吸血鬼と老婦人(7)
マリー=アンヌはイザベルが下がるのを見届け、もごもごと口を動かすルネにじっと目をやった。
「ヴァンピールになるのは、簡単なことじゃないのよ」
ずばり本心を指摘され、プラムケーキが喉に詰まった。ルネはゴホゴホと胸を叩きながら、涙目でマリー=アンヌを見返した。
「……それも、オーギュに聞いたの?」
「聞かなくてもわかるわ。あなたはオーギュストを崇拝しているから」
「別に崇拝なんてしてない。……オーギュの方が、俺がいないと困ると思って」
マリー=アンヌは小さなため息を吐いた。
「オーギュストだって、なりたくてヴァンピールになったわけじゃないのよ。彼はあなたに、まともな職業に就いてほしいって」
「医者か弁護士だろ。よく言うよ、自分は女の金で暮らしているくせに」
ルネ、とマリー=アンヌが窘めるような低い声を出す。
「あなたがヴァンピールにならなくても、オーギュストとは一緒に――」
「いられないよ」
ばさりと斧を振り落とすように、ルネはその言葉を遮った。
やけくそな気分で、ビスケットを丸ごと口に放り込む。塩気のあるビスケットが舌の上で苦々しくざらついた。
無言のうちに交差する、同じ色をした瞳――
人間はいつか必ず死ぬんだ。ヴァンピールと同じ時間は生きられない。
(マリー=アンヌだってもうじき、オーギュとお別れしなきゃならないくせに)
舌先まで迫り上がった残酷な言葉を、ぐっと喉に呑み込んだ。こんな八つ当たりで大事な人を傷つけるのは間違っている。
「……ごめんね、マリー=アンヌ。心配してくれる気持ちだけはありがたく受け取っておく」
「あらら、説得失敗かしら」
マリー=アンヌは上品に小首を傾げ、諦めの笑みを浮かべた。
ルネは残りのカフェ・クレームを啜りながら、ふと目の前の老夫人の若かりし頃を思い出していた。
以前、社交界にデビューしたばかりのマリー=アンヌの肖像画を見せてもらったことがある。それはかのフランス王妃マリー=アントワネットを彷彿とさせる、可憐と絢爛の色彩に満ちていた。
幾房も縦に巻いた鮮やかなブロンド。水色のチュールと真紅の野薔薇の髪飾り。大きく開いたデコルテ。ふんわりと膨らんだ袖。段をなすスカートの縁飾りとウエストに巻いた太いリボンは、マリー=アンヌの瞳と同じ淡いブルーグレイ。
当時の流行りだったクリノリン(スカートを膨らませるための輪状の骨組みの下着)を内側に入れた純白のドレスは丸くベルのように膨らみ、細く絞ったウエストを引き立てている。
優しく色づいた肌は花の精のようで、夢見がちな大きな瞳が額縁の外を見つめていた。
「ねえ、マリー=アンヌはどうしてずっとオーギュのそばにいるの?」
唐突に問いかけると、マリー=アンヌの頬が薔薇色に染まったように見えた。
「どうしてって……そんなの、理由はひとつしかないわ」
「恋をしているから?」
単刀直入なルネの物言いに面食らい、マリー=アンヌは一瞬言葉を詰まらせた。だがすぐに、それを肯定する少女の恥じらいが目尻に浮かんだ。
「……ええ、そうよ。こんなお婆さんがって思うでしょうけれど」
「思わないよ。マリー=アンヌはいまでも綺麗だもの。お似合いのふたりだと思うよ」
一人前にお世辞も言えるのね、とマリー=アンヌはルネをからかい、ふと薔薇園の方に目をやった。マリー=アンヌの思考がふっと宙に浮き、遠い過去へと軽やかに駆けていくのがわかった。
「――まだ若くて、純情で、向こう見ずだったの。初恋だったのよ。そのときにはもう私には夫がいたのだけれど、本物の恋をしたのは彼が初めてだった。だから――どうしてもあの人を助けたくて、無我夢中だったの」
「助ける?」
ルネが問い返すとマリー=アンヌは、はっとした顔で振り向いた。
「あの人は何も話していないのね?」
「それって、何のこと?」
するとマリー=アンヌは、カフェテーブルの上に身を乗り出した。ここだけの話にしてほしいのだけれど、と前置きをし、長い睫毛を伏せる。
「あの人には〈仲間〉がいたのよ」
「ヴァンピールの?」
マリー=アンヌは頷いた。その水色の瞳に仄暗い影が差す。
「――全員殺されたの」
あらゆる感情を締め出したような虚ろな声だった。
「ただひとり残されたあの人を、私が守ってやらなければと思った。危険を承知であの人を自分の部屋に隠したの。まさかこれほど長い付き合いになるなんて、そのときは思わなかったけれど」
「いったい、何があったの?」
それは、とマリー=アンヌは少し言い淀んだが、すぐに決心したように顔を上げた。
「――私たちが知り合って、少し経ったときのことよ。そのときの私はまだ、彼がヴァンピールであることを知らなかった。きっとあの頃の私は、彼の愛人のひとりに過ぎなかったのでしょうね」
マリー=アンヌの口から主人の愛人の話が出たのは初めてで、ルネは内心ひやりとした。だがマリー=アンヌは、何とも思わない口ぶりで話を続けた。
「その頃、この街で不審死が相次いだことがあったの。どれも失血死で、奇妙なことに首筋にふたつの赤い痣が残っていた。だからもしかするとこれはヴァンピールの仕業なんじゃないかって、冗談のような噂が立ってね。だけど被害者はパリの東の貧民街にたむろしていた浮浪者ばかりだったから、警察もなかなか本格的な捜査に乗り出さなかったの。
ところがある日、また新たな被害者が出たのよ。こんどは浮浪者じゃなかった。たまたま仕事のために貧民街を通りがかった、裕福な商人の男性だったの。それでようやく警察も重い腰を上げて、大掛かりな捜査に乗り出したのよ。パリ中の地下に走っている下水道や、空き家や地下室を手当たり次第に捜索してね。
ちょうど同じ頃、約束の日に彼が現れないことが続いたの。――嫌な予感がしたわ。私は彼がパリの東に住んでいることは知っていたけれど、その家に行ったことは一度もなかった。私には〈仲間〉たちと一緒に暮らしていると言っていたのよ。彼は画家だと名乗っていたから、きっと芸術家の仲間と一緒に住んでいるのだと思っていたの。
居ても立ってもいられず馬車を走らせ、彼が住む地区へ向かったわ。すると街の中が騒然としていてね。見れば街並みの向こうに、轟々と火の手が上がっていて――ある屋敷が炎上していたのよ。
慌てて野次馬のひとりに尋ねると、その人は私にこう言ったわ。あの家はヴァンピールの根城になっていたらしい。逃げられないよう、出口を塞いで火をつけたのだ、と」
初めて知る恐ろしい事実にルネは戦慄した。
「その瞬間に確信したの――やはり彼はヴァンピールだったのだと。思い当たる節はいくらでもあった。彼は決して日の高いうちには姿を見せなかったし、私の前で一度も食事をとらなかった。血を吸われた覚えはなかったのだけれど」
「オーギュはマリー=アンヌの血を吸っていなかったの? それならマリー=アンヌは愛人のひとりなんかじゃないよ」
たまらず口を挟んでしまった。ルネの気遣いを感じたのか、マリー=アンヌは口許にかすかな笑みを浮かべた。