第17話
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リュジオン河の流域には肥沃な平野が広がっており、ユナトとサイダルそれぞれの穀倉地帯となっている。
両国とも稲作はほとんどしていないので農業用水で揉めることはなかったが、リュジオン河での漁業ではしばしば対立していた。
今も漁船の上で言い争いをしている。
「お前ら、サイダル側に寄り過ぎだぞ! 向こうに行け!」
「そっちこそ、あっちじゃユナト側で網を打ってただろうが!」
彼らは投網漁を生業にしている漁民たちだ。
「魚なんてもんは動き回るんだから、しょうがねえだろ!」
「だから縄張りがあるんだ! 出て行け!」
リュジオン河は緩やかに蛇行しており、ここではサイダル側がカーブの外側になっていた。カーブの外側は水流によって川底がえぐられ、深くなっていることが多い。
魚たちはこの深みに身を潜める。
「おいやめろ! 網が絡まる!」
「うるせえ! そっちこそいつまで網を打ってるんだ! それだけ魚が獲れたら十分だろ!」
漁民たちは河岸の保全や有事の漁船徴発を義務づけられており、その代価として自国の王から投網での漁業権を与えられていた。大事な特権だけに、おいそれと譲るつもりはない。
「もう我慢ならねえ!」
血の気の多いサイダルの青年が河に飛び込み、ユナト側の漁船に這い上がってきた。
「漁の邪魔するんじゃねえよ!」
「うるせえクソ野郎!」
「おいよせ、やめろやめろ」
これまた血の気の多いユナトの青年がそれを迎え撃つ形になり、若者たちは激しく揉み合う。
年寄り連中は渋い顔をしつつも、本気で止める様子はない。自分たちも若い頃はそうだったからだ。
両国の青年は組み合ったまま河にドボンと落ちるが、二人とも水泳は達者なので泳ぎながらまだ喧嘩をしている。
「ようし、俺も加勢してやる!」
「なら俺も!」
サイダル側から何人かが河に飛び込み、それを見たユナト側からまた数人が河に飛び込む。
「こらアホども! 魚が全部逃げちまったじゃねえか!」
「ユナトの連中に獲られるぐらいなら全部散らしちまえばいいんだよ! うわっぷ!?」
「おりゃ沈め沈め」
「何しやがるこのジジイ!」
「こら、魚を投げるな!」
ただでさえ暑いので、漁民たちは河に飛び込んで憂さ晴らしを始めた。川底の地形まで知り尽くしている彼らにとっては、平時のリュジオン河など風呂桶同然だ。
「ようし、舟ごとひっくり返しちまえ!」
「うわよせバカ!」
「待て、櫂は振り回すな! うっかり殺しちまったら後が面倒だ!」
「けど……」
「代わりに縄でぶっ叩いてやれ!」
係留用の太い縄は水を吸ってずっしりと重くなっており、叩かれた漁民たちが次々に悲鳴をあげる。
「ぎゃあ!?」
「いってええええ!」
すると今度は投網が飛んできた。
「今日はもう漁は上がりだ! てめえらを市場に並べてやるよ!」
「おわああああ!?」
投網は古代の剣闘士たちが武器に使っていたほどに強力で、相手を絡め取って引きずり倒す。漁民たちがバランスを崩すと、そのまま小舟がひっくり返った。
「うわははははは! ざまみろ!」
「やりやがったなてめえ! おい、舟を起こせ! 反撃すっぞ!」
しばらく派手にバシャバシャやっていたが、そのうち双方の漁船は互いに距離を取り始める。
「はあ……はあ……ちょ、ちょっと待て……」
「ど、どうだ……思い知ったか……」
「そっちこそ……」
船縁にもたれかかって漁民たちが休んでいると、川岸から女性たちの怒鳴り声が飛んできた。
「アンタたち、漁もしないで何やってんの!?」
「昼間っから遊んでるんじゃないよ!」
「家じゃ酒ばっかり飲んで、河じゃ水遊びかい! このロクデナシどもが!」
漁民の母親や妻たちだ。
ユナトとサイダルの漁民たちは互いに顔を見合わせ、それから溜息をつく。
「くそ、お前らのせいだぞ」
「うるせえ、今はそれどころじゃねえだろ……」
「ああ、そうだな……」
すっかり闘志を奪われた漁民たちは、うなだれながらそれぞれの岸へと漁船を寄せていく。
命知らずの屈強な漁民たちも、留守を預かる女衆にはまるで頭が上がらないのだった。
* *
「あっちの方でなんかやってますね」
腰まで河に浸かった俺は、河の中央で騒いでいる漁民たちを眺める。
とたんに姫が切羽詰まった声をあげた。
「こ、こら! ちゃんとこちらを見ぬか!」
「心配しなくても、両手ともちゃんと握っていますから大丈夫ですよ」
姫は今、水泳の特訓中だ。
まだ女性用の水着なんてない時代だから、上はタンクトップみたいなシャツで下は乗馬ズボンだ。
「主君がこんな恥ずかしい格好で耐え忍んでおるときに、視線を逸らすでない!」
「そんなに恥ずかしいですか? ああ、そういえば『恥ずかしいからあまり見るな』と仰っていたような気がしますが……」
前世の水着と違って、これはほぼ着衣泳だ。
「それはそれ! これはこれであろうが! 私を見ておれ!」
「わかりました。それよりもバタ足を止めないでください。下半身が沈んでますよ」
「ええい、尻をまじまじと見るな!」
「はいはい」
カナティエが同じ格好をしていたらかなり扇情的だったかもしれないが、姫じゃなあ……。
「ジュナン、溜息をつくな!」
「ただの深呼吸ですよ」
カナティエはというと、少し離れた場所でマルダー村の青年たちに古式泳法を伝授していた。
「よろしいですか、このように足の動きだけで水面に上半身を出し、片手で盾を構えます。もう片方の手で姿勢を安定させ、場合によっては短剣を構えます」
あくまでも武術としての泳法なので、あちらは完全な着衣だ。
村の青年たちは心なしか憂鬱そうな顔をしている。美女と水練できると聞いて喜んでついてきたら、本格的な軍事訓練が始まったのでガッカリしているのだろう。
とたんに叱責が飛ぶ。
「しっかりなさい! 水は百人の敵兵より恐ろしいのですよ! リュジオン河で戦になれば、敵の矢よりもこの水と戦わなければならないのです! 生きて帰るために本気で訓練なさい!」
たちまち青年たちが頬を赤らめ、ビシッと背筋を伸ばす。
「は、はいっ! ありがとうございます!」
あの青年たち、やや特殊な性癖がありそうだな。……まあいいや。
そんなことを考えていると、岸で荷物番をしているメステスが声をかけてくる。
「おーいジュナン、あんまり姫を甘やかしちゃダメだよ。昔から貴人の溺死は本当に多いからね」
「ああ、わかってる」
前世でも溺死した王侯貴族は枚挙に暇がない。水は捕虜を取らないし、人間の身分など考慮しない。
「では姫、脚にもっと力を入れてしっかり水を蹴ってください」
「生まれて初めて泳ぐのだから要領がわからぬのだ!」
王子なら武芸の一環として水泳も学ぶはずだが、王女は無理だよな。
「戦場に立つおつもりがあるのなら、そうも言っていられません。少しずつでいいので、水に慣れていきましょう。片手離していいですか?」
「待て待て待て!?」
「心配しなくても足がつきますよ」
水を甘く見ない警戒心は大切だが、かといってやみくもに怖がるのも良くない。いざというときにパニックになってしまう。
「ではこのまま、ゆっくり川岸まで戻って休憩しましょう」
「う、うむ。決して手を離すでないぞ……」
心配性だな。
俺は姫を引っ張らずに、彼女がバタ足で進む力に任せることにする。じれったいほど遅いが、どうにか前進はできているようだ。どうにか岸までたどり着いた。
「はぁ……はぁ……ふぅ……」
石ころだらけの河原に上がると、姫はすっくと仁王立ちになる。びしょびしょだし息も上がっているが、よろめいている姿など見せられないのだろう。
やはり王女様だなと改めて実感する。
透けた衣服が体にまとわりつくのも気にせず、姫は俺に言う。
「はぁ……サイダルとは……いずれ戦になるであろう……。はぁ……この河原が戦場になるかもしれぬ」
だいぶ呼吸が乱れているが、それでも堂々とした態度だ。
俺は真面目にうなずく。
「仰るとおりです。河川での戦闘にも備えなければなりません」
俺がそう言った瞬間、姫はパッと笑った。
「そうか、おぬしもそう思うか! ではおぬしも水練をせよ!」
「はい!?」
必要ないだろ。
「さっきから怖がる私にあれほど偉そうに教授したのだから、おぬしの泳ぎの技量を披露してもらわねばな! 手本を見せい!」
するとメステスがすかさず口を挟む。
「そうだね、ジュナンが泳ぐところを僕も見てみたいな。故郷には泳げるほどの川や池はなかったからね」
いや前世、前世で泳いでたから!
しかし姫はもう止まらない。
「はーやーくーおーよーげー!」
「ええと……わかりました」
俺は溜息をつくと、仕方なく上着を脱いだ。




