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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第一章 華の都の紅い夜
8/50

吸血鬼と老婦人(8)

「彼が屋敷から無事に逃げ出せたことを信じ、無我夢中で街中を探し回ったわ。狭く薄暗い路地裏や、崩れ落ちそうな古い空き家。知らぬ間に危険な区域にまで足を踏み込んで、慌てて引き返して――でも、どこにも彼の姿を見つけることはできなかった。

 すっかり日が暮れて自宅に帰る道すがら、ノートル=ダム寺院の前を通りかかったの。神にも縋る思いで聖堂に足を踏み入れたとき、暗がりにうずくまる黒い影をようやく見つけることができた」

「オーギュは無事に逃げ出せたんだね!」

「――ええ、そうよ。だけど服も髪の毛もあちこちが焼け焦げて、十か二十は老け込んでしまったように見えた。私は彼を自宅へ連れ帰り、急いで手当てをしたわ。だけど、数日が経っても一向に良くならないの。それでようやく気づいたのよ――血が足りないのだって。

 私は彼に私の血を飲むよう勧めたわ。それなのに彼は、嫌だと言って頑なに私の申し出を拒むの。その姿が、殺された仲間たちを追って死のうとしているように思えて……」

 当時の心境を思い出したのか、マリー=アンヌの眉が苦しげに歪んだ。

「そう思ったら気が狂いそうだった。どうにかして彼を生かしたかった。あなたを愛しているからあなたを失ったら生きていけないと泣いて縋ったのよ。あなたが血を飲まないなら私が先に死ぬと、みっともなく脅すような真似までして――」

 マリー=アンヌはカップを手に取り、冷めたカフェ・クレームを静かに啜った。

「それでようやく彼は私の首筋に歯を立てて、ほんの少し血を飲んだの。その瞬間、彼の顔色がすっと元のように戻った」

「そうなんだ……よかった、マリー=アンヌが助けてくれて」

 だがその言葉を聞いたマリー=アンヌは、独り言のようにこうぽつりと呟いた。

「……本当によかったのかしら」

「え……?」

「彼は泣いていたのよ。あなたにこんな真似をしたくはなかった、どうか許してほしいと、まるで懺悔するように繰り返すの。これ以上こんな真似をしたくない、仲間たちと一緒に死ぬべきだった、飛べない仲間を置いてひとりだけ逃げ出した私は裏切り者だって。そのとき心に誓ったのよ。この世界で私だけは彼の味方となり、一生この人を守っていこうと」

「――飛べない、ってどういうこと?」

 おかしいと思っていたのだ。ヴァンピールなら空間を瞬間移動することができる。もし出口を塞がれようと、逃げ出せないわけがない。

「どうやら彼らは街に警察の捜索が入って以来、血を吸っていなかったらしいの。血が足りないと、ヴァンピールは本来の力を発揮できない。見た目の若さも失うわ。だけど仲間の中で運良く彼だけが、たった一度きり空間移動できる力が残っていたそうよ」

「血が足りないと……そうだったんだ。教えてくれてありがとう、マリー=アンヌ」

 いつか主人が血に困ったら、マリー=アンヌみたいに泣きついて、無理やりにでも吸わせてやる。ルネはそう心に誓った。

 これからは自分が主人を守っていかなければ。

 ルネはすっかり忘れていたケーキの残り半分を口に押し込んだ。それをカフェ・クレームで流し込み、わざと明るい笑顔を見せた。

「オーギュはマリー=アンヌに出会えて運がよかった。オーギュがマリー=アンヌを特別大事に思う気持ち、俺にもよくわかるよ。もしマリー=アンヌがオーギュを助けてくれなかったら、俺もオーギュに出会えなかった」

 柔らかな春の風のように、ふふっとマリー=アンヌは笑った。

「ルネ。オーギュストはいま、あなたのことを何より大切に思っているわ。あなたと出会ってからあなたの話ばかりだもの。妬けちゃうくらい」

「他に話題がないんだろ」

 そう言ってルネはおどけたが、マリー=アンヌは真剣に話を続けた。

「あなたはとても頭のいい子だって、いつも自慢げに話してくれるわ。楽しみにしているのよ、あなたがこの世界で輝いてくれるのを。自分のような、闇の中でしか生きられない人生をあなたに送ってほしくないのだわ」

「でも、もし俺がそうしたら――」

(誰がオーギュを守ってやれるんだよ)

 思わず出かかったその言葉を、また喉の奥に押し返した。

「――俺の話はこれでおしまい」

 残りのカフェ・クレームを飲み干し、ルネはぱっと立ち上がった。

「ご馳走さま。またすぐに会いに来るよ。風邪引かないように気をつけて、長生きしてね、マリー=アンヌ」

 その細い肩に手を添え、白い両頬にくちづけをした。マリー=アンヌもルネの頬を撫で、名残惜しそうにその瞳を見つめた。

「ええ、頑張って長生きしなきゃね。あなたが立派になった姿を、この目で見届けないといけないもの」

 そして別れ際、マリー=アンヌは決まってこう言ってルネを送り出す。


 愛してるわ、プティ・プランス。どこにいてもあなたの幸せを願ってる――


 居間を通り抜けると、気難しい顔をしたイザベルとすれ違った。

「もうお帰りですか?」

「うん。カフェ・クレーム美味しかったよ。サン=ジェルマンにカフェでも出してみたら?」

 ルネの冗談にイザベルは思い切り眉をしかめ、苦々しく笑った。

「じゃあ、またね。イザベル」

 ルネはひらひらと手を振り、ふたたび小狐のような速さで屋敷を後にした。




 パンとハムとチーズ、ビスケットとひと房のブドウを買い、ルネはフォーブール・サン=ジェルマンに帰った。日が落ちた頃、主人はのろのろと起き出し、制作途中の肖像画を描きはじめた。ルネは寝巻きに着替え、ブドウを頬張りなが主人の部屋のソファに寝転がっている。

 現在主人が使用している部屋は、もとはマリー=アンヌの寝室だった。壁紙もカーテンも、部屋全体がマリー=アンヌの好きな水色で揃えられ、かつてはこの屋敷の中で最も贅沢で優美な部屋だったという。

 だが残念なことに、いまや見る影もないありさまだ。

 花柄の壁紙はぼろぼろに破れ、床板は踏み出すたびにギシギシと悲鳴を上げる。大きな窓は固く鎧戸を閉め、さらに内側から何重にも打ちつけられた木板が、外の光を頑なに遮断していた。その無粋な見た目を隠すように、古びた厚いカーテンが一日中陰鬱に垂れ下がっている。

 そうして現れたのは、一筋の陽の光の侵入も許さぬ、漆黒の独裁国家だった。その忠実なる僕たる蝋燭の灯りだけが、狭い領内をちらちらと照らしている。闇の皇帝オーギュストの寝台はその寝室のさらに奥、窓のない衣装部屋に置かれていた。

 ここに来て間もない頃、ルネはオーギュストのベッドで共に寝起きをしていた。だが朝日の差さない衣装部屋では、一向に起きることができない。

 そのうちルネは主人に新しいベッドと机を買ってもらい、隣の部屋に移った。

 初めて手に入れた自分の部屋にルネの胸は躍った。毎日きちんと掃除もしているし、壁紙も張り替え、絵やポスターを飾った。いまも相変わらず物は少ないが、パリ万博で買ってもらったエッフェル塔のスノードームや、蚤の市で買ったブリキのオムニビュスなどを窓辺に並べた。

 その窓辺にときどきやってくる野良猫に、ハムの欠片を恵んでやる。こちらは皇帝ルネの独裁国家だ。

 昨晩主人は「食事」を済ませたので、今夜は外出せずに家にいる。主人が愛人らの屋敷に出向くのは、二、三日に一度であり、ヴァンピールにとって食事の頻度はこの程度がふつうらしい。


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