第3話 王太子の訪問
その知らせが届いたのは、朝食を終えてまもなくのことだった。
「奥様。王太子殿下が本日、旦那様のお見舞いにいらっしゃるとのことです」
告げるミレイユの声には、わずかな緊張が混じっていた。無理もない。王太子とは、次代の王だ。公爵家への訪問が軽いものであるはずがなかった。
「……今日、いきなりですか?」
「急なご予定のようですが、視察の道中に公爵領へ立ち寄ってくださるとのことで。殿下ご自身の強いご希望だそうです」
「そう……それなら、しっかりおもてなしをしなくてはね」
公爵夫人として王太子に接する、初めての仕事だ。賓客をもてなした経験こそないが、継母や義妹を傍らで見てきた分、貴族女性としての振る舞いは心得ていた。
まずはアレクシスの様子を確認してから相談しよう――そう思い、朝食を携えて部屋を訪ねると、アレクシスは昨日とは打って変わって暗い顔をしていた。
「今日はお加減がよろしくないのですか?」
「いや、体は悪くない。ただ……レオンハルトに会うと思うと」
「そうですか……」
リリアは国王の《老化症》がアレクシスから感染したという噂を思い出した。リリア自身はまったく信じていないが、アレクシス本人はそうではないのかもしれない。そして王太子もまた、その噂を信じているのかもしれなかった。
少し黙ってから、リリアは口を開いた。
「それでしたら、アレク様は今日はお部屋でゆっくり休んでいてください。王太子殿下のお見舞いは扉越しで。私が対応いたします」
アレクシスははっとしたように顔を上げ、次の瞬間にうつむいて、皺の深い己の顔を節張った指先でそっと撫でた。
「その提案はありがたいが……せっかく甥が足を運んでくれるのに、一切顔を見せないのも……」
言いながらも、その声にはリリアの申し出に惹かれているような揺らぎがあった。
(老いた姿を甥に見られることも、きっと辛いのだわ)
そう察して、リリアは厚いカーテンをそっと引いた。太陽の光を遮ると、室内はほどよく薄暗くなる。これならば、アレクシスの姿がはっきりと見えることはないだろう。
「王太子殿下にはすぐにお引き取りいただくようにしますから」
微笑んで言うと、アレクシスはほっとしたように小さく息を吐いた。
「……迷惑をかけるな」
「いいえ。私はあなたの妻ですもの。当然のことです」
正午を前に、王太子一行が到着した。
庭に整列した公爵家の騎士たちの中央を、一人の青年が進んでくる。まだ若いが、一目で"王族"とわかる気品を纏っていた。短い金髪に青い瞳、凛とした面立ち。護衛の数は少なく、大半は領外に待機させているのだろう。
彼が近づくと、玄関周りの執事とメイドたちが一斉に深々と頭を下げた。
「やあ、初めまして。あなたが叔父上の妻となった方ですね」
レオンハルトはリリアとやや距離を置きながらも、親しみを込めた声で言った。
リリアは丁寧にカーテシーをする。
「初めまして、レオンハルト王太子殿下。リリア・エルフェンハイン・ローデンヴァルトでございます。このたびはわざわざご来訪いただき、誠にありがとうございます」
品のある微笑みとともにそう挨拶すると、レオンハルトはわずかに目を見開いた。
「初めまして、リリア公爵夫人。この国の王太子、レオンハルト・アルヴェリオ・ヴァルディエールです。以後お見知りおきを」
レオンハルトは貴族女性に会えば手の甲に口付けをすると聞いていたが、彼はそれ以上リリアに近づいてこなかった。
(私が既に《老化症》に感染しているかもしれないと思っているのでしょうね)
リリアはその感情を表情に出さなかった。近づかれないことを不快に思う女性もいるかもしれないが、リリアはむしろ気が楽だった。
「遠路お疲れさまでした。せっかく足を運んでいただいたところ恐れ入りますが、公爵様は長時間のご歓談が難しい状態ですので、本日は扉越しでの短めのご挨拶でよろしいでしょうか」
控えめにそう申し出ると、レオンハルトはどこか安堵した様子で頷いた。彼としても長居を望んでいるわけではないのだろう。
「ああ、そうしてくれ」
「それではご案内いたします」
万が一に備えて執事と料理長に食事や休憩の間の準備を頼んであったが、レオンハルトが早く引き上げる意思を示してくれたおかげで、それらを使わずに済みそうだった。
(アレク様のためにも、面会はできるだけ短いほうが良いわ)
公爵の部屋の前に立ち、リリアは振り返った。レオンハルトはわずかに緊張した面持ちで頷いている。王族としての威厳を保ちながらも、その目には隠しきれない警戒の色があった。
(無理もないことではあるけれど……)
誰だって《老化症》は怖い。リリアは内心でそっとため息をつき、扉に向かって声をかけた。
「アレク様。レオンハルト王太子殿下がいらっしゃいました」
中から「ああ」と掠れた低い声が返ってきた。カーテンを引いた薄暗い室内に、椅子に腰かけるアレクシスの輪郭が扉の隙間からかすかに見える。
リリアは静かに扉を開け、レオンハルトに一歩踏み出すよう目で促した。王太子は距離を保ちながらも、丁寧な所作で頭を下げた。
「叔父上、お久しぶりです。ご体調はいかがですか」
身分としては次期国王である王太子の方が王弟アレクシスより上だが、叔父と甥ということもあり、レオンハルトは敬意を払っているようだった。
アレクシスはゆっくりと顔を向け、目を細めた。その動きにはつい先日まであった鈍重さがなく、口元にかすかな笑みが浮かんでいる。
「おお……レオンハルトか。忙しいところに申し訳ないな。元気そうで何よりだ」
レオンハルトの眉がわずかに上がった。アレクシスの声には、まだ覇気が残っている。予想していたよりずっと衰弱していないことに驚いているのだろう。
「いえ、叔父上のご回復をお祈りしております。何かお力になれることはありますか」
形式的な言葉を並べながらも、レオンハルトの視線はアレクシスよりもリリアの方へ向いていた。
「十分だ。静かに過ごせるだけで良い」
「ですが……」
なおも言いかけるレオンハルトに、アレクシスは静かに首を振り、慈愛を宿した眼差しでリリアを見た。
「……もう彼女とご挨拶はしただろう。その娘が私の妻だ。リリアがそばで看病してくれるおかげで、だいぶ楽になった。何も困ってはいない」
穏やかなアレクシスの言葉に、レオンハルトは驚いたようにリリアを見つめた。
「彼女が……叔父上の看病を?」
「ああ。私にはもったいない女性だ」
思いがけない夫からの言葉に、リリアは頬に熱が上るのを感じた。照れを隠すように横を向くと、レオンハルトがばつの悪そうな表情で唇を噛み、視線をそらした。
「そうですか……良いご縁に恵まれたのですね」
「そうだな」
アレクシスは短く答えて、また静かに俯いた。
「殿下、そろそろ……」
リリアはそっとレオンハルトに目配せして退出を促した。王太子は心得たように軽く頷き、踵を返した。
「では叔父上、失礼いたします。またいずれ」
リリアは静かに扉を閉めて、玄関へと王太子を先導した。
「意外でした」
廊下を歩きながら、レオンハルトが沈んだ表情で小声で言った。
「何がでしょうか?」
「寝たきりだと聞いていたのに、想像していたよりずっと……しっかりされていた」
リリアは柔らかく微笑んだ。
「確かに、ここ数日は調子が良いようです」
「公爵夫人のお力添えのおかげでしょう」
「滅相もございません。私はただそばにいるだけですから」
「ご謙遜を」
レオンハルトが遮るように言う。その声には、かすかな自己嫌悪が混じっていた。
「《老化症》を恐れず、こうして献身的に付き添ってくださる方などそうはいません。私も……」
そこで言葉を切り、彼は視線を落とした。
「本来は私こそ、もっと早くお見舞いに参るべきだったのです。ですが母上がひどく反対していて……今日も、私の我が儘で押し切って伺ったようなものです」
「……そうでしたか」
王妃が誰よりもアレクシスを遠ざけたがっているのかもしれない。リリアはレオンハルトの内に渦巻く葛藤を感じ取った。恐れと義務感の狭間で、ずっと揺れていたのだろう。
「殿下は《老化症》への抵抗を感じながらも、それでも公爵様にお会いしたいと思ってくださった。そのお心遣いだけで、十分すぎるほどです。感謝いたします」
リリアが穏やかにそう言うと、レオンハルトははじかれたように顔を上げた。
「……ああ」
その表情が、すっと和らいだ。それからふと思い出したように従者に指示すると、従者が花束と箱をリリアへ差し出した。
「これはお見舞いの花束とお菓子です」
「まあ、ありがとうございます。お花は応接間に飾らせていただきますね。お菓子は後ほど少しずつ公爵様に差し上げます」
レオンハルトは頷き、玄関を出た。馬車に乗る直前、最後に振り返って言葉を残した。
「公爵夫人……叔父上のことを、頼みます」
「承知しております」
その声には、王太子としての責務を超えた、一人の人間としての切実な願いが宿っていた。リリアは胸に手を当て、心の中でそっと誓う。
(この方の期待に、応えなければ)
薄暗い部屋の中で待つアレクシスを思い浮かべながら、リリアは静かに決意を新たにした。
◆
公爵邸が遠ざかるのを車窓から見つめながら、レオンハルトはため息をついた。
王宮で叔父と最後に会ったのは三か月前のことだ。その時でさえ五十代ほどに見えたアレクシスが、今はいつ倒れても不思議ではないほどの老人になっていた。敬愛する人の変わり果てた姿に胸が痛みながらも、聞いていたほどには弱っていない様子に、かすかな安堵も覚えていた。
(本当は……父上の《老化症》は叔父上のせいではないと、伝えなければならなかったのに)
長い間面会が叶わなかったこともある。けれど何より、人を寄せ付けないあの部屋の空気に呑まれて、肝心なことが言えなかった。そばに寄って手を握ることができれば、伝えられたかもしれない。だがレオンハルトの従者たちがそれを許さなかっただろうし、次期国王という立場上、感染の危険を犯すことはできなかった。何より、自分自身が《老化症》を恐れていた。
(……けれど、彼女は恐れていないのか)
妻だとしても、夫の《老化症》を少しも恐れないなど、普通はあり得ない。それなのにあの女性は迷いなく、当たり前のようにアレクシスのそばに立っていた。
自分にはできない領域を易々と超えていくその姿が、レオンハルトの目に眩しく映った。
「社交界にも姿を見せない地味な令嬢と聞いていたが……」
彼は馬車の座席に深くもたれながら、こちらの事情を汲んだリリアの数々の言動を思い返す。控えめで、思慮深くて、少しも隙がない。
「叔父上の妻として、非の打ち所がない。むしろ……」
続く言葉を、レオンハルトは胸の内に飲み込んだ。
「若いのに分を弁えた公爵夫人だ。……叔父上が羨ましい」
遠く霞む公爵邸を視線の端に捉えながら、彼はそっと目を細めた。
尊敬していた叔父が、もう長くないという現実。そしてその叔父を、野に咲く花のような一途さで支え続ける小さな夫人の姿。
寝たきりのはずのアレクシスがわずかでも回復の兆しを見せているとすれば、それはリリアのおかげに違いない。
――だが、本当にそれだけなのだろうか。
脳裏にかすかな疑念がよぎった。
《老化症》は、普通の病ではない。介護をしたところで快方に向かうはずがないのだ。聖女の祝福ですら老化の進行を遅らせるのが精一杯なのに、あの女性にそれ以上のことができるというのか。
レオンハルトの胸の奥に、やがて王室と神殿を揺るがすことになる違和感が、静かに根を張り始めていた。




