歓びの歌(3)
小声で叫び、慌てて手招きをする。ジャンは大きな身体を申し訳なさそうに縮めながら辿り着き、アンリと軽く掌を打ち合わせた。そしてようやくルネの隣の席につく。
「ごめん、道に迷った!」
「どうしたら迷うんだ! エッフェル塔なんて世界中どこからでも見えるだろ!」
「長年パリを離れていると土地勘が狂うんだよ」
ジャンは子どもの頃と変わらぬ笑顔で、屈託なく笑う。シャツから覗く筋肉質な腕は太陽の色を宿し、またひと回り逞しくなったように見えた。
舞台上のエミリーも遅刻寸前の兄の姿に気づいたようで、にやりとこちらに視線を送った。
こうして、一九二九年のフランス革命記念日を祝う野外コンサートが開幕した。
ベートーヴェン交響曲第九番第四楽章――『歓喜の歌』。
指揮者が大きくタクトを振り上げる。激流のようなオーケストラの前奏。陽の落ちたシャン・ド・マルスに鳴り響き、朗々としたバリトンがそれを引き継いだ。
Freude! (歓びよ!)
Freude! (歓びよ!)
子どもたちの透き通る歌声が、解き放たれた翼のように天へ舞い上がっていく。
「あの子たち、ずいぶん立派になったじゃない。みんな、あんなに堂々として」
ルネの隣でジャンが満面の笑顔を浮かべる。
歓びよ
美しき神々の閃光よ 楽園の乙女よ
我々は炎に酔いしれつつ
天上の神殿へと歩んでいこう
おまえの不思議な力は
時の流れが引き裂くものを ふたたび結び合わせる
おまえの優しい翼に抱かれて
すべての者は兄弟となる
舞い上がる歌声を耳に、目の前にそびえる黄金の塔を仰いだ。
今もときどき思い出す。この塔を初めて目にしたあの晩のこと。それを振り仰ぐ蒼白い横顔。幼い胸に生まれた強い願い――
この人とともに、同じ時を生きていこうと。
その願いは叶わなかった。でも今は、それでよかったのだと心から思える。
いつかまた、出会うことができるだろう。天の翼に抱かれたときに。
誰かにとって 真実の友となる快挙を成し遂げた者
心通い合う伴侶を見つけた者は
歓びの声を合わせよう
そうだ この世界の中でただひとりでも
自分の魂といえるものがあるなら 声を合わせよ
それができない者は 涙を流してこの仲間の輪を去るがいい
エミリーの煌めくようなソプラノが、天上を明るく照らす。
それに重なる子どもたちの歌声が、星々となり天に大きな星座を描く。
淡い群青に染まりはじめたパリの夜空に、あの人の春風のような笑顔が浮かんだ。
見て、マリー=アンヌ。この子らはあなたの強く優しい魂を受け継ぐ子だ。
あなたは惜しみないキスを、抱擁を、私に与え、柔らかな春の日差しのように包み込んでくれた。あなたの残した温もりが、いまでも私を勇気づけてくれる。
生きとし生けるものは皆 自然の胸に抱かれ
その乳房から歓びを口にする
善きものも悪しきものも
自然が与えてくれた 薔薇の小道を辿っている
自然はキスと 大地の恵みを与えてくれる
試練をともにする 友人をも与えてくれるのだ
ならば快楽は虫たちにも与えてやろう
そのとき智天使ケルビムが 神の御前に現れるのだ
暗い街に生まれ、苦しみと孤独とともに育った。いったい何度、人生を投げ出そうと思っただろう。そんな私の手を引き、この世に生きる歓びと楽しさ、太陽の恵みに満ちた世界を教えてくれた大切な友。
魂が悲しみに沈んだとき、掬い上げてくれた大きな掌。溢れるような力強さ。限りない優しさと明るさ。
永遠に忘れないでいようと思う。いつかこの身が朽ち果てようと。
隣にいるアンリの掌を強く握る。アンリが強く握り返す。
「もう泣いてるじゃねーか」
耳許でからかうようにアンリが言う。笑われたって構わない。
その太陽のような笑顔が、いったいどれほど私を温めてくれただろう。
「俺たちのパパ・ルネは、いくつになっても泣き虫だな」
左手をジャンの掌が握った。それを強く握り返す。
強い、太陽の子だ。主人が最後に求めた、目の眩むような太陽の。
神の星々が 天空を駆け巡るように
壮麗な天の軌道をわたるように
進め 兄弟よ
勝利に向かう英雄のように、
歓びに満ちて 自分の道を歩め
オーギュ、この歌が聴こえているかい?
戦いで親をなくし、家をなくした子らが、この世の歓びを歌っているよ。
いま目の前にある光景は、私の、そしてあなたの歩んできた道だ。
あなたは私の魂を救い、そしてあの子たちの魂を救ってくれた。
私をこの世に生かし、自分の足で歩くことを教えてくれた。
その力は受け継がれ、永遠に広がっていくだろう。私がこの世から消え去った後も。
世界中の人々よ 我が抱擁を受けよ
このくちづけを 万人に捧げよう
兄弟よ 星の輝く天空の上には
父なる神がきっといらっしゃるだろう
おまえの不思議な力は ふたたび結び合わせる
時の流れが引き裂くものを
すべての者は兄弟となる
おまえの優しい翼に抱かれて
音楽と歌声が重なり、駆け上る。瞬き、弾け、こぼれ落ちる。
足元が浮き上がる。果てのない夜空へ。月と星々とともに。
あなたと手を繋ぎ、天に満ちる音とともに、歓びと悲しみを引き連れ、
またいつの日か、美しき漆黒をともに泳ごう。
世界中の人々よ 我が抱擁を受けよ
このくちづけを 全世界に!
歓びよ! 歓びよ!
美しき神々の閃光よ! 楽園の乙女よ!
我が抱擁を受けよ!
兄弟よ! 世界中の人々に! くちづけを!
この星空の上には
愛する父がいるに違いない
おまえの不思議な力は
時の流れが引き裂くものを ふたたび結び合わせる
このくちづけを 全世界に!
歓びよ!
美しき 神々の閃光よ!
神々の閃光よ!
パリの夜空に、万雷の拍手と歓声が満ちる。この世の歓びを称え、永久の幸福を願う、星の数ほどの笑顔。
富める者も貧しき者も、老いも若きも、戦いで身体の一部を失った人々も、皆等しくそこにいた。
大観衆とともに、アンリが手を叩き立ち上がる。子どもたちに注がれる大きな称賛。鳴り止まぬ拍手。天からの祝福のように耳を満たしていく。
「素晴らしいね、父さん。世界は歓びで溢れているよ」
この世界を鮮やかに描く大きな掌が、震える私の肩を抱いた。
黄金に輝く塔を、その上に広がる漆黒の夜空を仰ぐ。
あなたがこの世に生まれたことを祝うように、大輪の花火が夜空に咲いた。
鮮やかな火の粉が、瞬き、弾け、こぼれ落ち、この街に光の雨が降る。
オーギュ、そこにいるのだろう?
あなたが私を呼ぶ声。髪を梳く冷たい指先。私を見つめるふたつの蒼い星。
細胞のひとつひとつに、あなたのすべてが染み込んでいる。
どうか私を見ていて。私の手を、ずっと離さないで。
毎朝、毎夜、あなたに語りかける。
ねえ。見えるだろう、オーギュ。
今の私を取り巻く、明るく、優しい世界のすべてが。
この夜に揺れる笑顔の海。強く確かな友の掌。数え切れぬ愛しいものたちの温もり。
無条件に注がれる月と太陽の光。風と海と大地。天上に満ちる歌声。
あらゆるものへのくちづけを。
祝福してくれ、オーギュ。
ここにある世界のすべてが、私が人生で勝ち得た、最愛のものだ。
――漆黒と遊泳 完




