第5話 聖女の祝福
「滞在中は心安らかにお過ごしいただけますよう、精一杯おもてなしいたします」
アレクシスに代わり、リリアが二人を迎えた。
まず客室へ案内してひとときの休息を取っていただいてから、アレクシスの書斎へと先導する。アレクシスは二人と挨拶を交わした。
「ようこそお越しくださいました、セレスティナ様。マルクス枢機卿も、遠路はるばるありがとうございます」
今日は体調が良かったのか、アレクシスは寝室ではなく隣の書斎で客人を迎えることにしたようだった。
書斎は飾り気のないシンプルな部屋だった。壁一面の本棚には法律関係の書籍が整然と並び、執務机には羊皮紙の書類やインク壺が置かれている。かつて彼が多忙な日々を送っていたことを、その部屋全体が静かに物語っていた。
本棚の一角には薬草学や神学に関する専門書も並んでおり、中には【聖女の奇跡】と題された古書まであった。それを目にした瞬間、リリアの胸がきゅっと締めつけられた。
(この方は本当に、真面目で博識でいらっしゃるのね……)
セレスティナも書架に目を向けて何かを確かめるように眺め、それから納得したように微笑んだ。
「アレクシス様は神学にもご関心をお持ちなのですね」
アレクシスが穏やかに頷くのを見て、セレスティナが続けた。
「素晴らしいことです。神様はきっと、アレクシス様の信仰を見守ってくださっているでしょう」
(だったら、なぜ神様はアレク様を助けてくださらないの?)
リリアの胸の奥に、冷たいものが流れた。
信仰が人々を救うというなら、アレクシスの病を救ってくれても良いはずだ。リリアは知っている。この祝福もアレクシスを一時しか楽にしてくれないことを。
継母や義妹も聖女の祝福で肌艶が戻ったが、その効果は長続きしなかった。だから短いサイクルで大金を神殿へ納め続け、伯爵家は借金まみれになった。そして何より――。
(神殿は、お母様の病だって救ってくれなかった)
幼い頃に死に別れた実母のことを思い出し、リリアは唇をきつく噛んだ。治療が効かなくても「神のご意志」と言って誤魔化す。それが神殿のやり方だ。今更恨んでも仕方がないと分かっていても、どうしても反感が消えない。
今回の聖女の治療にも、公爵家は相当な金を払っているはずだ。公爵邸へ向かう途中に見た、あの担架に横たえられた男のことを思い出す。彼はきっと治療を受けられなかっただろう。奉納金の多寡でこれほど差がつく。それが苦々しくてならなかった。
「それでは、早速始めさせていただきますね」
セレスティナの細い指が、椅子に腰かけたアレクシスの手をそっと握りしめた。
次の瞬間、アレクシスの体が淡い金色の光に包まれた。
(これが……聖女の祝福スキル)
室内に澄んだ音が響く。セレスティナの声は子守唄のように穏やかで、祈祷の言葉が部屋に満ちていた緊張感をゆっくりと解きほぐしていくようだった。
眩い光が徐々に薄れ、残像がまだ瞼の裏に焼きついている。
光の中でセレスティナの影が溶け合うように見えた瞬間、リリアは息を呑んだ。空間そのものが祝福に満たされていくような感覚に、肌が粟立つ。神秘的で荘厳で、まるで神話の一節を切り取ったような光景だった。
(なんて幻想的な……)
あまりにも完璧すぎるその奇跡の光に圧倒されながらも、リリアの胸のどこかが、ひっかかりを感じてなかなか離れてくれない。
「素晴らしい! これが聖女の祝福のお力です!」
マルクス枢機卿が感嘆の声を上げた。
祈りが終わると、アレクシスの肌のくすみが目に見えて薄れていた。継母や義妹が受けた美容祝福の時のように。
「公爵様、お体の具合はいかがでしょうか?」
セレスティナが尋ねると、アレクシスは椅子の背に深くもたれ、長くゆっくりと息を吐いた。
「ああ……少し、疲れたな」
顔色は確かに良くなっていた。けれど、まるで長旅を終えたような倦怠感がその全身に漂っている。
マルクス枢機卿が満足そうに頷いた。
「好転反応ですよ」
「そうだな……セレスティナ様、ありがとう。本当に感謝する」
アレクシスの穏やかな声には、セレスティナへの純粋な敬意と労りが込められていた。それが分かるからこそ、リリアは複雑な心地になった。
一時でもアレクシスを楽にしてくれるのならばありがたい。それは本当のことだ。けれど言葉を選ばなければ、これは苦しみを長引かせているだけのようにも見える。根本的な治療にはなっていないのだから。
疲れた様子のアレクシスを書斎に残し、リリアは聖女たちを玄関まで見送った。
(王都までは馬車で五日かかる距離なのに……)
リリアが公爵邸へやってきた時も、それほどかかった。しかし神殿の上層部や聖女は、《聖門》と呼ばれる大神殿の地下にある転送陣を使って瞬く間に移動できる。神の聖遺物だという話だが――。
不意に、セレスティナが激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか!?」
リリアが声をかけると、セレスティナは青い顔のまま頷いた。けれど呼吸は荒く、額には冷や汗が滲んでいる。
「お辛いのならば、邸でお休みになっていかれますか?」
提案した瞬間、セレスティナはマルクス枢機卿をさっと一瞥してから、すぐに首を横に振った。
「いいえ……! 私はもう帰らなくてはなりませんので。ご心配いただきありがとうございます」
マルクス枢機卿も穏やかに微笑んで深く一礼した。
「お気遣い痛み入ります。ですが神殿には、まだ聖女の責務が残っておりますので」
「……そうですか」
リリアが引き下がったのは、セレスティナが何かに怯えているように見えたからだ。その目があちこちへと泳ぎ、細い腕が心配になるほど頼りなく見えた。
(何に怯えているの? まさか、マルクス枢機卿に……?)
「……どうぞお大事になさってください」
リリアはそう言って、セレスティナの手をそっと取った。
――その瞬間、体の中から何かが抜けていくような感覚を覚えた。視界に大きな時計の文字盤が浮かび、頬を風が撫でていった気がした。直後、運動した後のような重いだるさが全身を包む。
(え……?)
当惑するリリアの傍らで、セレスティナもまた何かを感じたように目を見開いていた。
「あっ、あの……もし祝福が必要でしたら、いつでもおっしゃってくださいね!」
捲し立てるようにそう言うと、セレスティナはマルクス枢機卿のそばへと駆け寄る。枢機卿が懐から聖杯のようなものを取り出した瞬間、黒い闇の渦が二人の姿を包み込んだ。
そして、跡形もなく消えた。
転送陣を使い、王都の神殿へ戻ったのだろう。
(さっきの感覚は、一体何だったの……?)
リリアは自分の手を見下ろしながら首を傾げた。
それにしても、セレスティナは何かを隠しているような緊張を纏っていた。あの怯えた表情が、ずっと頭に引っかかっている。
(セレスティナ様の様子……妙に気になるわ)
理由は上手く言葉にできなかったが、マルクス枢機卿は終始セレスティナの背後に立ち、その一挙手一投足を見逃すまいとするような視線を向けていた。まるで――監視しているかのように。
(いいえ、考えすぎよ。聖女という貴重な存在を護るためでしょう)
自分にそう言い聞かせていると、背後からメイドの声がした。
「リリア様。公爵様がお呼びです」
「……ええ、分かったわ」
リリアがアレクシスの寝室を訪ねると、彼はベッドに腰かけて本を広げていた。
「聖女様たちは無事に?」
リリアが部屋に入ると、アレクシスは本を閉じてこちらを向く。その動作はゆっくりとしていたが、目はしっかりとリリアを見据えていた。
セレスティナの様子が頭をよぎったが、今は言うほどのことではないと思い、リリアは笑みを作った。
「はい、問題なく。アレク様、お加減はいかがですか?」
「ああ。セレスティナ様のおかげで少し楽になった。心配をかけてすまないな」
アレクシスは柔らかく微笑みながらメイドに目配せし、紅茶を運ぶよう伝えた。
「君も飲むといい。ミルクティーだが」
「ありがとうございます」
差し出されたカップを口にして、リリアは小さく息をついた。
(美味しい……)
その甘さが、胸の奥をほんのりと温めた。こんな小さな気遣いが、たまらなく嬉しかった。
リリアは意を決して問いかける。
「ところで……セレスティナ様は、どのような方なのでしょうか?」
アレクシスが軽く揶揄うように笑った。
「突然だな」
「すみません、少し気になってしまって」
脈絡のない問いかけだったと気づいて別の話に変えようかとも思ったが、アレクシスはカップを手に取り、一口含んでから静かに話し始めた。
「若くして多くの人の治療を担う、立派な聖女様だ。元は平民の出だと聞いているが……どんな相手にも分け隔てなく接してくださる、誠実な方だと思っている」
「そうですか……」
リリアは曖昧に微笑みながら、胸の奥に浮かんだ疑念を静かに飲み込んだ。
アレクシスの言葉には嘘も誇張もない。けれど、先ほどのセレスティナの態度はやはりどこかちぐはぐだった。疲労や長旅の疲れだけでは説明のつかない、あの怯えた目の奥には、もっと別の何かが潜んでいる気がしてならなかった。
「……リリアは、聖女の祝福をどう思った?」
アレクシスの問いかけに、リリアは少し考え込んだ。
「とても神秘的でした。ただ……」
「ただ?」
「お帰りの際のセレスティナ様が、少し様子がおかしかったような気がして」
伝えるつもりはなかったのに、するりと口をついて出てしまった。アレクシスの顔に微かな驚きが浮かぶ。
「そうか」
「はい。なぜでしょう……私が無知なだけかもしれませんが、何か事情があるのでしょうか?」
アレクシスは黙り込み、カップをそっと置いてリリアの目を真っすぐに見つめた。
「君は鋭いな。確かに、彼女には様々な事情があるのだろうと私も感じている。いつも自分を押し殺しているように見える」
「やはり……」
リリアは思わず身を乗り出した。
「あの方は、どのような事情を?」
「詳しくは分からない。ただ、聖女として選ばれてからというもの、彼女は自由を与えられていないようだ。神殿での役割以外の時間はほとんどないと聞く。内部の事情は外からは窺い知れないが……」
リリアの心がずしりと重くなった。
神殿という閉じられた世界で、一人の少女がどれほどの重荷を背負わされているのか。想像するだけで、息が詰まりそうだった。
(神殿に反感を持っていたことが、申し訳なく思えてくるわ)
それでもセレスティナは、精一杯やってくれているのだ。たとえその効果が続かないとしても。
「……聖女様のお力は、本当に素晴らしいですね」
そう言うと、アレクシスはどこか困ったように苦笑した。
「そうだね。だが――」
言いかけて、言葉を飲み込む。
「どうしました?」
「いや……」
アレクシスはしばらく紅茶を眺めてから、静かに続けた。
「セレスティナ様の祝福の効果は、一時的なものだ。顔色は良くなるが、効力はせいぜい数日。そして祝福の後には必ず、ひどい倦怠感が来る。疲労が蓄積されていくような感じがするんだ」
「……やはり、そうなのですね」
継母や義妹も、祝福を受けた後はシミが薄れ、小皺が消え、血色が戻った。けれど決まって疲れ果てて一日寝込んでしまい、ひどい時はそれが数日続いた。
「リリア?」
「いいえ、なんでもありません。ただ……アレク様のことが心配で」
リリアの言葉に、アレクシスは穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、リリア。君の優しさに、いつも励まされる」
そう言いながらも、その目には疲労の色が濃く滲んでいた。リリアはそっとアレクシスの手を取り、労わるように微笑んだ。
「今日はゆっくりお休みになってください、アレク様」
(どうか彼の苦しみが、少しでも和らぎますように……)
そう強く願った瞬間、リリアの手のひらが熱くなった。
視界に、大きな時計の白い文字盤が浮かび上がる。ふわりと立ちくらみがして、体から何かが流れ出ていくような感覚があった。
(え……?)
目をぱちくりさせるリリアの傍らで、アレクシスも驚いたように目を見開いている。
「いま、何かしたか……?」
「いいえ……でも私も、不思議な感じが……。あの、アレク様、大丈夫ですか?」
顔色を確かめようと近づくと、アレクシスは大きく身震いして顔をそらした。
「大丈夫だ。それより君こそ、疲れているのではないか。そろそろ休みなさい」
「……ええ、そうします」
部屋を辞して廊下を歩きながらも、あの奇妙な感触が頭から離れなかった。
(いまのは一体、何だったの?)
アレクシスの手に触れた時に、何かが流れていった気がした。この感覚は、今日に限ったことではない。何度かあった。まるで、使ったことのないスキルを無意識に使ってしまったかのような不思議な感覚。セレスティナに触れた時も、同じような体の反応があった。
(……気のせいよね。私にスキルなんてないんだもの)
スキルを使おうとして使えたことは、一度もない。スキルを持たない少女――それがリリアだ。
だから気づかなかった。
自分の裏ステータス【時間逆行】によって、聖女とアレクシスに影響を与えてしまったことなど。




