第4話 静かな波紋と、公爵邸に芽吹くもの
王太子一行が公爵邸を発ってから、屋敷の空気は目に見えない形で変わっていた。
それをはじめに感じ取ったのは、使用人たちだった。
朝の回廊を行き交う足音はいつもと変わらない。それでもすれ違うたびに、誰もが慎重そうに視線を交わす。公爵のことや新しい奥様についての噂話が消えたわけではない。ただ、口にする言葉が選ばれるようになっていた。
「……奥様のこと、どう思う?」
洗濯室で誰かがそう尋ねると、問われた相手はすぐには答えなかった。濡れた布を絞りながら、ひとつ間を置く。
「……正直、すぐ逃げ出すと思っていたわ」
「そうよね。伯爵家からいらしたご令嬢だもの。絶対に公爵様を避けるに決まっていると思っていたのに」
その場に、しんとした沈黙が落ちた。
《老化症》に侵された主――アレクシス・ヴァルディア・ローデンヴァルト公爵は、屋敷の誰にとっても扱いかねる存在だった。かつての栄光を知る者ほど、衰えた姿を直視できずに知らぬ間に距離を取るようになっていた。ましてや、あの病は"移る"と噂されている。昨日の王太子でさえ、一歩退いていた。気遣いというより、恐怖に近い反応だった。
ミレイユは手を止め、指先についた水滴を払いながら言った。
「……奥様はすごい方だわ。それだけは間違いない」
脳裏に浮かぶのは、リリアがこの屋敷にやってきた日の光景だ。アレクシスの寝台の傍らに膝をつき、ためらいもなくその手を取ったリリア。痩せた指先をそっと包み込み、静かに声をかけるその姿に、計算も演技も感じられなかった。あれは覚悟だ、とミレイユは思う。病を恐れながらも、それでも寄り添うという揺るぎない選択。
「普通じゃないわ、あの方は。初対面で《老化症》の患者に、あんなふうにできる人なんて。医師でさえそうそういないのに」
誰かが小さく呟いた。
ミレイユは胸の奥でじわりとした違和感を転がした。
(普通じゃない……確かにそうね)
ミレイユのリリアへの気持ちは、もはや畏敬に近かった。昨夜、彼女は確かに見たのだ。公爵の顔色がほんのわずかに良くなっていたことを。頬に血の気が戻ったなどという劇的な変化ではない。それでも、あれほど深く刻まれていた疲労の翳りが、薄れていた。長年この屋敷に仕えてきたミレイユには、気のせいだと切り捨てることができなかった。
「それにしても……今日は随分と量が多いわね」
使用人の一人がぼやいた。冬へと向かうこの季節、厚手の寝具や衣類の洗濯は重労働だ。石造りの水場には冷気が満ち、吐く息が白く立ち上る。
「奥様のお部屋の分が増えたからよ」
洗濯女たちが言葉を交わしながら手早く作業を進めるなか、一人の年配の女が黙々と布を絞っていた。名前はアンナ。長年この屋敷に仕え、洗濯場では最古参といっていい存在だ。ミレイユの親友でもあった。
「……あら?」
不意に、アンナが手を止めた。
水から引き上げた自分の手を、まじまじと見つめる。その指先に、さっきまでなかったはずの深い皺が浮かんでいた。
「アンナ?」
「どうしたの?」
周囲が声をかけた瞬間、誰かが息を呑んだ。
「……皺……?」
濡れた皮膚に刻まれたそれは、先日までは彼女の手になかったものだ。
一瞬の沈黙の後、ざわめきが広がった。
「まさか……」
「《老化症》じゃ……?」
その言葉が出た途端、空気が変わった。不治の病。感染すると噂される、恐怖の病。
「離れて!」
「触っちゃだめ!」
誰かが叫び、人々が洗濯場の端へと退いてゆく。アンナだけが取り残されたように、そこに座り込んでいた。
「ち、違うわ……! 私は……!」
震える声で否定しようとするが、誰も近づかない。
「すぐ隔離しなければ」
「執事に知らせなきゃ!」
誰かが走り出そうとした、その時だった。
「――待って」
澄んだ声が、場を制した。
洗濯場の入口に立っていたのは、リリアだった。淡い色のコートを羽織り、状況をひと目で把握した彼女は、迷いなく中へと歩み出た。
「奥様、危険です!」
洗濯女の制止を背に、リリアはアンナの前に立った。皺の刻まれた手をひと目見てから、周囲をゆっくりと見回す。
「皆、大丈夫よ。騒がないで」
声は大きくない。それでも不思議と、よく通った。
「まずは彼女を休ませましょう。ここは寒いわ。……アンナ、立てるかしら?」
アンナは目を見開いた。
「お、奥様……私の名前をご存じで?」
「当たり前よ。屋敷で働いてくれている方なんだもの。全員の顔と名前は覚えているわ」
来てまだ間もないというのに、公爵夫人に名を覚えられていたとは思いもしなかった使用人たちが、息を呑んで目を見開く。
「アンナ、大丈夫よ。私の責任で面倒を見るから」
リリアの言葉に、周囲が一瞬、凍りついた。《老化症》かもしれない使用人を、公爵夫人みずから看病するというのか。
「奥様……感染するかもしれません……!」
悲痛な声が上がった。だが。
「そんなの、まだわからないわ」
リリアは首を振り、きっぱりと言った。
「先入観だけで人を遠ざけるのはやめましょう」
そしてアンナの肩に、そっとコートをかける。
「部屋で横になりましょう。温かいお茶を用意するわ」
その手つきに、迷いはなかった。
アンナの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。喉につっかえながら、かすれた声で言う。
「……あ、ありがとう、ございます……っ」
その場にいた使用人たちは、放心したままリリアの後ろ姿を見送ることしかできなかった。
(この方は……)
ミレイユは胸が締めつけられるのを感じていた。命の危険があるかもしれないのに、たかが使用人一人のために。怖くないはずがないのに。その姿は、そこにいた誰の目にも、はっきりと焼きついた。
*
アンナは客用の一室に寝かされ、リリアの手配で医師が呼ばれた。
診断の結果は――《老化症》とは断定できない、軽度の症状。皺は残ったものの、それ以上の進行は見られず、長時間の冷水仕事による手荒れではないかという見立てだった。
それを聞いたアンナは、心底安堵した様子だった。リリアはアンナに休暇を与え、夜には夜食と温かい毛布を届けた。
「――奥様、本当にありがとうございます」
アンナが涙ながらにそう言うと、傍らで見ていた使用人たちが小声で囁き合った。「奥様のおかげだわ」と。
使用人たちのリリアを見る目が変わったのは、この頃からだった。
(この方は……公爵様にも、私たちにも、同じように接してくださる)
誰も声高には言わない。それでも屋敷の隅々に、静かな確信が広まっていった。――この屋敷の主は、公爵だけではない。公爵夫人リリアもまた、我々の主なのだと。
◆
一方、リリア自身は使用人たちの変化に気づいていなかった。
彼女は朝から執務室と居室を行き来し、書類に目を通し、使用人たちの報告に耳を傾けた。公爵夫人の仕事は多岐にわたる。使用人の統括、帳簿の確認、客人の対応――そして今は、本来ならばアレクシスが担うべき領地関連の業務まで、執事の助けを借りながら少しずつ引き受けていた。
(アレク様はご体調が悪いのだから、私がお手伝いしなければ)
町からの嘆願書の確認、孤児院や施療院への寄付の判断、領民向けの祭事の後援。慣れない仕事ばかりだったが、できることが少しずつ増えるにつれ、使用人たちの目が変わってきたような気がした。
「奥様、こちらを……」
差し出された帳簿に目を落としながら、リリアは丁寧に頷く。
「ありがとう。後ほど確認するわ」
その口調は柔らかかった。指示を出す時も、お願いをする時も、リリアは必ず理由を添えた。それが使用人たちにとってどれほどありがたいことか、リリア自身は気づいていない。
ついつい最近まで、誰もがリリアをよそ者だと思っていた。いずれこの屋敷を去るだろうと。しかし今は違う。屋敷内の、領地内の報告が自然とリリアのもとに集まり、確認を求める声が増えた。屋敷が、静かに、確かに、動き始めていた。
「奥様、本日も公爵様とご昼食をご一緒なさいますか?」
ミレイユが声をかける。
「ええ、ぜひ」
いつの頃からか、アレクシスとは朝食だけでなく昼食も共に摂るようになっていた。食べられる量は多くないが、食堂で並んで時を過ごせるまでに回復している。
食堂に向かうと、アレクシスはすでに席についていた。言葉は少ない。それでも流れる時間は穏やかで、どこか温かかった。
「今日は何かご予定がございますか?」
「ああ、昼過ぎに神殿から聖女が来る予定だ」
「聖女様が?」
尋ねるリリアに、アレクシスはかすかに肩をすくめた。
「私の治療のためにな。祝福を受けると、体調が少し楽になる」
「そうですか……私も同席してよろしいでしょうか。祝福を見るのは初めてなので」
王都にいた頃、継母と義妹のエリナは大金と引き換えに幾度も祝福を受けていた。しかしリリアにその機会は与えられなかった。ふたりが神殿へ出かける間、屋敷に残って掃除をするのがリリアの役割だったから。
(王都にいた頃は継母たちが神殿へ足を運んでいたけれど……聖女様がわざわざ遠い公爵領まで来てくださるなんて)
それだけアレクシスが、この国にとって重要な人物なのだろう。《老化症》を患う以前は、病弱な国王の代理として数多くの公務を担ってきたのだから。
リリアの言葉に、アレクシスは静かに頷いた。
「それなら、見学するといい」
◆
昼過ぎ、神殿からの使者が公爵邸に到着した。
リリアは執事長とミレイユを連れ、玄関ホールで一行を迎えた。白と金を基調とした衣をまとう聖女と神官たちは、洗練された微笑みを湛え、音もなく廊下に入ってきた。
(この方が……聖女様)
セレスティナ・ルクレティア。腰まで届くまっすぐな銀髪に、神秘的な紫水晶の瞳。白と金のローブの胸元には神殿の紋章が輝き、一目でわかる格式ある佇まいをしている。リリアと同じ十八歳の少女が、アレクシスの前で優美に礼をした。
「聖女セレスティナ・ルクレティアです。お久しぶりでございます、アレクシス様。今日も貴方に神の祝福があらんことを」
笑顔を絶やさぬ美しい少女だった。だが、病的なほど白い肌と、目の下に刻まれた濃い翳りが、リリアの目を引いた。
その隣に、四十代と見える黒髪短髪の男が控えていた。銀縁の眼鏡の奥に落ち着いた目を持つその人物が、丁寧に会釈する。
「神殿より、公爵様のご病状を案じ参りました。枢機卿のマルクス・アウグスティヌスと申します」
静かな声だった。しかしリリアの背筋に、かすかな緊張が走った。
《老化症》に唯一対抗できるとされる存在、聖女。救いが来た――そう思うべき場面のはずだった。それなのに。
(なぜ、こんな気持ちに……)
上手く言葉にできない違和感が、胸の奥でわだかまる。セレスティナの笑顔は美しく、所作は完璧だった。それでも、どこかが噛み合っていない。まるで精巧に作られた人形のような、奇妙な空虚さがある。
リリアはその感覚に蓋をして、穏やかな微笑みを浮かべた。
「ようこそお越しくださいました。公爵様のため、最善を尽くしてくださるのですね」
声音は落ち着いていた。
けれどリリアの胸の奥では、小さな警鐘が、静かに鳴り始めていた。




