瓶の中の海
今日もまた23時退勤。
終電に揺られ、家に着く頃には日付が変わっている。
何かを食べる気力も、風呂に入る気力もないまま、俺はどかっと小さいテーブルの前の座椅子に身体を投げ出した。
「ただいま」
俺は、テーブルの上に置いてある小さな瓶の中で泳ぐ人魚に、帰宅の報告をした。
彼女を拾ったのは、何日か前の仕事帰りだ。
その日は月があまりにも綺麗で、いつもなら下を向いて帰る俺も、思わず見上げてしまうほどだった。
家路の途中にある公園の、誰が作ったかわからない人工池の横を通った時、月の光に反射する水面がパシャと跳ねた。
生物など生きていけそうにもない濁った池に何がいるんだ?と思い覗き込むと、小さな人魚がこちらを見ていた。
「えっ…?」思わず声を上げ、幻覚かと目を擦るが、やはりそこに存在していた。
しばらく互いに見つめあって、彼女の方が軽く微笑む。
その笑みが少し寂しそうに見えて、
「おまえも独りか?」と、零れた。
そして少しの水と彼女を、持っていたコンビニの袋に入れて、家に持ち帰った。
「またこんな時間まで働かされた」
「部長の確認が遅くて、仕事が回らない」
「同僚がまた退職した」
最近は毎日のように、人魚に愚痴を言う日々だ。
だが、彼女はこちらの言葉がわからないのか、言葉を発せないのか、ただただニコニコ笑っているだけだ。
初めのうちはそれでよかった。
しかし、何を言っても笑うだけの彼女に、そして何より、愚痴ばかり零している自分に、だんだんと苛立ちを覚え始めた。
ついにある日、
「オマエ、なんなんだよ!いつもヘラヘラ笑いやがって!俺のこと馬鹿にしてるのか!?」
と、机を思い切り叩きながら叫んでしまった。
瓶の中の水が、叩いた振動で、机にこぼれた。
ハッと我に返り、彼女の顔を見ると、そこにはいつもの笑顔がなく、眉を下げ、悲しそうな顔をしていた。
このままではいけない…。
俺は瓶を少し閉め、大事そうに抱え、真夜中、飛び出した。
息を切らし、着いた先は、波音が蠢く広大な海。
波打ち際まで歩き、瓶の蓋を開けて、そこにしゃがむ。
瓶を傾けると、彼女は静かに海へ滑り落ちた。
「さよなら」
俺は海に浮かぶ彼女にそう告げた。
彼女は不思議そうな顔で俺を見つめ、しばらくすると大海原へ泳いで行った。
俺は少しホッとしたような、胸がチクッと痛むようなそんな感覚を覚えた。
顔を上げ、見据えた景色は、満月の灯りが反射する水面と、禍々しさが宿るような濃紺な海だった。




