科書を出して机の中に移し始めたとき、クラスメイトが扉を開けた。
「おはよう。夏目さん、いつも早いね」
「…おは…よ」
「おはよう」
頑張って笑顔を作った美結が言い終わる前に、次々とクラスメイトが、扉を開けて入ってきた。賑やかになり始めた教室から、美結がグランドに、視線を移すと、友紀は部室棟の方へ走って行く所だった。
「明日……」
先輩らしき人を追いかけるように走る友紀の姿を見つめながら、美結は呟いた。




