吸血鬼と老婦人(6)
マリー=アンヌの腕の中からカンバスを覗き込んだ。絵の具で描かれた真紅の薔薇の木は、春を歓ぶように満開だった。
「とても上手だね! マリー=アンヌはパリで一番薔薇が似合うよ」
「まぁ、ありがとう。でも何枚描いてもあまり上手にならないの。むかしオーギュストに手ほどきしてもらったのに」
主人の表向きの肩書きはもちろんヴァンピールではない。肖像画家だ。裸婦ばかりを古代神話の女神に模して、幻想的に美麗に描く。その絵は画廊を訪れる上流階級の女性客にとても人気がある。
主人の絵を前にした女性は皆、自分もこんなふうに美しく描いてもらえるのかしらと期待に胸を膨らませる。すると現実離れした美貌の画家がふらりと現れ、女性の耳元にこう囁くのだ――つぎはぜひ、あなたの絵を描かせていただきたい、と。その甘い誘惑を断ることのできる女性は、この街にはいない。
ただし、幸か不幸か主人から甘い誘いをかけられるのは、資産家の未亡人と決まっていた。主人はそれを理由に女性の家に上がり込み、裸になった女と密室で向き合う。その後のことはご想像の通りだ。
そんなふうに美貌の肖像画家と関係を結んだ未亡人がこの街には大勢いる。彼女らは主人の愛人となり、気前の良いパトロンヌとなり、さらにはヴァンピールの腹を満たす高級レストランとなる。
(だけどマリー=アンヌは、主人の振る舞いについて正直どう思っているんだろう)
主人がマリー=アンヌの血を吸わないのは、マリー=アンヌを「餌」にしたくない気持ちからに違いない。だけどマリー=アンヌに頼らず外から金を稼いでくるのはどうしてなのだろうか。
男のプライドからなのか、あるいは男の甲斐性というやつか? 食事だから仕方ないとは言え、他の女とセックスしているのを本当はどう思っているのだろう? マリー=アンヌなら主人のために命も財産も投げ出すだろうに――
(男女の機微なんて、俺にはまだわからないな)
そもそも子どもの自分が口を出すことではないし、ふたりが納得しているなら問題はない。一見奇妙な関係には見えるが、ふたりが互いを想い合っているのは事実なのだから。
マリー=アンヌはしかめ面でこちらの様子を見守っているイザベルに、お茶を用意してちょうだい、と声をかけた。ルネは慌てて背伸びをし、マリー=アンヌの耳許に囁いた。
「カフェ・クレーム、って言って」
ルネの甘えた声を聞き、マリー=アンヌは降参したように肩を竦めた。
「イザベル。やっぱりお茶じゃなくて、カフェ・クレームをお願い」
ルネのお願い通り、立ち去ろうとするイザベルの背中にふたたび声をかける。振り向いたイザベルは、慌てて張りつけた笑顔のせいで顔全体が引き攣っていた。
承知いたしました奥様、とイザベルは低い声で応え、去り際にルネを横目で睨みつけた。
「毒を盛られるかな?」
ルネがおどけると、マリー=アンヌは細い眉尻を下げた。
「大丈夫よ。私のカップと取り替えてあげるから」
くすくすと笑い合い、ふたりはテラスのカフェテーブルに腰を下ろした。
顎の下で両手を組んだマリー=アンヌが、愛しい人に向けるような目で見つめてくる。淡いブルーグレイの瞳が、春の木漏れ日のようにルネを優しく包み込んだ。
「あなたって私の若い頃に本当によく似ているわ。髪の色、瞳の色、鼻の角度まで。もし私に子どもがいたら、きっとあなたみたいな子だったと思うの」
「俺がマリー=アンヌみたいに綺麗なわけがないだろ。片目だし、生粋の孤児院育ちだぜ」
ルネは生後間もなく、孤児院の前に捨てられた。だから親の顔も名前も知らない。
人生の途中で親を失い、あるいは貧困や病やひとり親などを理由に孤児院に預けられた子どもも多い中、そういう意味でルネは「生粋」だった。
「あら、そんなふうに言ってはだめよ。あなたには生まれついた気品と威厳があるし、もしかしたらご両親は立派な方だったのかもしれないわ。あなたが社交界デビューでもすれば、きっとパリ中の貴婦人があなたに夢中になるわよ」
でも、とマリー=アンヌはため息を吐いた。貴族なんてますます没落していく宿命だもの、これからはもっと新しい生き方を探した方がいいわね、とその瞳に寂しさを滲ませた。
一八三〇年、ブルジョワ階級主導による七月王政の成立後、資産の少ない中小貴族の多くが没落していった。その流れにあっても莫大な資産を有するモンテスキュー家は安泰であったが、事実上「貴族制」はフランス革命の時点で消滅しており、爵位はすでに栄誉の称号でしかなかった。
「俺が貴族になんてなれるわけがないよ。そもそもなりたいとも思わない」
「では、他になりたいものがあるの?」
マリー=アンヌはルネの胸の内を探るような視線を向ける。ヴァンピールになりたいとは、さすがのルネも口には出さなかった。
そんな様子のルネを見て、マリー=アンヌは話題を変えた。
「学校のお勉強は順調? 名門校だと大変なことも多いでしょう?」
その問いに、ルネは苦々しい笑みを浮かべた。
貴族やブルジョワの子息ばかりが集まるカルチエ・ラタンのリセで、ルネの成績は悪いものではなかった。それどころかルネは、試験の解答をわざと間違えているくらいなのだ。
片目の孤児であるくせにパリの一等地であるフォーブール・サン=ジェルマンに住み、誰もが知る大貴族モンテスキュー家の推薦状を持って途中入学してきたルネは、入学当初から全学生の好奇の的であった。
それでもはじめの頃は、皆がルネに親切だった。このような異例の扱いは上流貴族の気まぐれの慈善事業であり、孤児院育ちが自分たちのライバルになるはずがないと高を括っていたのだろう。
だがルネが最初の試験で成績上位者の列に食い込んだのを見ると、同級生らは目の色を変えた。同情は敵意へと形を変え、隠されていた嫉妬と侮蔑は明らかな態度として現れるようになった。
それ以来ルネは、毎日のように同級生から誹謗中傷と嫌がらせを受けている。だからこれ以上、下手に目立つ真似をしたくない。
そんなこととはつゆ知らず、主人は毎晩のようにもっと本腰を入れて勉強しろとルネに説教をする。良い成績を収め、バカロレア(高等教育入学資格)を取得し、大学に進学して、医者か弁護士になり、それから――言うことはいつも同じだ。
嫉妬と差別の渦巻く息苦しい世界なんて、これ以上まっぴらごめんだというのに!
ルネは薄いくちびるを尖らせ、ぶらぶらと前後に足を揺らした。
「……どうせオーギュから頼まれたんだろ。真面目に勉強するように言えって」
図星だったようで、こんどはマリー=アンヌが苦笑いを浮かべる。
「ルネ。お勉強は大事だわ。世間があなたを見る目が変わる。あなたは運良く〈新しい〉時代のはじまりに生まれたの。これから先は、たとえ身分などなくともあなた自身が評価されるようになる。自分の人生を良くするのも悪くするのもあなたの努力次第よ」
「俺は別にいまの人生に不満なんてない」
「そうかしら? その可愛いお顔に〈不満たっぷり〉と書いてあるように見えるけど」
そのときイザベルがテラスに戻ってきて、ふたつのティーカップとビスケット、小さなプラムのケーキをテーブルの上に置いた。
「メルシィ、イザベル」
礼を言うルネに、イザベルは高圧的な笑みを返してくる。
ルネはフォークでケーキを二等分し、片方を口の中に押し込んだ。
「美味しい。毒は入ってないみたいだ」