第21話
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夜のリュジオン河は、昼とは打って変わって静けさに満ちている。夜は舟の往来がほとんどなくなるからだ。たまにカンテラを灯した舟が水面を滑っていくが、すぐにその明かりも見えなくなる。
水面は墨を流したように黒く、光沢を帯びている。
だが今、その水面を滑るように河を渡る筏の一団がいた。
彼らの筏はリュジオン河の東岸、ユナトへと向かっている。
リュジオン河の東岸にはユナトの船着き場があった。夜間はここに商人たちの舟が集まるため、近くには宿場もある。地名をルマンデという。
「今夜はもう舟は来ないかな」
船着き場の番をしている老人の一人がのんびりと言い、パイプの煙をくゆらせた。暗闇にぼうっと赤い火が灯る。
「おい爺さん、しっかり繋留してるか確認しとけよ。こないだ流されて大変だっただろ」
「わかっとる。お前さんこそ、あのときみたいに桟橋から落ちるなよ?」
そう声を投げかけた瞬間、ドボンという水音が聞こえてきた。
「ほらほら、言わんこっちゃない」
相方の若者を助けようと立ち上がったとき、老人は胸にドンと強い衝撃を感じてよろめいた。
「ん?」
心臓を射貫かれた老人は、自分に何が起きたのかを知る前に絶命した。
「もう誰もいないな?」
「確認しました。ここの見張り番はいつも二人だけです」
「よし、舟は全て接収する。一艘も流すな。ユナトに気取られるとまずい」
ぼそぼそとしゃべる声が聞こえた後、筏の一団が静かに上陸してきた。
「宿場を包囲制圧しろ。一人も生かすなとの命令だ」
「はっ」
それから一瞬だけ間を置いて、声が尋ね返す。
「あの……サイダルの商人もですか?」
「そうだ」
* *
「という訳でだ!」
夕食の席でフィオレ姫が拳を震わせる。なんだなんだ。
「姫、まだ事情を説明してもらっていませんが」
「おっと、そうであったな」
コホンと咳払いをして、姫は書簡を俺たちに見せてくれる。
「昨日の夜遅く、サイダル軍がリュジオン河を渡ってルマンデの船着き場に上陸したのだ! 近くの宿場が占領され、既に野戦築城が始まっているとのこと!」
「とうとう始まりましたか」
思っていたよりも早かった。こっちはまだ何の準備もできてないぞ。
さっそくカナティエが興奮している。
「姫、私に先鋒をお命じください。必ずやサイダル軍を撃破して御覧にいれます」
「うむ、私の全兵力を預ける。存分に働け」
あの、めいっぱい動員しても農民兵十人ぐらいしかいないんですけど……。どうやって勝つ気だ。
そもそもこの戦いに参加できるの?
「また勝手に参陣なさるおつもりですか」
「勝手ではないぞ! 見ろ、父上が私に出陣をお命じになったのだ!」
目を輝かせ頬を紅潮させながら、ふんすふんすと鼻息荒く詰め寄ってくる姫。暑苦しい。
見れば確かに「手勢を率いて参陣し、ウルリス王太子の指揮下に入るように」と記されている。どうやら王太子が迎撃軍の総大将らしい。
「この書きぶりだと、姫は王太子殿下の与力として参陣するようですね」
「うむ、兄上は文武に長けた名将であるからな。戦の経験はないが」
戦の経験がない名将ってどんなのだよ。
そう言いたかったが、姫の嬉しそうな表情を見るとちょっと言えなかった。頼りになる兄を慕っているのだろう。
「では王太子殿下のお役に立てるよう、俺たちも奮起いたします」
「期待しているぞ!」
今にもぴょんぴょん跳ね出しそうな顔で、姫はニカッと笑ったのだった。
さて、実際に兵を率いて出陣するとなると、準備するものが実に多い。
一通り用意してから俺は報告のために姫のところに戻る。
「マルダー村の兵士の割り当ては三人ですが、手勢三人では格好がつかないのでもう少し動員したいところです。八人……いえ、十人いけるでしょうか。全員が志願を申し出ています」
俺がそう言うと、姫は得意げな表情をする。
「村人たちがそれで良いのなら、拒む理由もあるまい! 費用はかさむが、八人も十人も同じことよ!」
「では十人で」
他にもまだ行きたそうな顔をしている者もいたが、これ以上になると貸与する武具が心配になってくる。
「では往復分の兵糧と薪を少し多めに用意します。陣中では兵糧が支給されるので問題ないでしょう。それと馬車一台を手配します」
馬車は物資の輸送に使うのだが、戦死者が出た場合にここまで運ぶのにも必要だ。故郷に埋葬してやらないと生存者たちの士気が落ちてしまう。
それに幌つきの馬車は簡易テントとしても使えるので、兵たちの拠り所になるだろう。
すると姫が口を挟む。
「持参する兵糧はなるべく旨いものを用意してやるのだぞ。粗食では勇気も萎えるというものだ。少しでいいから酒も用意してやれ」
「承知しました」
じゃあワイン樽と塩漬け肉を出すかあ……。近場だから魚や肉の燻製も持っていくか。ちょっともったいない気もするけど、命を賭けて戦う訳だしな。
「姫は何か希望がおありですか?」
すると姫は周囲を見回し、誰もいないことを確認してからそっと俺に打ち明けた。
「あのだな、寝具が変わると落ち着かぬ。せめて枕は持参したいのだが」
「まあそれぐらいでしたら」
枕が変わると寝られない人っているよな。俺も普段と違う寝具だと寝付きが悪くなるからわかる。
「戦場で枕を焼かれても泣かないでくださいよ」
「う、うむ……」
なんだその覇気のなさは。修学旅行に行く訳じゃないんだぞ。
姫はぼそぼそと独り言をつぶやいている。
「では万が一に備え、二番目のヤツにするか……」
お気に入りの枕に序列があるんだ。なんだかんだ言っても、まだ子供だな。
すると姫は俺を見上げ、ちょっと不満そうに頬をふくらませる。
「私を子供扱いするでない」
「していませんよ」
こういうところもまだまだ子供だなあ。
などと思っていると、ブーツを執拗に蹴られた。地味に痛い。
「狼藉はおやめください、姫」
「子供扱いするなと言っておるのだ」
「してませんってば」
「いいや、子供を見るような目をしておる。なんだその慈愛に満ちたまなざしは」
慈愛に満ちてたら悪いのかよ。
俺は軽くバックステップして姫の蹴りから逃れる。付き合ってられない。
「こら待て、もっと蹴らせろ」
「嫌ですよ。まだ準備しないといけないものが山ほどあるのに」
「ええい、おぬしはいつも不敬だ。私は枕選びに戻るからな」
ぷんすか怒りながら、姫は出征に持っていく枕選びのために自室に帰っていくのだった。
子供だ……。




