第1話 厄介払いの結婚のはずだった
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老化症は、感染する――そんな噂が、王都ではまことしやかに囁かれていた。
馬車の小窓から見える街道沿いの村に、白い布で顔を覆った人々が集まっていた。彼らは何かを遠巻きに眺めるように、ただそこへ立ち尽くしている。
その視線の先には、担架に横たえられた人影があった。
老人だ、とリリアは思った。けれどよく目を凝らすと、その顔立ちは年老いたというより――まるで時間そのものを強引に奪われたかのように、歪んでいた。
「また《老化症》だって」
御者台から漏れてきた従者たちの声が、馬車の揺れに交じってリリアの耳まで届いた。
「昨日までは元気だったらしいよ。さっき村で聞いてきたんだ。今朝になって急に……こんな老人になっちまったって」
リリアはとっさに胸元を押さえた。
(――昨日まで、元気だった?)
老化とは本来、長い年月をかけてゆるやかに進むものだ。病であったとしても、たった一夜で人をこれほど変えてしまうなどということが――あり得るのだろうか。
従者たちの囁きは続く。
「神殿に連れて行くのかね?」
「いいや。金を出さなきゃ神殿は動かないさ。俺たちみたいな庶民にゃ、死ぬか破産するかのどっちかだ。この村にそんな金のある奴なんていやしない」
「じゃあ……あのじいさんは、死ぬまで隔離されるしかないってことか。食い物ももらえず、飢えて死ぬのが先かもしれないな」
リリアは視線を伏せ、唇を噛んだ。
この国には、不治の病として知られる《老化症》がある。発症すると外見が急速に老いて身体機能が衰え、やがて死に至る。聖女の治癒の祝福を受ければ一年ほど命を引き延ばせるが、それも根本的な治癒ではない。死から逃れることは、誰にもできないとされていた。
「それ以上近づくな! 触るんじゃないぞ! 《老化症》は移るんだから!」
誰かが叫んだ瞬間、村人たちは一斉に担架から離れた。
その光景を見つめながら、リリアは胸の奥に言い知れぬ違和感を覚えていた。
怖い、というよりも――おかしい。
何かが、根本から間違っている。
けれど、その違和感を口にすることはできなかった。
なぜなら彼女は、"役に立たない娘"なのだから。
◆
「リリア。あなたの結婚が決まったわ」
ハイデルシュタイン伯爵家の応接間で、継母は淡々とそう告げた。まるで天気の話でもするように、ただ事務的に。
「お相手は、恐れ多くも王弟である公爵家当主、アレクシス・ヴァルディア・ローデンヴァルト様よ」
リリアは息を呑んだ。その名を知らない者は、この国にはいないだろう。《老化症》に侵され、宰相の職を辞した――"呪われた美公爵"。
「……私が、ですか?」
「他に誰がいるというの」
継母は冷たく微笑んだ。
「あなたはスキルを持たない。社交にも向かない。これ以上、家に置いておく理由がないのよ。せめて嫁いで、家の役に立ちなさい」
父もまた、書類から目を上げることなく静かに頷く。
「アレクシスは未婚だからな。亡くなる前に公爵家の体裁を整えるための妻が欲しいだけだ。お前には十分な役目だろう」
その横で義妹のエリナが、口元を扇で隠しながら笑った。
「よかったじゃない、お姉様。名門公爵家に嫁げるなんて。……もっとも、すぐに未亡人になりそうだけど」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。それでもリリアは何も言い返さなかった。
スキル鑑定の儀で、彼女の結果は「なし」だった。この世界では、それはすなわち価値がないという烙印と同じだった。
「お姉様って、本当に可哀想……。いくら王弟という身分のある方でも、夫が余命宣告された老人だなんて。まるで看取るために嫁ぐようなものだわ」
口調は心配するふうを装いながらも、エリナの瞳には隠しきれない嘲りが宿っていた。
「公爵様のかかっている《老化症》って、感染するらしいじゃない。お姉様が感染したらって思うと、ゾッとするわ」
「エリナ、《老化症》は感染する病ではなくて――」
言いかけたリリアに、「またそんな世迷い言を! お前はいつも妄想ばかり!」と父の怒声が降ってきた。
実母を《老化症》で亡くしたリリアは、この病が感染しないことを知っていた。ずっと一人で看病し続けてきたのだから。神殿は感染する病だと広めているが、そんなことはない。
けれど父の怒声の前では、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。手を上げられると、身体が知っていたから。
「準備は三日で良いわね」
「……はい」
継母の言葉に、リリアは力なく頷いた。
それで話は終わった。まるで、不要になった家具を処分するかのように。
部屋を出る前、リリアはいつもより少しだけゆっくりと歩いた。心の片隅に、引き留めてほしいという淡い望みがあったのかもしれない。
けれど、応接間の扉を閉める瞬間に聞こえてきた声の中に、もうリリアの話題はなかった。
義妹エリナが継母の腕をつかみ、目を輝かせている。
「お母様、今度はいつ聖女様に美容の祝福をしていただくの?」
「そうねぇ……公爵家からの支度金がたっぷり入ったのですもの、すぐにでもお願いしましょうか」
嫁入りする側が持参金を用意するのが本来の習わしだが、公爵家はこちらの財政事情を汲んで支度金を工面してくれていた。それはリリアのためではなく、継母と義妹の美のために、すべて費やされる。
伯爵家は二人の散財のせいで没落寸前まで追い込まれていたが、この婚姻のおかげでかろうじて首一つ分だけ生き延びた。けれどこの調子では、いずれその金も底をつくだろう。
結局、すべてはそういうことだった。
リリアは老人公爵への嫁入りという形で、家の借金を肩代わりさせられたのだ。後妻や愛人にされるより、まだマシなのかもしれない。《老化症》をあれほど恐れる継母や義妹からすれば、感染を恐れながらもリリアを押し付けたのだろうが――リリア自身には、その恐怖感がなかった。
もう両親に愛されたいとも望まない。伯爵家は、自分の居場所ではないとずっと感じてきた。顔色を窺い続ける生活に、とっくに疲れ果てていた。たとえ余命わずかな老いた公爵との結婚であっても、自分を必要としてくれる場所があるというなら――行こう、とリリアは思えた。きっと実家よりも、扱いはマシなはずだと。
己の美しさにしか関心を持たない継母と義妹、そして血の繋がった冷たい父を、リリアは静かに眺めた。
淡い金髪のリリアと違い、継母と義妹の髪は鮮やかな黄金色で、肩を超えて流れている。大金を投じて神殿の祝福を受け続けているせいか、その肌は異様なほど若々しく滑らかだった。
リリアは心の中で、静かに別れを告げた。人生で最後の彼らに贈る言葉を。
◆
伯爵家を発って三日目、馬車が白銀の雪原を越えた頃、霧の向こうから黒銀の城が姿を現した。
城門がゆっくりと開き、左右に整列した兵士たちが一斉に敬礼する。重厚な石造りの大通りを抜けると、領主である公爵の居城が、まっすぐそこにあった。
(――まるで、処刑場へ向かう罪人にでもなった気分だわ)
公爵邸に近づくにつれて、それまで通り過ぎた鉱山都市の喧騒が、まるで遠い夢のように遠ざかっていく。人の気配が薄れ、鳥の声すら消えて、静寂だけが深くなっていった。
「……着きましたよ、お嬢様」
馬車を停めた御者の声には、どこか緊張の色があった。
扉が開くと、冷たいというより痛いほどの冷気が頬を撫でた。細かな雪の舞う中に、高い鉄柵と、その向こうにそびえる重苦しい黒銀色の氷の城が見えた。
王城にも匹敵するほどの規模を誇るはずの公爵邸は、まるで長い眠りについた廃城のようだった。手入れはされている。正門も整えられている。それでも――人の温もりが、どこにも感じられなかった。
(ここが――《呪われた公爵の館》)
吐く息が白く煙る。リリアは静かに息を吸い込み、黒銀色の石で築かれた巨大な要塞を見上げた。四方に見張り塔を持ち、厚い城壁に囲まれた、北の城塞。
「……ここが」
リリアは嫁入り衣装としては質素すぎるドレスの裾を、そっと握りしめた。
今日から、ここが自分の居場所になる。
(――私は今日から、呪われた老い公爵の妻となるのだわ)
怖くない、と言えば嘘になる。けれど恐怖と同時に、奇妙なほど静かな落ち着きもあった。実家を離れることが、救いになる日が来るとは思っていなかった。たとえ嫁ぎ先が、老化症に侵された公爵のもとであっても。
リリアは馬車のステップを降り、薄く積もった雪をブーツで踏みしめた。
その瞬間、屋敷の門の両側に控えていた使用人たちが、一斉に頭を下げた。白髪混じりの執事服の男性が、リリアから三歩ほどの距離を保ちながら進み出る。
「リリア様でございますね。ようこそお越しくださいました。私は執事長のバルドリック・ヴァルツと申します」
声は丁寧だが、どこかよそよそしい。
「遠路お疲れ様でした。こちらへどうぞ。お部屋にご案内いたします」
「ありがとう。その前に、公爵様にご挨拶できるかしら?」
つい丁寧な言葉遣いが出そうになり、リリアは慌てて言い直した。これからリリアは公爵夫人となるのだ。使用人に対してあまりに低くへりくだることは、かえって舐められる原因になる。
しかし、リリアの言葉に執事の顔がわずかに強張った。
「公爵様はご体調が優れませんため、本日は扉越しでのご挨拶のみにしたいと仰せでございます」
感染を恐れるリリアへの、公爵なりの配慮なのだろう。
リリアは一瞬だけ唇を噛み、すぐに背筋を伸ばした。
「いいえ。ぜひ直接お会いしたいと、公爵様にお伝えください」
執事が目を見開いた。
「ですが……」
「私は公爵様の妻になります。最初のご挨拶を、顔も合わせないままに終わらせることは嫌です」
使用人たちがざわめく。
「感染するかもしれないのに」
「初日だから義理で来ただけでしょう」
そんな声が背後から聞こえた。リリアがそちらを振り返ると、メイドたちはびくりと身をすくめて顔を伏せた。
執事は視線を揺らして少し逡巡したが、やがて「承知いたしました」と言い、リリアを先導した。
廊下を歩くリリアのそばを通るたび、メイドたちは身を引いた。それは礼儀というより、恐れに見えた。
(――私を怖がっている? ……ああ、そうか)
得心して、リリアは唇を噛む。彼女たちの眼差しは、あの村で見た光景と同じだった。《老化症》にかかった者を見る目。まだリリアは何でもないのに、老人公爵の妻となればいずれ病が移ると思っているのだろう。まるで、すでに感染者であるかのように扱われている。
(公爵様は……こんな孤独な場所で、ずっと過ごしていらっしゃるの?)
通り過ぎた後に、メイドたちの小さな声が追いかけてきた。
「お可哀想に……まだあんなにお若いのに、老人公爵に嫁がされるなんて」
「無闇に近づいたら移ってしまうわ。正気なのかしら?」
執事長バルドリックが鋭く制した。
「黙りなさい。そのような言葉は神罰が下りますぞ」
(神罰か……)
神殿は《老化症》を、神が与える罰の病だと説いている。罪を犯した者がなる病であり、近づけば穢れが移る――そして聖女の神聖力でしか抑えられないのだと。
(――そんなはずはないのに)
リリアは薄暗い灰色の空から舞い落ちる粉雪を、静かに見上げた。
公爵の部屋は、冷えた廊下の果て――屋敷の最奥にあった。
分厚い扉のずっと手前で、執事長とメイドたちが立ち止まる。まるで、扉に近づくこと自体を恐れているかのように。
その様子を見て、リリアの心に暗いものが落ちた。
「……公爵様のお世話をしているメイドはいますか?」
執事長バルドリックが視線を伏せ、低く答えた。
「アレクシス様は発症なさってからこのかた、ずっとお部屋にこもられております。身支度も食事も、ご自身でなさっていて……食事やお着替えは扉の外に置くだけで、使用人との直接のやり取りはされていません」
「そう……」
思った通りだった。
誰も公爵のそばに寄らない。誰も看病しない。誰も、その手を握らない。リリアの実母の時と、同じように。
「本当に……入られますか?」
バルドリックが眉根を寄せて問いかけた。リリアは迷わず頷いた。
「ええ」
バルドリックは小さくため息をついて、呟くように言った。
「……どうか、神のご加護がありますように」
執事長が扉をノックし、「旦那様、リリア様がいらっしゃいました」と声をかける。しばらくあって、「……ああ」と嗄れた声が内側から聞こえた。
バルドリックがゆっくりと扉を押し開けた。
部屋の中は、しんと静まり返っていた。重厚なカーテンは固く閉じられており、昼間だというのに室内は薄暗い。薬草の青みを帯びた香りが漂っている。暖炉の火だけが赤く揺れて、パチパチと細かな音を立てていた。
そして――ベッドの上に、一人の男が横たわっていた。
(……やはり、噂は本当だったのね)
リリアは、これから夫となる人をじっと見つめた。
アレクシス・ヴァルディア・ローデンヴァルト公爵。実年齢は二十八歳だと聞いている。十八歳のリリアとは、十しか違わない。けれど目の前の人は、百を超えた老人にしか見えなかった。
腰まである白髪が枕に広がり、頬や額には深い皺が幾重にも刻まれている。毛布に沈んだ身体は、痛ましいほど痩せ細っていた。
けれど、その面差しは気品に満ちていた。静かに閉じられた瞳の縁に、かつての王弟の面影が宿っている。老いてなお、美しさの名残を消せない顔立ち。
「……アレクシス様」
バルドリックがそっと声をかけると、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
薄青の瞳が、リリアを捉えた。
氷を溶かしたような、澄んだ色。その瞳がリリアを見た瞬間、何かがドクンと音を立てて跳ね上がった。
くすんではいるが、確かな光を宿したその瞳が、困ったように細められる。
「……遠路すまなかった」
声はかすれていたが、穏やかだった。
リリアは微笑んで、扉の前から声をかけた。
「……初めまして。リリアと申します。ベッドのそばに近づいてもよろしいですか?」
「けれど、近くにきたら感染が……」
「気にしません」
リリアは迷わず歩み寄った。
バルドリックとメイドたちが息を呑む。
「奥様――!」
だが止める声より早く、リリアはベッドの脇に膝をついた。そして、アレクシスの痩せ細った手を、両手でそっと包み込んだ。
「アレクシス様」
その手は、冷たかった。骨ばった指、力の入らない掌。
アレクシスは驚いたように目を見開き、とっさに身を引こうとした。その手を、リリアは離さなかった。
「私はリリア。あなたの妻になる者です」
アレクシスの瞳が、揺れた。
「……そんなに近づいたら、感染するかもしれないぞ」
「それでも構いません」
「……恐ろしくないのか?」
「怖いです」
正直な答えだった。
「けれど、私はこの病が感染するものではないと知っています。実母が同じ病にかかり、一人で看病をしましたので」
長い沈黙が、部屋に落ちた。
それからアレクシスは、リリアの手をそっと握り返した。微かな力で、まるで確かめるように。
「……そうか」
この人は、孤独だったのだ。誰にも触れられず、誰にも近づかれず、この暗い部屋でひとり。リリアの実母のように、世界から切り離されて。そんな人を、放っておくことなどできなかった。
リリアは慈しみを込めて微笑んだ。
「あなたのそばにいます。……最期まで、ずっとそばにいさせてください。アレクシス様」
もしリリアが同じ立場だったなら、そうしてほしいと願っていただろうから。
「……愚かな選択だ」
アレクシスは苦く笑った。けれど、その薄青の瞳はどこか潤んでいた。
「だが――ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がほんのりと温かくなった。
アレクシスの瞳は、年に似合わず澄んでいた。まるで若者のように。
(今……)
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、彼の顔が若返ったように見えた。
錯覚だ。長旅の疲れのせいだろう。そう思おうとしたのに、リリアの心臓が速く打ち始めた。
「いいえ、とんでもありません……」
そう答えながらも、意識はアレクシスから離れなかった。
「……だが、そんなことをしても、きみには何の得もない。安心してくれ、きみを追い出したりはしない。きみは公爵夫人だ」
低く落ち着いた声。その声が、胸をきゅっと締めつけた。
「どういう意味でしょうか?」
眉をひそめるリリアに、アレクシスは子供をなだめるような口調でゆっくりと言った。
「こんな老いた男の元に嫁ぐことになって、申し訳なかった。……先ほど、最期までそばにいると言ってくれたが、その言葉だけで充分だ。私の介護など必要ない。行く場所がないなら屋敷で好きに過ごしてくれ。ここが嫌なら出て行っても構わない。……身勝手なことを言うようだが――きみには幸せになってほしいと、そう思っているんだ」
(幸せになってほしい?)
それは、リリアが生まれて初めて人からかけられた言葉だった。家族の誰からも、一度も言われたことがない。その思いやりに、喉が詰まって、しばらく声が出なかった。
アレクシスは何と言えばいいのか迷うように黙り込み、それから視線をそらして続けた。
「……実を言えば、この結婚は私が望んだものではない。余命わずかと知り、最期の時間を領地でゆっくり過ごそうと決めた時に、国王や友人たちから妻を娶るよう強く勧められ、断り切れなかった。伯爵家の借金を肩代わりする代わりに……きみのような若い女性を……弱みに付け込む形で婚姻を結んだ。本当に、きみには申し訳ないことをした」
「……そうだったのですね」
「がっかりさせただろう?」
「いいえ……」
借金返済のために輿入れするリリアと同じように、アレクシスにも事情があった。けれど、それを不快とは思わなかった。むしろこれほど誠実に話してくれる人を、リリアは好ましく感じていた。
アレクシスは背を丸め、赤くなった顔を隠すようにしながら続けた。
「きみのような素敵な女性に、こんな老いた姿を見られるのは恥ずかしい。老い先短い私とでは、釣り合わない。だから……」
「そんなことはございません。そんなに自分をおとしめないでください。公爵様は、立派な御方です」
(……私は、なんて幸運なのだろう)
こんなにリリアのことを思ってくれる人に、これまで出会ったことはなかった。利用されるか無視されるか、実母以外に心から信じられる人などいなかった。役立たずと蔑まれ、厄介払いのように押し付けられた結婚だったけれど――おかげでこんな人に出会えたと、リリアは心から感謝したくなった。
「私を自由にするとおっしゃってくださいましたね? では、自由にさせていただきます。毎日、公爵様のもとへ参ります。やめろと言われても」
彼が長くは生きられない。そう思うと、胸が切なくなる。それでも――せめて最期まで、穏やかでいられるように。この人を、看取ろう。リリアは静かにそう決めた。
普通の結婚生活でなくとも、それでいい。でも、これまで誰にも必要とされてこなかった自分が、誰かのそばにいる理由を得られる。それは、十分すぎるほど幸せなことだと思えた。
「本当に、きみは……っ」
アレクシスが言葉を詰まらせた。その瞳に、涙がにじんでいた。
(この病を治せたなら……)
そう強く思いながら、リリアはアレクシスの手を握りしめた。
――その瞬間、くらりと視界が歪んだ。
眼前に巨大な文字盤のようなものが浮かびあがった気がして、リリアは思わず目を瞬かせた。
(今のは……何?)
「大丈夫か?」
アレクシスが枯れ木のような腕を伸ばして支えてくれた。その一瞬、彼が年相応のたくましい男性に見えて、リリアは小さく息を呑んだ。
「す、すみません。少し目眩が……」
「長旅で疲れたのだろう。今日はもう休みなさい」
気遣わしげに言われて、リリアは素直に引き下がった。
「……ありがとうございます。また明日、参りますね」
リリアは先ほどの異変に首をかしげながら、静かに部屋を後にした。
まだ気づいていない。自分の裏に秘められたステータス――【時間逆行】によって、アレクシスに影響を与えてしまったことなど。
◆
その頃、王都の大神殿では。
「あと少しで王弟アレクシスの命を消し去ることができる。我々の《老化症》でな」
大司教セラフィムが聖女セレスティナに向かって言い放った。
聖女は顔から血の気を引かせ、地に伏してかたく身を縮めていた。まるで彼の声そのものを恐れているかのように。
大司教の哄笑が、神殿の高い天井に響いた。
「不治の病で隠居した王弟など、もはや神殿の脅威にはなるまい。あとはじわじわと生命力を奪い、殺すだけだ」
(誰も……誰も、神殿が《老化症》の元凶だとは気づいていない――)
聖女セレスティナの身体が、小刻みに震えた。
神殿が聖女にやらせている「肌を若返らせる」奇跡とは、対象者の生命力の一部を皮膚へと横流しする、でたらめな行為に過ぎない。寿命を削り取る代わりに、見た目だけを一時的に若返らせているだけだ。
大司教セラフィムの笑いは止まらない。己の野望が、もうすぐ叶うと信じて疑わないように。
(誰か……誰か、助けて。この悪魔を、止めて……)
聖女セレスティナはただ、胸の内で祈ることしかできなかった。
まさか、死にゆく老い公爵に嫁いだ「未来のない貴族令嬢」と見なされていたリリアによって、大司教セラフィムの計画が打ち砕かれることになるとは――この時、誰も想像すらしていなかったのだ。




