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第四話 西郷隆盛は、山盛りの豚肉を食って泣いた

第四のお客様は、薩摩の巨星・西郷隆盛です。

圧倒的な存在感を持つ彼が、酔月屋の敷居を跨ぎます。

京の繊細さと、薩摩の豪胆さ。その二つが交わる一皿の物語です。

京という町は、時に息を潜める。

とりわけ薩長同盟が水面下で動いていた頃の夜は、町全体が何かを待つように静まり返っていた。

私はその静けさの端で、酔月屋の灯りを守っていた。


その夜、店の敷居が軋むほどの巨漢が現れた。

頭を下げて入るというより、店が彼を迎え入れるのに苦労しているような風であった。

男は一言も発せず、ただ黙々と酒を飲んだ。

その背中からは、岩のような威圧感が漂っていた。


西郷隆盛――薩摩の怪物である。


名乗らずとも分かる。

あれほどの気を放つ男は、京にはそう多くない。


店内には、新選組の密偵らしき男たちも紛れていた。

しかし、西郷の放つ圧倒的な気に呑まれ、誰も近づこうとはしなかった。

むしろ、彼の背中に触れれば、自分の魂まで砕かれるのではないかという恐れがあった。


私は、西郷が時折見せる瞳の奥に、深い悲しみが宿っていることに気づいた。

それは、己の不幸を嘆く者の目ではない。

もっと大きなもの――国の行く末を背負う者だけが持つ影であった。


「親父どん……肉はあるか」


低く、腹の底から響く声だった。

私は頷き、厨房へ向かった。


薩摩の男は、甘いものと豚肉を好む。

だが、ここは京である。

薩摩の豪快な味をそのまま再現することは難しい。


私は京の食材を使いながら、薩摩の“わっぜ”な豪快さを思い出した。

豚肉を厚く切り、甘露煮に仕立て、山盛りに盛りつけた。

京の上品さと薩摩の豪胆さを、ひとつの皿に押し込めた。


娘が奥から顔を出した。

「お父はん、手伝おか?」

「ええ、ええ。奥にいなさい」

娘の無邪気な声に、西郷の肩がわずかに揺れた。


私は皿を西郷の前に置いた。

巨漢は、しばらくそれを見つめていた。

やがて、箸を取り、豚肉をひと口頬張った。


その瞬間、彼の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……旨い。故郷の味がしもんで……」


維新の怪物が、ただの空腹の男に戻った瞬間であった。


余談だが、西郷隆盛という男は、私を捨て、公に生きた。

己の幸福よりも、国の未来を優先した。

彼が泣くときは、己のためではない。

この国の行く末を思うときだけであった。


西郷は、山盛りの肉を黙々と食べ続けた。

その姿は、戦場に向かう前の兵ではなく、

遠い故郷を思い出す一人の青年のようであった。


やがて、娘の一人――次女が、恐る恐る近づいた。

「おじちゃん……おいしい?」

西郷は、涙を拭いながら笑った。


「よか、よか。ようできちょる」


その笑顔は、あまりに優しかった。

私は、その一瞬のために店を続けているのだと、ふと思った。


西郷は立ち上がり、深く頭を下げた。

「親父どん……この恩は忘れもはん」

そして、巨岩のような背中を揺らしながら、静かに去っていった。


私は、空になった皿を片付けながら思った。


強さとは、刀を振るうことばかりではない。

涙を流すほどの望郷を抱えながら、それでも前に進むこと。

それこそが、西郷隆盛という男の強さであった。


あの夜、酔月屋の灯りは、

維新の巨人が見せた、ただの人間としての一瞬を確かに照らしていた。


維新の怪物が流した涙。それは己のためではなく、故郷と国を想う慈愛の証でした。

四話までお読みいただき、本当にありがとうございました。


【読者の皆様へ】

この『酔月屋』には、これからも様々な志士たちが訪れる予定です。

「この人物の話が読みたい!」というリクエストがあれば、ぜひ感想欄で教えてくださいね。

引き続き、応援よろしくお願いいたします!

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