吸血鬼と老婦人(9)
「マリー=アンヌに俺の進路について聞かれたよ。どうせオーギュが頼んだんだろ? ヴァンピールになるのを諦めるようにって」
主人は裸婦の背景に薔薇の茂みを描きながら、小さなため息を吐いた。
「別に頼んではいない。困っているとは言ったが」
「どうして困るんだよ」
「ヴァンピールになっても、いいことなんてひとつもない。こんな思いをするのは、私だけで十分だ」
たしかに苦労するのはわかっているが、どんな職業にも苦労はつきものだ。主人はそれなりに上手くやっているし、何がそれほど大変なのかルネには理解できない。
「俺は片目なんだから医者になんてなれない。弁護士だって無理だ。怖がってお客も寄りつかないだろ」
「そんなことはない。身体が不自由でもしっかりした職業に就いている人間はいくらでもいる。軍人は無理かもしれないが、行政官を目指してもいい。教育は受けさせてやる」
「この俺がお役所仕事だって? それは笑えるな」
いままで何度同じやりとりをしたかわからない。初めてルネが自分もヴァンピールになりたいと言ったとき、主人は不愉快極まりないとばかりに端整な顔を歪めた。
それ以来だ。勉強してまともな職業につけと、口うるさく言うようになったのは。
ルネは苛々とブドウの粒を口に放り込み、勢いをつけて起き上がった。
オーギュはちっともわかってない。勉強しろと言われるたびに、俺がいったいどんな気持ちになるのか。
「だいたい俺がいなくなったら、誰が汚れた服を洗濯屋に出すんだよ。風呂の準備は誰に任せる? お使いはどこのどいつに頼むんだよ。困るのはオーギュの方だろ? 俺がいなくなったらどうするつもりなんだよ!」
ルネは目尻を釣り上げ、主人の隣に仁王立ちになった。
「別にどうもならない。元の生活に戻るだけだ」
「じゃあ何のために俺はここにいるんだよ! 必要だから連れてきたんだろ!」
主人はぴたりと筆先の動きを止めた。失敗したのか、軽く舌打ちをする。
「たしかに助かってはいるが――」
「じゃあ俺がいなくなったら困るだろ!」
ルネの強情さに苛立ち、主人は静かに絵筆を置いた。その蒼い瞳に、ちらちらと蝋燭の灯りが揺れた。
「……お前はなぜ私の言うことが聞けないんだ」
「聞けるかよ! 勝手に俺の人生を決めるなって言ってんの!」
「決めてない。選択肢は与えてやっているだろう」
「医者か弁護士だろ? いつ俺がそんなものになりたいって言ったんだよ! 結婚して家庭を持ちたいなんて俺は一度も言ってない!」
「お前は子どもだからまだよくわからないんだ。私は何ひとつ特別なことは言ってない。それがふつうの人生だ」
「ふつうじゃない奴がふつうの人生を人に押しつけるのかよ! 俺は絶対にここから出て行かないからな!」
だが主人はルネの意見を撥ねつけるように、冷淡な視線を投げた。その態度にルネの苛立ちが暴走する。
「何なんだよ、その態度は! 子ども扱いしてごまかすんじゃねえよ! 俺がいなくて困るのはそっちだろ! 何でそんなに強情なんだよ!」
「強情はお前の方だ」
「強情でけっこうだよ! 認めるだけ俺の方がましだろ!」
「ああそうか。それなら好きにすればいい」
「じゃあそうさせてもらうよ! 俺はあんたが困るからここから出て行かない!」
「困るなんて言ってない」
「困るんだろ! 素直に認めろよ! 意地張ってないで正直に困るって言えばいいだろ!」
「困らない! 必要なら他の誰かに――」
苛立ち紛れにうっかり言葉が滑り出し、主人は慌てて口をつぐんだ。――ルネの瞳に、捨て猫のような怯えが浮かんでいる。
ルネは爆発するように逆上し、主人に掴みかかった。
「てっめえ……よくもそんな口がきけるな! このクソ吸血鬼が! 太陽の下に連れ出してやろうか!?」
ふたりに押しやられたイーゼルが、大きな音を立て床に倒れる。ルネは主人の身体に馬乗りになり、悪魔の形相でその白い首を締め上げはじめた。
「お前が俺を連れ出したんだろ! 途中で放り出すなら最初から同情なんてすんな! 誰でもいいなら何で俺を選んだんだよ!」
常に冷静な主人の顔に、珍しく焦りと動揺が浮かぶ。怒り狂い自分を罵り続けるルネを、主人は両腕の中に抱えた。
「――悪かった、ルネ! 私が間違っていた。許してくれ、どうかお願いだ」
ルネは主人を殴りつけ、噛みつき、狂ったように暴れたが、ひ弱な少年の力がヴァンピールに敵うはずがない。
そのうちルネは抵抗するのを諦め、主人の胸に顔を埋めた。
ルネの喉から獣のような唸りが漏れる。やがてそれは啜り泣きに変わった。
「……ルネ、お前は正しいよ。お前がいなけりゃ私は何もできない。お前の代わりになれる奴なんてこの世に誰もいないよ」
オーギュストは胸の中で泣き続ける、痩せた背中を力強くさすった。
「だが、わかってくれ。お前が要らないと言っているわけじゃない。お前が大事だから、幸せになってほしいんだ」
ルネは泣きながら、幼な子のように主人の胸に縋った。その薄い胸は、手を離した途端に暗闇をすべり落ち、永遠に自分のもとには戻らないように思えた。
「……俺を追い出さないで、オーギュ。他に行く場所なんて、どこにもないんだ」
その冷たい胸にしがみつき、なりふり構わず懇願した。
「お願いだよ、オーギュ――ずっとここにいろって言って。永遠にそばにいられたら、他には何もいらないから」
その柔らかな金の髪に、主人は鼻先を埋めた。自分に縋りつく少年を、よりいっそう強く抱きしめながら。
ルネが鼻を啜る音が、頼りなく夜のしじまを漂った。
「大丈夫だ、心配するな。お前を放り出したりするものか」
だがルネは、左右に頭を振った。
「じゃあ、いつか必ず俺をヴァンピールにするって約束してよ」
ルネの願いに、やはり主人は答えない。ただ胸にルネを抱きしめ、揺り籠のように優しく揺らして。
身体が前後に揺れるたび、古い床板が、ギイ、ギイ、と音を立てる。
「――永遠なんて、そんなに美しいものじゃない。ただ、醜悪なだけだ」
物悲しいその声が、ぽつりと主人の口からこぼれ落ちる。それは降りはじめの雨のように、ルネの胸に波紋を打った。