歓びの歌(2)
ルネはパリ言語学学会において印欧祖語の再建に関する画期的な学術論文をいくつか発表し、学者としての最高職であるコレージュ・ド・フランスの正教授の座を得た。またその功績を認められ、先日異例の早さで、母校リセ・ルイ=ル=グランの学長にも就任した。
「よかったのかい? 途中で抜けたらシャネルが機嫌を損ねるんじゃないか?」
そうアンリに尋ねると、相変わらずの白い歯を見せてにやりと笑う。
「仕事より、〈家族〉が優先だろ」
今日のアンリは濃紺のダブルのスーツに臙脂色のネクタイを締め、グレーのホンブルグ(中央にへこみがあるフェルト帽)を被っている。若い頃を遥かに上回る大物の貫禄が全身から滲み出ており、最近生え際に混じりはじめたグレイの髪が、その威厳をなおのこと引き立てていた。
「歩いて行くか? どうせ混むから車だと面倒だろ」
ルネは最近使いはじめた老眼鏡をサイドテーブルに置き、弾みをつけて立ち上がった。
「そうだね。散歩にはちょうどいい距離だし」
ふたりは家を出て、セーヌ川沿いを歩きはじめた。
七月のパリは夜の八時を回っても日が沈まない。だが西の空に傾きはじめた太陽は、石灰岩で造られた白の街並みを淡い茜色に染めはじめていた。
セーヌの河面を渡る夕暮れの風に、もうそれほどの生臭さはなかった。――いや、本当はあの頃のままなのかもしれない。それもわからなくなるほど、この土地の空気に馴染んでしまっている。
「今日はエミリーもソロで歌うんだよな?」
「そうだよ。リュミエールの子たちは、エミリーと同じ舞台で歌えるんだって大興奮だ。エミリーもアンリが見に来てくれるとわかって気合十分だよ」
アンリは目尻の皺を深め、満足げに笑う。
「俺たちのエミリーが、いつの間にかみんなの歌姫になるなんてな。プリマドンナになって世界中の金持ちから求婚が舞い込む前に、やっぱり俺が先に嫁さんにもらおうかな」
「ちょっと、冗談でもやめてくれよ! エミリーが本気にするだろ!」
ルネの慌てぶりを見て、アンリは愉快な笑い声を上げた。
「ところでシャネルとの仲はどうなんだよ? 最近親しくしているみたいじゃないか」
「ああ、それはないな。俺は黒髪の女は趣味じゃない」
だからって、よりによってエミリーを、とルネはぶつぶつ文句を言った。アンリの相変わらずの徹底した金髪碧眼好みには、開いた口が塞がらない。
エミリーがリュミエールの子たちに歌を教えはじめたのは、パリの音楽院に入学して間もない頃だった。戦後すぐに設立したリュミエール孤児院に、ジャンとエミリーはよく手伝いに通った。ふたりは孤児たちをよく可愛がり、ジャンは絵を、エミリーは歌を教えた。
ある年、エミリーが思いつきから孤児たちを集め、小さな聖歌隊を作った。そして孤児院の近所の住民を招き、小さなクリスマスコンサートを開いたのだ。その聖歌隊の評判が思いの外よかったことから、エミリーはそれ以来、週に一、二度、孤児たちに歌を教えるようになった。
こうして出来上がった〈リュミエール少年少女合唱団〉は、数年後パリの市民合唱コンクールで受賞を果たした。それが戦災孤児により作られた合唱団だったことからパリで大きな話題になった。
やがて他の孤児院からも合唱団に加わりたいとの声が出始め、リュミエール少年少女合唱団は、〈パリ・リュミエール合唱団〉という名の、パリを代表する大合唱団と姿を変えた。
そしてついに今年、フランス革命記念日に毎年行われる音楽コンサートへの出演の依頼が合唱団に舞い込んだのだった。
会場であるシャン・ド・マルス公園に近づくにつれ、徐々に人の流れが大きくなっていく。
「こんな大勢の人の前で、あの子たちちゃんと歌えるかな」
「大丈夫だよ。今日はエミリーも一緒に歌うんだから。俺たちは安心して音楽を楽しもうぜ」
話をしている間にエッフェル塔の足元にたどり着いてしまった。用意された客席はすでに大勢の観客で埋まり、がやがやとお祭り騒ぎだ。
設えられた舞台の上ではオーケストラが音合わせをはじめている。その背後には、ライトアップされたエッフェル塔が燦然と観客を見下ろしていた。
「おーい! ルネ!」
突然背後から名前を呼ばれ、ルネは驚いて振り向いた。すると人混みの向こうで、枝のようにひょろ長い腕が大きく手を振っている。
「ゴーシェ先生!」
マクシムの髪はすっかりグレイに染まり、妻と三人の子どもを連れていた。
上から、男の子、女の子、男の子。一番上の子はもう大学生だという。皆、長身の痩せ型でマクシムによく似ている。
「ルネ、今日はリュミエールの子たちが出るんだろう? おめでとう! あと学長就任もおめでとうな!」
自分に頭を下げるルネをマクシムは肘で小突き、すぐに悔しそうに眉尻を下げた。
「あーあ。ついにお前に追い越されたかぁ! 俺もだいぶ健闘したんだけどなぁ」
現在マクシムは、パリの名門校リセ・アンリ・キャトルの教頭だ。マクシムとは職場が変わった後も連絡を取り合っており、ときどき食事に行くこともある。
「じゃあこんど約束通り、極上のブイヤベースをご馳走しますね」
ブイヤベースという言葉に、隣にいたアンリが反応した。
「えっ? 何でブイヤベース? いいな、またプロヴァンスに食いに行こうか?」
アンリの言葉にこんどはマクシムが反応した。
「えっ? 何でプロヴァンス? ――あれ、あなたうちの妻が結婚式でお世話になった、あの伯爵家の! うわぁ、その節はどうも!」
わいわいと会場の隅で騒いでいると、またどこからかルネを呼ぶ声をした。
驚いて振り返ると、飛び跳ねるようにこちらに駆けてくる小柄な中年男性の姿がある。
「――レオ!」
ルイ=ル=グラン時代に親友だった、イタリア人のレオナルドだ。ふたりは互いに両手を大きく広げ、勢いよく抱擁した。
「うわぁ! 本当にレオだ! 信じられない! どうしてパリにいるのさ」
「久しぶりの家族旅行だよ! せっかくだから革命記念日に合わせてさ」
久々の再会に盛り上がるふたりに、レオナルドの妻らしき、すっと背の高い女性と四人の美少女が合流した。
「レオの娘さん? 全員?」
目を丸くするルネに、レオナルドは参ったとでも言いたげに眉尻を下げた。
「そっ。うちは女の子しか生まれなくてさぁ。でも全員妻に似て美人だろ?」
「そうだね、みなさん美人で、背も高くて」
「だから一言余計だって!」
学生の頃のようにふざけあっていると、背後からマクシムが近づいた。
「四人かぁー。あーあ、ルネだけじゃなくレオにも負けるとはなぁ」
「うわぁ、ゴーシェ先生だ! お久しぶりです! あの頃と、全然お変わりありませんね!」
「変わったよ。苦労続きで髪も真っ白じゃねーか!」
まるで学生時代に時間が巻き戻ったようだった。わいわいと互いの近況を報告し合い、またコンサートが終わった後にとしばしの別れを告げた。
ルネとアンリは人混みをかき分け、自分たちの為に用意された最前列の席に腰を下ろした。
ルネの隣に空いているもうひとつの席は、ジャンのための席だ。ジャンはまだ会場に到着していないらしい。ルネはきょろきょろと辺りを見回した。
「ジャンは遅刻かな。鉄道が遅れているのかも」
ふたたび不安げな顔をするルネを見て、アンリが大きく吹き出す。
「お前も少し落ち着けって。開演までまだ少し時間があるし、約束したんだからちゃんと来るよ」
ジャンは三十も過ぎたというに、まったくもっての風来坊だ。貯金が貯まると画材を抱え、すぐに外国へ旅に出てしまう。金が尽きれば現地で仕事を探し、生まれ持った逞しさで、行く先々に知り合いが増える。
最後に届いた絵葉書の消印は、スペインのバルセロナだった。地中海の日差しを浴びる、明るい太陽の国だ。
そのとき司会の男が舞台上に姿を現し、会場から拍手が沸き起こった。トップバッターとなるパリ・リュミエール合唱団の紹介が終わると、舞台袖から合唱団の子どもたちが列をなして入場しはじめる。
今日の子どもたちは、お揃いのブラウスの首元に、青、白、赤のリボンをそれぞれに結んでいた。十歳から、すでに孤児院を巣立った十八歳までの男女、総勢三百名。階段上の雛壇に縦七列に整列すると、それぞれに結んだリボンの色により三色旗がそこに現れた。皆、緊張しているようで表情が硬い。
そのとき、前列に並んだ最年少の子どもたちが舞台を見守るルネの姿に気づき、ぱっと瞳を輝かせた。
「あっ、パパ・ルネだ!」「あそこにルネ院長がいるよ!」「違うよ、院長じゃなくて、もう学長!」「どっちでもいいだろ!」
ルネを指さし、手を振り、小突き合いをはじめている。
そんな無邪気な子どもたちの姿に、会場から失笑が巻き起こった。ルネは小さく手を振り返し、シーシーと人差し指を立てる。
最後に、四人のソリストたちが入場した。舞台袖からエミリーが現れると、一段と大きな拍手が湧き起こる。
今日のエミリーはスパンコールの縫いつけられた水色のロングドレスを身に纏っていた。アンリと相談しながら、この日のために新調したドレスだ。
歩くたび、星の瞬きのような光が会場にこぼれ落ちる。その可憐な姿を見て、アンリが満足げに目を細めた。
「エミリーは本当に美人になったな。よし、ついに今夜念願のプロポーズを――」
「おい! その前に、父親を倒してからいけよ!」
ふたりが睨み合っていると、背の高い青年がぺこぺこと頭を下げながら、人混みを掻き分けこちらに向かってくる。
無造作に結んだ長い黒髪。背中に背負った大きなリュック。カンバスを入れた袋を腕に抱え、その顔はよく日に焼けていた。
「――ジャン!」




