吸血鬼と老婦人(5)
一九〇〇年四月、パリで第五回万国博覧会の幕が開いた。ヴァンピールである主人は当然昼間の外出はできないが、日が沈むと博覧会場の方までルネを連れて行ってくれた。
夜のパリは光の海だった。人々を導くように立ち並ぶ街燈。建物を縁取る電燈の列。目の眩むような光の雨が、その下を行き交う人々の顔に明るく降り注いでいた。
エッフェル塔は、新時代の訪れを祝うように、眩くライトアップされていた。
暗い夜空にぽっかりと浮かぶ、鮮明な光の輪郭――光の塔の先端から二本の金の帯が伸び、舐めるように夜の街を照らしていた。あれは最上階のアーク塔に備えつけられたサーチ・ライトだと、耳元で主人が説明する。
あの夜のことを思い出すたび、心の芯がさざなみ立つような気がする。ルネの目にはあの塔が、声高らかに歓びを歌い上げているように見えたのだ。――パリ市民よ、誰も寝てはならぬ。この新しき夜をともに祝おう、と。
ぽかんと口を開けたまま立ち尽くすルネを見て、主人はかすかな笑みをこぼした。
「そんなにあの塔が気に入ったか? 世間の評判はいまひとつのようだが」
どうして?とルネは首を捻った。
「天国へ伸びる梯子みたいだ」
思ったままを伝えると、主人もハットの縁を押さえながら真っ直ぐに天を仰いだ。
「そうか、あの光の先に天の国があるのだな」
あの夜のパリは、まるで別の星だった。
主人の漆黒の外套に包まれたあのとき、時間も空間も飛び越えて、これまでいた場所とはまったく別の、新しい世界に連れて来られたのかもしれない。
夢見心地のままそう思い、隣に立つ主人を見上げた。闇を押し流す光の洪水の中、その横顔はいっそう白く、畏れと歓びと諦めがないまぜになったような奇妙な笑みをたたえていた。
凱旋門までたどり着くと、ルネはオムニビュスを降りた。これから先はトラムウェイ(蒸気を利用した市内乗合鉄道)に乗り換えることになる。
ルネが車両に乗り込むと、トラムウェイは灰色の煙をもくもくと吐き出し、ため息のような音を吐いた。それが終わると猫の唸りのような音を上げ、のろのろと走りはじめる。
揺れの激しいトラムウェイは乗り心地がいいとは決して言えない。座椅子に座ったルネの身体はぴょこぴょこ愉快に飛び跳ねている。
それを楽しめるのは初めだけ。肉付きの悪いルネの尻には相性の悪い乗り物だった。
気を紛らわそうと、向かいに座った中年紳士に目をやった。たっぷりとした腹の肉が、ゆさゆさと大波のように揺れている。
それを愉快がって眺めていると、ふと紳士と目が合った。紳士は豊かな髭の向こうで気まずげな笑みを浮かべた。
間もなく、左手にブローニュの緑の茂みが見えはじめる。ルネは早めに席を立ち、つぎの発着所でトラムウェイを降りた。
そこから先は、立ち並ぶ大邸宅を右に左に眺めながら十分ほど歩くことになる。この高級住宅街で最も広大な敷地の中に、マリー=アンヌの暮らす邸宅があるのだ。
やがて歩道の先に、蔓草が絡みついたデザインの黄金の表門が現れた。それをくぐり抜け、新緑の並木路を進んでいく。
客人を温かく迎え入れる、前庭の噴水と早咲きの薔薇。その奥にようやくマリー=アンヌの邸宅が姿を表した。
水色の三角屋根の塔を持つ白亜の館――おとぎの国を彷彿とさせる優美で可憐な城館だ。その佇まいは城主であるマリー=アンヌそのものだと、ルネはここに来るたびに思う。
さっそく玄関の呼び鈴を鳴らすと、重厚な扉の向こう側からむっつり顔の中年女性が現れた。女中頭のイザベル夫人である。
伝統と格式を重んじるイザベル夫人は、孤児であるルネが堂々とこの屋敷に出入りすることを好まない。態度が悪い、言葉遣いが汚い、服装がだらしない――来るたびに小言を言われたが、このところ注意するのにも疲れたのか、ただ厳格な視線で威圧してくる。
「こんにちは、イザベル。マリー=アンヌはもう起きてる?」
早速イザベルの眉がぴくりと動いた。
フランス貴族の中でも名門中の名門、モンテスキュー伯爵夫人を、気軽に呼び捨てすることに我慢がならないのだろう。
わかってはいるのだが、ルネはその呼び方を変えなかった。
(だって、マリー=アンヌがそう呼べって言ったんだ!)
イザベルはぎろりとルネを見下ろし、ふん、と鼻を鳴らした。
「……テラスにおいでですよ」
そっぽを向き、そっけなく答えるイザベルと扉との隙間をすり抜け、ルネは小狐のように屋敷の奥へと走っていく。
「こら、走らないっ! ああ、いったい何度言えば――」
不意を突かれたイザベルは、目尻を吊り上げながら慌ててその後を追った。
マリー=アンヌは、薔薇園に張り出した大きなテラスの隅で絵を描いていた。美しい総白髪を上品に結い上げ、水色のリボン飾りのついた麦わら帽をかぶっている。
白い総レースのドレスに羽織った水色のショールはマリー=アンヌお気に入りで、どうやら主人からの贈り物らしい。
カンバスの前で真剣に絵筆を動かしていた背中に向かって、マリー=アンヌ!と大声で呼びかけた。
振り返ったマリー=アンヌは絵筆とパレットを急いでテーブルに置き、ルネに向かって両手を広げた。
「待ち焦がれたわ、プティ・プランス(王子様)! 早くこっちに来てちょうだい」
差し出された腕の中に一直線に飛び込んだ。ふわりとルネを包み込む優しい春の匂い――
マリー=アンヌは嬉しそうに目許を緩め、ルネの額に長いキスをした。
「会いたかったわ、ルネ。見るたびに背が伸びてどんどん立派になるのね」
「育ち盛りだからね。それより体調はどう? オーギュが心配してるんだよ。近ごろマリー=アンヌの元気がないって」
「軽い風邪を引いただけなのに、大騒ぎして困ったこと。お陰さまで絵も描けるくらいには元気ですよ」
マリー=アンヌはルネを安心させるように微笑んだ。
その目尻の皺は深いものの、頬はふっくらと薔薇色に色づき、会うたびに春の女神のようだとルネは思う。