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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
最終章 接吻と祝福
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歓びの歌(1)




 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 Le 14 Juillet 1929


 オーギュ、今日はあなたがヴァンピールになって一四〇年目の記念日だ。毎年数えなくてもいいと思っているだろう? でもね、そうやって数えていると、オーギュに会える日が、また少し近づいている気がするんだよ。

 私もいつの間にやら四十二になったよ。でもこの世界でやることがまだたくさん残っているから、私を迎えに来るのはもう少し待っていてほしいな。

 今日はついに〈リュミエール〉の子たちの晴れ舞台だ。フランス革命記念日である今日、エッフェル塔の下のシャン・ド・マルス公園で毎年行われる野外コンサートに参加することになったんだよ。なんと、あの子たちがベートーヴェンの交響曲第九番『歓喜の歌』を歌うんだ。まだ小さい子もたくさんいるのに、みんなドイツ語の歌詞をしっかり覚えて立派なものだよ。

 私はあのシラーの歌詞が大好きなんだ。まるで私とオーギュの物語のようだからね。エミリーもだいぶ力を入れて教えていたようだから、見に行くのをずっと楽しみにしていたんだ。

 エッフェル塔はいまでも大好きだ。あそこにはオーギュとの思い出がたくさん詰まっているから、目にするたびに足元が浮き上がるような心地がするよ。




 明るい初夏の窓辺で、ルネはその日記帳を閉じた。

 階下に電話のベルが鳴り響く。だがそれは長く続かず、よく通るソプラノがその音を断ち切った。

「アロ? ……あっ、アンリね! いつパリに帰ってきたの? ……えっ、今日? それじゃあ疲れているんじゃない? うん、そう。今夜の九時半からよ、シャン・ド・マルスで……えっ、来てくれるの? わぁ、嬉しい! アンリが来てくれるなら張り切らなくちゃ! ……ええ、八時にお迎えね。じゃあ、パパ・ルネをお願い、ひとりじゃ不安だから。最前列に席を用意しておくわね。……ええ、もちろん、私もよ。大好きよ、アンリ!」

 話し声が途絶えると、こんどはバタバタと階段を駆け上がる足音がする。もう二十五だというのに、いつまで経っても家の中を走り回る癖が抜けない。

 勢いよく部屋の扉が開き、美しいブロンドを縦に巻いたエミリーが顔を出した。

「パパ・ルネ! 今日はアンリが八時に迎えに来てくれるって! ああ、嬉しいわ。アンリはシャネルのショーの準備で来られないだろうと思っていたのに。でもアンリが来てくれるというなら、いつも以上に張り切っちゃうわ」

 そうはしゃぎながら、ふっくらとした頬を薔薇色に染める。

 美しい娘になった。小さい頃から天使のような愛らしさだったが、いまでは春の女神のようだ。

「……ねえ、パパ・ルネ。アンリはいま、新しいお相手はいるのかしら? もしいないなら私、立候補しようかと思うんだけれど」

 エミリーは両手を頬に当て、うっとりと瞳を潤ませる。そんな娘の言葉を聞き、ルネは皺の増えた水色の目を剥いた。

「……何を言ってるんだエミリー! アンリはもう四十後半だぞ! パパよりも年上なんだから!」

「愛に年齢なんて関係ないわよ。それにアンリは若々しくて格好いいし、同じ年頃の男の子よりもずっと魅力的だわ。何といっても大金持ちだしね。フランス中の女性が後釜を狙っているわよ。そもそもアンリは私と結婚してくれるって約束していたのに、他の人とさっさと結婚しちゃうなんて、本当はまだ許してないんだから! 約束はきちんと果たしてもらわないとね」

「そんなの子どもの頃の約束だろ! アンリが私の義理の息子になるなんて、勘弁してくれよ」

 ルネは呆れ返り、ぐったりと背もたれに寄りかかった。

 アンリは三度結婚し、三度離婚した。

 一度目はファッションショーで知り合った金髪碧眼のマヌカン(ファッションモデル)だ。だが生活スタイルが合わないということで、話し合いの末、離婚を決めた。

 二度目は金髪碧眼の米国人デザイナーだった。そのときはアンリの方に他に好きな人ができた。

 三度目は金髪碧眼の美人生物学者だ。ところが先日、ある研究チームのガラパゴス諸島の生態調査に随行することが決まった。いつ帰れるかわからない、永住したくなるかもしれないし、と相手が言い出し、円満に合議離婚をした。

 別れた後も元妻たちとの仲は良好で、さらに三人の元妻たちの仲まですこぶる良いらしい。

 去年のアンリの誕生日には、その三人がサプライズパーティーを開いてくれたのだという。この話を聞いたときには驚愕したが、さすがアンリの選んだ女性たちだと感服した。いつだって世界はアンリを中心に回っている。

 一方のエミリーは、パリの音楽院の声楽科を主席で卒業し、パリ・オペラ座所属のソプラノ歌手としてデビューを果たした。実力もさることながら、その華やかな容貌ゆえ客の人気が高い。プリマドンナになれる日も近いともっぱらの評判だ。

 エミリーは〈リュミエール〉の子たちと最後のリハーサルをするからと、夕方頃には出かけて行った。ひとりになった途端、広い家の中がしんと静まり返る。

 ルネは階段を降り、よく手入れの行き届いた明るい中庭へ出た。ブロンズ製のベンチに腰を下ろし、晴れ渡った空を見上げる。

 あの日主人と別れてから、二十年近くの月日が流れた。そのあいだにフランスは大きな苦難を経験した。

 一九一四年六月二八日、ボスニアの首都サライェヴォを訪問中のオーストリア帝国皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻が、セルビアの民族主義グループの一青年の銃弾により殺害された。これに対し、オーストリア政府はセルビアへ最後通牒を出した。

 当初オーストリアが意図していたのはセルビアとの二国間戦争であったが、バルカン地域における影響力を狙う列強国ロシアとドイツの思惑が入り混じり、ついに八月一日、ドイツはロシアに向け宣戦した。フランスも露仏同盟に従い動員を開始したので、ドイツは三日、フランスにも宣戦をした。これにともない、イギリスも大陸におけるドイツの主導権掌握を阻止するため、ドイツに向け宣戦した。

 こうして瞬く間にLa Grande Guerre(大戦。のちに第一次世界大戦と名づけられる)と呼ばれる世界大戦が、ヨーロッパを中心に勃発した。

 当時ルネは二十七歳、母校であるリセ・ルイ=ル=グランへ移り、修辞級の教授として教鞭を執っていた。ノルマリアン(エコール・ノルマルの在学生および卒業生)は国家公務員と同様の地位であることから、ルネも開戦後まもなく召集を受けた。

 フランスの知的エリート層を代表するノルマリアンも、農民や労働者階級出身の兵士らと区別されることなくつぎつぎに前線へ送られ、熾烈な塹壕線に加わった。

 人類にとって初の総力戦となったこの戦いには、航空機や戦車、機関銃、手榴弾、毒ガスなどの新兵器が投入され、長引く戦線の膠着状態がさらなる惨劇を招いた。その結果、全体で八五五万人の戦死者、七七五万人の行方不明者、二一一九万人の負傷者という未曾有の数字を残すことになる。

 この大戦により、ルネの学友の多くも尊い命を失った。だがルネ自身は、身体部位の欠損を理由に前線へは送られずに済んだ。それ以上にその稀有な多言語能力を認められ、主に検閲、経済封鎖、電信・郵便統制、諜報活動などを行う情報機関へ配属され、通訳官としての任に当たった。短期間だが、敵軍捕虜の尋問や、暗号解読の部署にいたこともある。

 一九一九年六月二八日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間においてドイツが講和条約に署名をしたことで、四年に渡るこの世界大戦は正式に終了した。終戦までにフランスは一四〇万人の戦死者を出し、七六万人の戦災孤児が作り出された。

 終戦後ルネは教職へと復帰し、まもなく戦災孤児を受け入れるための孤児院を学生街であるカルチエ・ラタンの一隅に設立した。その土地と建物は、かつてルネが仮装舞踏会でパリの貴族らから手に入れた「戦利品」を売った金によりまかなったものだ。

 ルネはその孤児院に〈リュミエール(光)〉という名を与えた。孤児院の院長、リセの教授、そしてふたりの子の親という三足のわらじを履き、ルネは休む間もなく目まぐるしい日々を送った。

 リュミエールの子らは、孤児院で健康的な生活を送り、良質な教育を受け、この十年で多くの者がリセや大学へ進学した。その学費や生活費をまかなうため、ルネは孤児院の中に奨学金基金を設立した。

 その基金に多額の出資をしたのは、何とルネのルイ=ル=グラン時代の同級生であるサミュエルであった。サミュエルは父の跡を継ぎ、いまや国内外に名の知れる大絹織物工場の経営者となっていた。

 ルネはサミュエルの元を訪れ、「正式に謝罪をする日が来たぞ」とサミュエルに告げた。サミュエルはルネの設立した奨学金基金に対し、一万フラン(約一千万円)を出資することを約束し、二十年越しに初めて握手を交わした。

 いっそう丸々とした顔に全面降伏の笑みを浮かべ、サミュエルは言った。

「俺の子どもたちには、どんなクラスメイトとも絶対に仲良くしろと念を押しておくよ。これ以上搾り取られたら破産しかねないからな」

 まったくだ、とサミュエルの肩を叩きルネは笑った。クラスメイトの裏の顔は、俺のような悪魔の取り立て屋の可能性もあるからな、と。

 夜の八時前、黒塗りのブガッティが玄関前に停まった。

 アンリは現在、シャン=ゼリゼ北の豪華なアパルトマンにひとりで暮らしている。先日ついに三番目の妻が出て行ってしまったので、その家は引き払い、また大家としてこの屋敷で一緒に暮らそうかなんて言いはじめる始末だ。

 この土地と屋敷を買い取りたいという話は、これまで何度もアンリに持ちかけた。だが、どうにもこうにもアンリが首を縦に振らない。家主じゃないと大きな顔でこの家に出入りできなくなる、というのがアンリの言い分なのだが、家主でなくても大きな顔をすることは目に見えている。

 おそらくアンリも、たくさんの思い出が詰まったこの家を手放すことが惜しいのだろう。

 アンリはまるで我が家に帰宅したかのように、身体に馴染んだ動作で玄関を通り抜けた。そして窓辺でロッキングチェアにもたれドイツ語の論文を読んでいたルネを見つけると、片手を上げて声をかけた。

「よう、()()()()

 アンリは、ルネをからかうようにそう呼んだ。



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