幕間・アレクシスの変化
聖女の治療を受けた翌朝、アレクシスはいつもより体調が良かった。
祝福の後に毎回決まって襲われていた倦怠感が、跡形もなく消えていた。いつもなら起き上がることさえ苦痛なほど全身がだるいというのに、今朝は寝台を抜け出すのも苦ではなく、手元の書類を読み進めることも容易に感じられた。
老眼に悩まされていたはずの文字が、若い頃のように鮮明に見えるほどだった。
(……これは夢か。それとも幻覚か)
昨日は特別なことをした覚えがない。定期的に行われるセレスティナの祝福を受けただけのはずだ。
恐る恐る手鏡を覗き込むと、目の周りのくすみや皺が薄れていた。
これは明らかに、祝福の効果ではない。これまで聖女の祝福に、これほどの作用はなかった。
(いったい、何が……)
「アレク様、どうかなさいましたか?」
朝の光を横顔に受けながら、リリアがそう尋ねた。ふたりを囲むテーブルには朝食が並んでいる。
最近はできるだけリリアと共に食堂で食事を摂るようにしている。
(……これも、以前はできなかったことだ)
体調が悪かったということもあるが、何より使用人たちが《老化症》を恐れていたため、アレクシス自身もこの老いた姿を人前にさらすことに抵抗があった。
けれど今は違う。リリアが手ずから看病を続けてくれたおかげで、屋敷の空気が変わっていた。アレクシスはもはや恐れる対象ではないと、皆が少しずつ理解してくれている。
――それが何より嬉しかった。
今日は朝食の卵粥も、喉をするりと通った。
「粥だと物足りないな。料理長に普通の朝食を用意してくれるよう伝えてくれ」
そうメイドのミレイユに伝えると、彼女は驚いた顔をしたが、すぐに「はいっ!」と嬉しそうな笑みを浮かべて厨房へ駆け出した。
「アレク様……普通のお食事を? 召し上がれるようになられたなら、本当に良かったです」
リリアも驚きながら微笑んだ。
給仕が運んできたパンとスープ、サラダとハムを口にする。不思議なほど難なく喉を通っていく。
(体調がこれほど良く、食欲まで湧いてくるとは)
アレクシスは内心で驚きながらも、それを表情に出さないよう努めた。この急激な回復が、祝福の効果を明らかに超えていると気づいていたからだ。
(偶然ではない。何かが、確実に変わっている)
リリアは、驚きを隠しきれない表情でアレクシスを見つめている。
彼女の所作には、育ちの良さが滲んでいた。伯爵家で冷遇されていたとはいえ、その立ち居振る舞いには、きちんと積み重ねられた教養が宿っている。
野の花のような可憐な横顔を見つめながら、アレクシスは昨夜のことを思い返していた。
リリアの手に触れた瞬間に感じた、あの謎の力を。まるで自分の中に新たな生命力が注ぎ込まれるような、未知の感覚を。
「……リリア。体調はどうだ? 昨日から何か変わったことはなかったか?」
問いかけると、リリアは驚いたように目を見開いた。
「体調、ですか? 昨日は少し疲れていましたが、今朝は特に変わりはありませんけれど……」
訝しげに小首を傾げる。
(無自覚なのか……)
アレクシスは内心で安堵しながらも、まだ確信には至らなかった。
リリアが何か特別な力を持っているのか、それとも偶然のタイミングが重なっただけなのか。
(あるいは神殿が、私に何か特別な処置を施したのだろうか)
王弟であったアレクシスに対して、神殿側が特別に力を貸してくれた可能性もある。しかし、すぐにその考えを打ち消した。
(いや、あり得ない。神殿にそれほどの慈悲はない)
神殿の腐敗については、アレクシスは誰よりも知っていた。聖女でさえ道具のように扱われていることも。それがあまりにもひどいため、神殿上層部に働きかけたり寄付を行ったりと、アレクシスなりに支援を続けてきたが、聖女の待遇は一向に改善されない。
「アレク様、どうされました?」
リリアが心配そうにこちらを見つめていた。その眼差しは純粋で裏表がなく、春の陽だまりのような穏やかさがある。
「いや……少し考え事をしていただけだ」
リリアは何も知らないように見える。
――しかし、もしあの時、彼女が何か特別な力を発揮していたとしたら?
(リリアは、自分でも気づかないまま何かスキルを使っているのではないか)
アレクシスは心の中で疑念を転がした。
「リリア、食後に庭を散歩しないか? 今日は天気も良いし」
「えっ、本当によろしいのですか? 外を歩いても……」
リリアが目を丸くして心配そうな顔をした。
「ああ。今日は調子が良いから。たまには外の空気を吸わないとな」
軽く笑って見せると、リリアが嬉しそうに頷いた。その笑顔が、胸の奥をほんのりと温めた。
(もしも本当に、リリアが何か力を持っているとしたら……私のスキルなら、その正体を見通せるはずだ)
アレクシスのスキルは、【真理看破】。
触れた対象の「偽り・契約・呪い」を視認できるというものだ。かつてはこれを用いて王弟として民を護り、国家の要職に携わってきた。悪意を持つ者を排除し、公明正大な統治を進めるために欠かせない力だった。そのために多くの敵を作りもしたが。
しかし公務から退いて久しい今は、このスキルを使う機会もほとんどなくなっていた。
(……確かめなければ)
リリアに触れた瞬間に走った、あの不思議な感覚の正体を。




