微睡み駅
千鳥足のまま改札の階段を下って、砂の城が高波に攫われるみたいに、手すりから冷たい地面に崩れ落ちる。ぐらぐらと回る視界はどうにも視点が定まらなくて、喉に息が詰まって窒息しそうになった。呼吸をなんとか整えようと、真っ黒なネクタイを緩めて気道を確保する。急に空気が入ってきて驚いたのか、肺に唾液が少し混ざって嘔吐く。アルコールで麻痺した脳みそが沸騰したかのように熱くなり、呼応するように喉元まで酸っぱい熱の塊が蟻の葬列にも似た形でせり上がった。あと少しで口元に広がりかけたそれを、すんでのところで嚥下する。すると幾分かすっと視界が開けた気がして、俺はふらふらと立ち上がり駅のホームのベンチへどかっと腰をかけた。東京のベンチは鉄で出来ていて、その冷たさが今の火照った体には優しく感じる。故郷から東京に繰り出してすぐの頃、東京の風は俺の心をいとも容易く凍えさせた。故郷の暖かい木漏れ日が恋しいと、何度思ったことだろう。けれど、体も心も土地に馴染んでいくもので、今ではすっかり故郷のことなど、もう遠い昔のように思える。視界の端が覚束無いまま、俺は電光掲示板をふと見上げた。時刻はとっくに零時を回っていて、終電の告知を終えたそれは静かに瞳を閉じている。それを見て、肩の力が一気に抜けていくのが分かった。こんな歳にもなって終電を逃すなんてみっともないと思いつつ、より一層ベンチにかかる負荷が大きくなる。そうして投げ捨てるようにスーツのジャケットをベンチに放り、まぶたを固く閉じて項垂れた。瞳を閉じた真っ暗闇の中にはいつも、腐って悪臭を放つ懊悩が駆け回る。ただ今日はどういう訳か、ただ静かな、それでいて虚しさを感じさせる空洞が広がっていた。安眠からはかけ離れているはずの空間に何故か安らぎを感じながら、うとうと静寂を食む。すると、不意に懐かしい音が鳴った。古ぼけて埃の被った電子音に、思わずまぶたを持ち上げられる。はっと頭を上げ、俺は目を正面へと向けて音の正体を確かめた。
「次は、微睡み。微睡みです。この電車は終着、深敷妙まで各駅に止まります。」
先程の確認は見間違えだったのか、どうやらまだ電車は残っていたらしい。とにかく、駅のホームよりはマシだろうと俺はジャケットを再び手に取り、ふらふらと電車へ乗り込んだ。温かな柔らかい座席は体を優しく支え、辺りを見回すと他に乗客は誰もいない貸し切り状態。横になってしまおうかとも考えたが、なんだか気が引けて横の支えに寄りかかる程度にしておくことにした。しばらく待っているとドアが閉まり、緩やかにスピードを上げて電車が発進していく。明るいホームを後に、真っ暗な光景が窓に映り自分の顔が反射した。薄ら髭がまばらに生え、髪はボサボサで不揃い。思わず乾いた笑いが漏れてしまうほど、小汚い様相が暗闇の中に浮かんでいる。長い地下トンネルはその黒を存分に用いて、見たくない物を沢山浮き彫りにさせてきた。こんなはずじゃなかった。幼い頃、描いた未来はこんなものでは決してなかったはずなのに。妥協の積み重ねが、今の俺をここまで運んできたのだろう。思わずため息が漏れそうになる。そんな時、突然トンネルがその体躯の限界を知らせて光が視界を覆い尽くす。急な明かりに俺の目は暫く塞がり、ようやく辺りを見回せるようになった時、そこにあったのは満開の桜たちが大手を振ってゆらゆら風になびいている春景色だった。ドアが開き、風に背中を押されたいくつかの花びらが乗車してくる。
「到着致しました。微睡み、微睡みです。次はうたた寝に止まります。」
春の匂いが花弁を踊らせて、柔和な青空がそれを肯定するように微笑む。寝起きのお日様が遠くの新緑を撫でて、気持ちが良さそうに草たちは揺れ、朝露の爽やかさを孕んで朗らかに手を広げた。そんな色彩を足元に、一人の少女が駆け足で電車へと向かってきた。おおよそ六歳ぐらいだろうか、真っ赤なランドセルを抱えたその少女は全力で走った反動か、ぜえはあと息を吐き出しながら、俺の正面の座席に座って汗を拭う。おでこに前髪がベタベタに張り付いて、ひじきみたいにうねっている。そんな姿に微笑ましくなって頬を綻ばせていると、少女はランドセルから一枚の手紙を取り出した。折り紙で作られたそれは、作り手がガサツだったのか、所々にくしゃくしゃと折り目が散りばめられている。しかし、そんな事は気にもとめていないのか、少女は嬉しそうな満開の表情で手紙を見つめている。それからは手紙を抱きしめたり、匂いを恥ずかしそうに嗅いだりしつつ、恐る恐る中身を取り出して読み始めた。そうしてそれと同時に電車のドアが閉まり、再び電車は走り出す。ピンク色をした桜たちが別れを告げるように、何度も何度も手を振っていた。しばらくそんな光景が続いた後、再び真っ暗なトンネルが顔を覗かせる。少女は相も変わらず、手紙を読んでは足をバタバタさせたり、頬を赤らめながら首を横にブンブンと振って髪をたなびかせたり、様々な様相を見せた。その姿がどうしてか、とても懐かしいものに思えて、ぐっと胸が締め付けられる。正体不明の苦しさが錆びた鉄の重りを持って心臓に括り付けられているような、そんな違和感を覚えて、少女から目が逸らせなくなる。耳のすぐ隣から鼓動が鳴っているのかと錯覚させられる程拍動が大きくなって、呼吸が不揃いのまま外に飛び出していく。そうしているうちにガタリと、電車が停車した。
「到着致しました。うたた寝、うたた寝です。次は浅夢に止まります。」
気がつけばいつの間にかトンネルは抜けていたようで、少女の背中にはキラキラ宝石を砕いてばらまいたのかと思うほど、太陽を乱反射させて輝く海が広がっていた。少女はあっと声を漏らした後、バタバタと手紙をランドセルにしまって電車から飛び降りていく。元気なその後ろ姿の赤色が、遠くの深緑に消えていくのを、ただただ俺は静かに眺めていた。胸の苦しみが少しは収まり、呆けながら海を眺める余裕が出来た頃、今度はセーラー服を着た十三歳程度の女の子が学生鞄を携えて乗車してくる。彼女は先刻の少女と同じように俺の正面に座って、学生鞄の中から青い龍の描かれた布に包まれている弁当箱を取り出した。些かセンスが少年らしい布を膝に敷いて、祈るようにパチンと両手を合わせてから、彼女は味気ない弁当箱の中に詰められた食べ物を上品に口の中へ運んだ。足の大きさが違うタコさんウィンナー、砕けて半分スクランブルエッグになった卵焼き、見るからに味付けが濃そうなハンバーグ、大きさが男の子向けに握られたおにぎり。その全てを美味しそうに平らげたあと、また再び手を合わせてから丁寧に弁当箱を布で包み、学生鞄へとしまった。彼女は食事を終えた後、嬉しそうに外へと視線を配る。先程の少女ほど頬を朱色には染めていないが、ほんの少しだけ奥にピンク色が根ざしているのが分かる。燦燦と太陽は強く海を照りつけて、暴力的なぐらいの光が波に砕けて攫われていた。窓からも存分に、その砕けた光の破片がガラスの先端を思わせる鋭利さで彼女に突き刺さる。顔のあちこちが斑に反射を受け、眩しそうに目を細めて手のひらで光を遮った。光のせいか一層白くなった横顔からは、雨上がりの空を思わせる清廉さをベールのように纏っている。いつまでも見ていたいと思わせる。そんな魔性と呼ぶにふさわしい魅力がそこにはぽつんと置かれていて。そうしてまた、ドアが閉まり電車はトンネルへと進む。あの強すぎる日差しが失われ、何度目かの暗闇に呑み込まれてしまったあとも、やっぱりそこには洗濯したての清さが未だに佇んでいた。あんな不器用な弁当を平らげて、よく満足気な表情ができるものだと感心してしまう。その顔がどうしてか、あまりにも嬉しくて、また胸が痛くなる。今度は鉛の空気を呑んで、肺がずっしり沈んでいくような感覚が俺を襲う。酷く具合が悪いが、先程の痛みよりは幾分苦痛ではない。落ち着いて深呼吸を繰り返し、ただ体の違和感が去るのを待った。
「到着致しました。浅夢、浅夢です。次は終着、深敷妙に止まります。」
仄明るいオレンジ色が、電車の中に差し込まれる。ドアが開いて、木枯らしが夕日を運ぶ。燃えるようなオレンジに、やっぱり彼女は電車を降りて溶けた。高い空にはカラスが何匹か鳴いていて、鉄橋や鉄塔が影を背負って黒く見える。全てを焼け野原にしてしまう夕焼けに、昔の物悲しさを覚えて刹那の間、呼吸が止まる。何度も何度も繰り返し見てきたはずの景色で、これからも死ぬまであとどれぐらい見るか分からないもののはずなのに、決して最早回帰しないような。たった一つの夕焼けが、そこには泰然と広がっていた。それからまた、同じように少女がオレンジを切り裂いて電車に乗ってくる。今度は十六歳ぐらいだろうか、彼女は音楽プレーヤーを片手に、ポケットからイヤフォンを取り出した。俺の正面に彼女は足を組んで座り、イヤフォンを耳につけて再生ボタンを押す。すると音楽が流れ始め、音漏れをしているのか微かに俺の耳にも音楽が届く。荒いピッキングでアコースティックギターの弦が弾け、拙い歌声がそこに乗せられる。思わず顔を顰めてしまうほど、小恥ずかしい演奏が電車の中に滞留した。聞いた事のないメロディに、完成度の低さを鑑みるとおそらくはオリジナルソング。しかも小さく聞こえてくる歌詞からは愛を綴った言葉の連続が雨のように繰り返され続ける。聞いているこっちの方が痛々しくて天を仰ぎそうになってしまう楽曲を、正面の少女は目を瞑りながら真剣に聞いていた。頬の調子は夕焼けのせいか、何も分からない。けれど、間違っても俺のように恥ずかしさを感じているような雰囲気では全くなかった。それどころか、メロディに乗せて頭をゆらゆら揺らして、熱心なファンのように音楽に聞き入っている。馬鹿みたいだと、思わず口から漏れてしまう。しかし彼女は音楽に夢中で、そんなことは一切聞こえていない様子。そんな姿を見ているうちに、どうしてか顎の先が冷たく感じて、指で顔を拭う。熱くなった瞳をゴシゴシ擦って、その時初めて自分が泣いていたことに気づいた。泣く理由なんて何一つないはずなのに、涙が止まらなかった。みっともない嗚咽を続けて、涙が溢れるのを必死で止めようと顔を両手で押さえ続ける。そうしているうちに、気づいてしまった。これは夢だ。俺は今、夢を見ているんだ。彼女はこちらを見ようともせず、音楽に聞き入っている。そんな彼女を指の隙間から覗きながら、その隙間を通るオレンジが宿った雫の歩く感覚を、俺はただじっと噛み締めていた。ドアが閉まる。電車はまた、暗闇へと飛び込んであっという間に終着へとその足を進めた。そうして、ついに電車は動きを止めてもうそれ以上動こうとはしなかった。
「終着、深敷妙、深敷妙です。」
外はまだ暗く、雪がしんしんと降っていた。街頭だけがぽつぽつと咲いていて、雪明かりが地面をふんわり覆う。その雪たちをざっざと潰していくように、彼女は電車を降りた。そうして、一人の女性が電車へ乗ってくる。
「...おす、久しぶり。」
十九歳ぐらいの女性。昔からの幼なじみが、気恥しそうに、そこには立っていた。クリーム色のマフラーに顔を半分埋め、茶色のコートにかかった雪を振り払いながら彼女は俺の正面に腰掛けた。
「元気してた?ちょっと...老けたね。」
「...うるせーよ。こっちはもう二十七。....二十歳のままのお前とは、差がだいぶ着いたな。」
幼なじみと最後に会ったのは、十九歳の冬だった。高校を出てから東京に進学し、大学に入って一年を過ごす。お互い、小学生からの付き合いとは思えないほど目まぐるしく変わっていった。環境が変わって、歩幅もタイミングも考え方も、何もかもが少しづつズレてしまって。そうやって、別々の道を歩くことになってから一年後、彼女は交通事故で死んだ。葬式の時、真っ白な死装束からはみ出た痛々しい痣が、今も頭の片隅にどろどろと形を保たないまま住み着いている。
「....今日、お前の七回忌だったんだよ。親戚でも家族でもない俺からしたら、ここらが区切りかもな。」
七年。人を変えるには十分すぎる時間が、そこには横たわっていた。大学を卒業して、恋人を作って、仕事について、毎日生活を送っている。妥協ばかりの積もった暮らしではあるものの、それでもかけがえのない日々だと思う。ただ一つ、忘れ物か、あるいはこびりついた記憶が、そこには確かにあって。それと、明確に区切りをつけなければいけなかった。彼女は寂しそうな顔をして、それから少し笑った。でも、それが執着を捨てることなんだと、なんとなく感じて、喉元に針が刺さったみたく痛みが走る。それと同時に、俺は思わず視線を下げた。
「今、幸せ?」
「.....あぁ、幸せだよ。」
淀みなく、言葉が出たわけじゃない。子供の頃思い描いた将来とは、まるでかけ離れた今を、幸せだと呼んでいいのか。一瞬迷って、それから答えが出た。間違いなく、俺は今幸せの中にいる。
「....恋人が、できてさ。可愛くて、趣味も合って。時々喧嘩とかもするけど、結婚とかも考えてる。」
「....うん。」
「仕事も、やりたかった仕事じゃないけどさ。つまんないし、毎日辞めたいなーって思ってるけど、でも頑張ってて。何とかやっててさ。」
「..........うん。」
「だから、もう....これで。」
そこまで言いかかって、言葉が出てこない。これで、最後にする。それだけの一言が、どうしても喉から出てくれなかった。こんな事は不誠実だ。過去への羨望は今の幸せに対する裏切りで、何よりも大切にすべきものを踏みにじっている。そう強く思うのに、それでもやっぱり言葉にはできない。本当に、それが正しいのだろうか。沢山のことを、とても沢山のことを思い出す。底の破けたビニール袋から水が漏れ出すみたいに、一気に思い出が脳みそを浸していく。どれもこれも、一つ一つが大切な居場所で、記憶で、俺自身を形作ってきたものたちばかりだ。
「........俺、今がやっぱり幸せだよ。でも、今が幸せなのと、昔が楽しかったなって思うのは、両立しちゃいけないのかな。」
顔を上げて、彼女を瞳を見つめる。昔から変わらない、懐かしい顔がそこにはあって、俺はぐっと自分の拳を握った。後悔がある。けれど、やり直そうとは思わない。退屈で、妥協が詰まっていて、望んだものではない毎日を、それでも愛している。等身大の愛着を心臓に抱えながら、ようやく喉から、俺は心を吐き出す。
「これでもう最後。でも、時々思い出して墓参りでもいくよ。」
「....そっか。うん、やっぱり変わんないね。」
今度は混じりっけのない笑顔で、彼女はパッと笑った。それから勢い良く立ち上がって、再び雪の降る夜へとその身を翻す。その後ろ姿に、俺は手を振って叫んだ。
「安らかにな!そっちでも元気で!」
「うん!そっちも幸せに!」
背中を向けたまま、彼女は手を振ってそう言った。そうしてドアがガタンと閉まり、電車は緩やかに、しかし確実に来た道を戻っていく。俺は瞳を閉じて、ただこの夢が覚めるのを静かに待っていた。




