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スキルがないからと捨てられた令嬢の【裏ステータス】時間逆行で、呪いで老いた美公爵を救って溺愛されるまで  作者: 高八木レイナ


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第2話 穏やかな日常と、奇妙な違和感

 城の窓から差し込む朝の光が、深紅のカーテンを柔らかく染めていた。

 リリアは北国仕様の天蓋ベッドからゆっくりと身を起こし、大きく背伸びをする。これほど清々しい目覚めは、生家では一度も訪れたことがなかった。

 与えられた部屋は城の中枢に近い静かな一室で、大きな暖炉のおかげで室内はほのかに温かい。厚く敷かれた絨毯が、素足に柔らかく心地よかった。


(まだ、結婚したという実感が湧かないわ……)


 アレクシスとは寝室も別だし、彼の体調を慮って結婚式を行う予定もない。書面だけが婚姻を証明する唯一のものだから、実感が薄いのも無理はなかった。

 リリアはベッドを下りて、用意されていたドレスに袖を通した。侍女の手を借りずとも一人で着替えができるのは、生家で使用人同然に扱われてきた日々の名残だった。


(期間限定の妻に、こんな素敵なドレスを用意してくださるなんて……)


 伯爵家から持参したドレスは、どれも継母と義妹のお古だった。流行遅れで形も合わず、くすんだ色合いのものばかり。継母たちに宝石の飾りを毟り取られてほつれたところをリリアが繕い、それでもみすぼらしさを隠しきれないような代物だった。

 けれど部屋に用意されていたドレスやアクセサリーは、どれも新品で上質なものばかりだった。体型にぴったりと合う仕立て、上品で凛とした色合い。公爵家の紋章を刺繍したショールや手袋まで揃えられている。

 伯爵家にいた頃よりも、はるかに丁寧に扱われている。その事実がたまらなく嬉しくて、リリアは胸の内でそっと息をついた。

 着替えを終えた頃合いに扉がノックされ、三十代後半ほどの侍女が姿を現した。昨夜、執事から紹介された古参侍女のミレイユ・ロシュフォールだ。栗色の髪を後ろでまとめ、きりりとした顔立ちをしている。公爵邸に二十年近く仕えているという。


「あら、もうお起きでいらっしゃったのですね。おはようございます。まあ、お着替えまでご自身で……」


 ミレイユが青くなるのを見て、リリアは慌てて言葉を添えた。


「ごめんなさい。自分でできることはしたくて」


「まあ、そんな……! お気遣いありがとうございます」


 ミレイユは深々と頭を下げたが、一定の距離を保ったままだった。丁寧だが、どこかよそよそしい。リリアはひそかに小さなため息をついた。


(仕方ないわね……)


 昨日来たばかりの新参者のうえ、アレクシスに接触したリリアは《老化症》の感染者と疑われているに違いない。


「公爵様は今頃、何をしていらっしゃるかしら?」


 リリアは沈んだ表情を見せないよう窓の外へ目を向けながら尋ねた。


「いつものように、お部屋でお休みになっていると思います」


「朝食は召し上がった?」


 振り返ると、ミレイユは困り顔で首を横に振った。


「公爵様は最近、ほとんど何もお召し上がりになりません。ご用意しても、パンの欠片ひとつすら喉を通らないようで……いつ倒れられるかと、気が気ではなくて」


「えっ……」


 リリアは顔色を変えた。昨日会ったアレクシスが痩せ細っていたのは見てわかっていたが、これほど栄養が足りていないとは思っていなかった。


「それなら、私がお粥を持って行くわ。公爵様のご様子も確認したいし。厨房はどこか教えてもらえる?」


 そう言って扉へ向かいかけた時、背後から焦ったような声が追いかけてきた。


「奥様……!」


 振り返ると、ミレイユが思い詰めたような顔をして立っていた。拳をぎゅっと握りしめ、言いにくそうに口を開く。


「……ご無理をなさらなくても良いのですよ? 公爵様に直接お会いにならずとも、私が執事長にうまく取り次ぎますから」


 リリアはやんわりと首を振った。


「いいえ、公爵様のことが心配だから直接会いたいの。それに今日も伺うと約束をしたもの」


 ミレイユの視線が揺れた。


「……奥様は《老化症》が怖くないのですか? それとも、死んでも構わないと思っていらっしゃるの?」


 リリアは一瞬、言葉に詰まった。


「……もちろん、死ぬのは怖いわ。でも公爵様を一人にしたくない。それに、《老化症》は感染しない病だと知っているから」


 きょとんと目を丸くするミレイユに、リリアはかつて実母を一人で看病した日々のことを話して聞かせた。


「私は……近くに寄ることすらできなかったのに」


 ミレイユはかすれた声でそう呟き、目に涙を溜めた。長年仕えてきた侍女として、アレクシスへの忠誠心は人一倍あるのだろう。その声には、隠しきれない後ろめたさが滲んでいた。


「奥様は、すごいお方なのですね」


「そんなことないわ」


 リリアは大きく首を振った。

 幼い頃から無能と言われ続けてきたせいで、『どうせ私なんて、公爵様のお役に立てない』という影が胸の片隅からするりと忍び込んでくる。アレクシスの心の傷を少しでも癒せたらとは思うけれど、そこまで立派なことが自分にできるとは思えなかった。

 胸の奥がつまるような感覚に、リリアはそっと胸元に手を添えた。


(役に立てなくても――せめて、そばにいることはできるはず)


 そう信じたかった。

 厨房に顔を出すと、料理長が奥から慌てた様子で駆けてきた。


「お、奥様? 何かございましたか? お食事はこれから食堂にお運びする予定でして……」


 口ひげを生やした逞しい中年男性が、奥歯に物の挟まったようにもごもごと言う。他の使用人たちと同じく、必要以上に距離を置いて、目も合わせようとしない。


(ここでも同じか……)


 内心の落胆を顔に出さないよう、リリアは柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。それとは別に、公爵様へのお粥を作っていただきたいの。栄養のあるもの……そうね、卵が入っているとなお良いわ」


「卵粥ですか。構いやせんが、旦那様はおそらく召し上がらないと思いますよ」


 料理長はぽりぽりと頬をかきながら言った。


「それでも構わないわ。一口でも食べてもらいたいから。それから、公爵様のお好きな食べ物を教えてちょうだい」


「お好きな食べ物、ですか? ですが奥様は長くここに……」


 言いかけて、料理長は口をつぐんだ。


(私のことを、長くはいない人だと思っているのね……)


 おそらく使用人たちは皆そう思っているのだろう。恐怖に耐えかねて逃げ出すか、《老化症》に感染して短い命を散らすか。どちらにしても、長居などできないと。

 己の失言に気づいた料理長が、慌てて取り繕うように笑みを作った。リリアの背後に控えるミレイユが冷たい視線を向けていることも、多少は関係しているかもしれない。


「えっと、そうですね……若い頃の旦那様は焼き林檎をよく召し上がっていましたよ」


「焼き林檎?」


「ええ。蜂蜜と少量の香辛料を絡めたやつです。ただ《老化症》で歯や喉が弱くなられてからは、硬い果物や甘いものを避けておいでのようで」


「それなら、よく焼いて柔らかくした焼き林檎も一緒に用意してもらえる?」


「わ、分かりやした!」


 料理長が腕を振るっている間に食堂で朝食を済ませて、出来上がった卵粥と焼き林檎を盆に受け取った。ミレイユと別れ、リリアは一人で公爵の寝室へと向かった。

 廊下の角を曲がろうとした時、通路の先からひそひそとした話し声が聞こえてきた。


「あの子、公爵邸を辞めたんですって」


「ええ。公爵様が子爵家への推薦状を書いてくださったそうよ」


「良いわねえ。私も他のお屋敷に移りたいわ。《老化症》は怖いもの」


「でもここ以上の給金を出してくれるところなんてないでしょう」


「そりゃそうだけど。公爵様に近づかなければ良いだけだし」


 リリアは眉根をきつく寄せて、わざと足音を立てながら廊下の角を曲がった。


「お、奥様!?」


 まさか聞かれているとは思っていなかったのだろう。二人のメイドが飛び上がらんばかりに驚いた。

 リリアは二人を鋭く見つめ、しばらく黙った後、静かに口を開いた。


「公爵様のお部屋はこちらで良いかしら?」


 昨日歩いた道だからとっくにわかっている。けれど叱るより、それだけを言うほうが良いと思った。


「あっ、こちらです。この廊下をまっすぐ行った突き当たりで」


「ありがとう」


 リリアがメイドたちの前を通り過ぎると、背後で逃げるように去っていく足音がして、それからひそひそ声が続いた。


「奥様、何かお持ちなのね。公爵様に差し上げるのかしら」


「まあ! ご自分でお世話を?」


「手袋もされていないわ。まさか素手で……?」


(そんなに奇異に見えるのね……)


 気まずさを感じながら、リリアは廊下を歩き続けた。


(でも……公爵様は本当にお優しいかただわ)


 推薦状を書いてくれたという話が頭をよぎる。普通の貴族は使用人のためにそんなことをしない。ましてや、自分を恐れて出て行こうとする者のためになど、まずあり得ない。


(こんなにも大切にされているのに、公爵様の陰口を叩くなんて)


 思い返すほどに腹立たしくて、リリアは悔しさで唇をきつく噛んだ。彼が置かれているこの理不尽な孤独に、胸が痛くなる。

 公爵の部屋に近づくにつれて、廊下はしんと静まり返った。使用人たちが意識的に避けているせいで、この一帯だけがまるで別の世界のように寂しい。

 リリアは控えめに扉を叩いた。


「公爵様。失礼してもよろしいですか?」


「ああ、入ってくれ」


 応えがあり、そっと扉を開けると――アレクシスは椅子に座って書類に目を落としていた。昨日より、少し顔色が良い。


「リリアか。おはよう」


 顔を上げた瞬間、アレクシスの目が見開かれ、それからほっとしたように表情が和らいだ。昨日まで張り付いていた陰鬱な色が、薄れているように見えた。


「公爵様、おはようございます。お体は大丈夫ですか? 起き上がっていらして……」


 リリアが近づくと、アレクシスは少しぎこちない動作で立ち上がった。

 窓から差し込む光のせいかもしれないが、深く刻まれていた皺が昨日より浅く見える。声にも張りがあるような気がした。


「ああ……今日は気分が良くてな。それより、何を持っているんだ?」


「朝食をお持ちしました。お粥と焼き林檎です。ミレイユからお食欲がないとうかがいまして……どうか、一口だけでも召し上がっていただけませんか?」


 アレクシスは困惑した表情を見せた。


「焼き林檎か。それはありがたいが、今の私には食欲がなくて……」


「ですが、お食事をされないと体力が落ちるばかりです」


 リリアは真剣な目で訴えた。


「ひと匙でも良いですから」


 アレクシスはしばらくリリアの言葉を受け止めるように黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……きみがそこまで言うなら、食べてみよう」


 リリアはほっとして、アレクシスを椅子に促し、隣に腰を下ろした。匙でお粥をすくい、少し冷ましてからそっと口元へ差し出す。アレクシスはわずかに躊躇いの色を見せたが、やがてリリアの手から粥を受け取った。

 一口食べると、その顔色がほんのりと明るくなったように見えた。


「……悪くないな」


 リリアは思わず笑みをこぼした。


「良かったです。焼き林檎も召し上がってください。よく焼いて柔らかくしてもらいましたし、一口サイズに切ってあります」


 リリアがスプーンに少量の焼き林檎をのせて差し出すと、アレクシスは驚いたように目を見開き、やがて観念したような柔らかい笑みを浮かべて口を開いた。


「……ありがとう。美味しいよ」


 それからひと呼吸おいて、しみじみと言った。


「きみは本当に、優しいな」


 リリアは頬に熱が上るのを感じながら、次の一口を勧めた。


「もう少し召し上がってください、公爵様」


「……その『公爵様』というのは止めてくれないか、リリア」


「では、何とお呼びすれば?」


「呼び捨てでも愛称でも、きみが嫌でなければ構わないが」


 リリアは困り顔で眉を下げた。


「それはさすがに恐れ多くて……」


「なら、様付けで良いことにしよう」


「それでは……公爵様の愛称は何でしょうか?」


 リリアがそう尋ねると、アレクシスは少しだけ目を見開いた後、ばつが悪そうに視線をそらした。まさか愛称に様付けで呼ばれると思っていなかったらしい。


「……アレクだ。幼い頃に母が呼んでくれていたが、今はもう誰も使わない名前だ」


「では、アレク様とお呼びしますね」


 照れを隠しながらそう言うと、アレクシスは唇に小さな笑みを浮かべ、少年のようにはにかんだ。

 

 

 リリアが部屋を去った後、アレクシスは深くソファーに身を沈めて、自分の手をじっと見つめた。

 昨日より、明らかに調子が良い。節々の痛みが消え、呼吸も楽だ。


「……戻っている?」


 そう呟いてから、すぐに首を振って目を閉じた。


(愚かな期待をするな)


 神殿の聖女の祝福ですら、命を一年引き延ばすのが精一杯だ。《老化症》が発症して半年。あと数か月もすれば、寝たきりになる日が来るだろう。

 もうとっくに覚悟したはずなのに、以前よりも死に対する抵抗感が増しているのは――リリアのせいかもしれない。


「死ぬ前に、見苦しい真似だけはしないようにしなければ」


 リリアは「立派な御方です」と慰めてくれたが、アレクシスには到底そう思えなかった。自分は二十八歳の男のように振る舞ってはいけない。この老いた手ではリリアに触れることすら恐れ多い。まだ若い彼女の未来を縛るようなことだけは、してはならないのだ。

 扉がノックされて、執事の声が届いた。


「アレクシス様。明日、レインハルト王太子殿下がお見舞いに参りたいと仰せです」


「レインハルトが?」


 可愛がっている甥の名に、アレクシスは静かに息をついた。国王である兄の息子だ。おそらく視察の道中なのだろうが、そんな気を遣わなくて良いのにと、胸がふさぐ。

 甥の顔が見られるのは嬉しい。それは本当だ。けれど同時に、急速に老いた己の姿を見せることへの躊躇いもある。

 そして何より――《老化症》を患う国王に感染させたのは自分だという噂が、王宮に広まっているのだ。


(レインハルトに、会わせる顔がない)


 彼がどんな顔をするか、わからない。もし嘲られたら……そう思うと、身がすくむ。

 だからといって冷たく断ることもできず、アレクシスはただうつむいたまま何も言えずにいた。

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