坂本龍馬は、煮物を食って笑った
初めまして、細川雅堂と申します。
激動の幕末、その路地裏で静かに営まれる居酒屋『酔月屋』。
第一のお客様は、あの土佐の風雲児です。
歴史の隙間にある、ささやかな食の物語をお楽しみください。
この国がどうなろうと知ったことではないが、娘が嫁に行くまでの平穏だけは、
神仏に縋ってでも守りたかった。
しかし、時代という怪物は、一膳飯屋の暖簾ごときでは到底防げぬ風を吹き込んできたのである。
京という町は、昔から風の通りが悪い。
何かが起これば、すぐに人の噂となって路地を駆け抜ける。
私はその路地の真ん中で、先代から続く居酒屋「酔月屋」を営んでいる。
月を名に掲げたのは祖父の趣味だが、今となってはこの店の灯りそのものになった。
妻と娘二人を抱え、日々の暮らしを守ることだけが、私のささやかな願いであった。
幕末の混乱は、まず店の空気を変えた。
浪士たちは血の匂いをまとい、商人たちは先の見えぬ世を嘆いた。
私は政治に興味はないが、客の顔つきの変わりようを見れば、
この国が長く続いた世の終わりに差しかかっていることだけは分かった。
ある晩、ふらりと一人の男が店に入ってきた。
背は高く、どこか海の匂いがした。
潮風に吹かれた旅人特有の、遠い土地の気配である。
武士のようでもあり、町人のようでもあり、
どうにも掴みどころのない風貌であった。
「親父さん、この煮物はうまいのう」
男はそう言って、にかりと笑った。
その笑顔が、妙に人を安心させる。
娘たちも、珍しく人見知りせずに笑い返していた。
不思議な男であった。
浪士のように血の匂いもなく、商人のように損得を語るでもない。
ただ、煮物をうまいと言い、娘の頭を軽く撫でて帰っていった。
その夜、妻が言った。
「えらいええ人やったなあ。どこのお侍さんやろ」
私は首を振った。
「さあな。だが、ああいう風の通りのいい男は、長く生きられん気がする」
余談だが、京の街路というものは、本来、外からの風を嫌う造りになっている。
外様の思想や新しい価値観は、いつの時代もこの町では長く留まれぬ。
あの男の軽やかさは、むしろこの「酔月屋」の灯りには似つかわしくなかった。
数日後、客の浪士が酒を煽りながら言った。
「坂本龍馬が殺られたらしいぞ」
私は手にしていた徳利を落としそうになった。
あの夜の男の笑顔が、ふっと脳裏に浮かんだ。
「坂本……龍馬……?」
「そうよ。土佐の変わり者よ。
日本を一つの船にするんじゃと、よう分からんことを言うて回っとったらしい」
私はしばらく言葉が出なかった。
あの男が、坂本龍馬だったのか。
思い返せば、あの夜、私は軍鶏鍋を仕込んでいた。
だが、客が多くて出しそびれた。
龍馬は煮物だけ食べて帰った。
「軍鶏鍋を……出してやればよかったな」
ぽつりと漏れた言葉に、妻が振り返った。
「なんやの、急に」
「いや……なんでもない」
私はそれ以上、何も言えなかった。
歴史の巨人とすれ違ったところで、私はただの居酒屋の親父である。
あの男の背中に、何かを託すことも、何かを止めることもできなかった。
ただ、あの夜、娘たちが笑った。
龍馬が笑わせてくれた、その一瞬だけは、確かに平穏であった。
それで十分だと、今は思う。
名もなき町人の人生など、歴史の大河には残らぬ。
だが、あの男の背中を見たという記憶だけは、
酔いの醒めた後、酔月屋の灯りに差し込む月光のように、
静かに、しかし確かに胸の底で揺れ続けている。
最後までお読みいただきありがとうございます。
龍馬といえば軍鶏鍋が有名ですが、「もし暗殺される前に、うちの煮物を食べて笑ってくれていたら」という空想からこの物語は始まりました。
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