最後の遊泳(3)
「――最初は一緒に寝ていたのに、隣の部屋に移ると言われたときには少しショックだった。それからしばらく、慣れるまで上手く寝つけなかったんだ。お前に会うまではずっとひとりで寝ていたはずなのに」
「嘘だろ……そんな素振り、ちっとも」
「身体から溢れ出すような、お前の体温が好きだった」
「何それ。今になってずいぶんいじらしいことを言うね」
照れ隠しなのか、主人は指先で高い鼻の頭を掻いた。そんな仕草も初めて見る。
「お前と風呂に入るのも好きだったし、抱えて飛ぶのも好きだった。お前がとても楽しそうにするから、私も楽しくて」
初めて出会った夜のように、暗がりから長い指が伸び、優しくルネの髪を梳いた。
「私はこんなふうだから、自分から上手く甘えられない。だからお前が素直に甘えてくれるときは、可愛くて仕方なかった」
急にそんなふうに言われて、カッと顔が熱くなった。可愛いなんて、今まで一度も言われたことがない。
「――可愛いって柄じゃないだろ。クソガキだっだし」
「お前は可愛かったよ。今だって可愛いんだ」
何度も言わなくていいよ、とルネは主人の腹を拳で押しやった。主人は眉尻を下げ、大口を開けて笑い出す。
主人の楽しげな大笑いが、夜の校舎に響き渡った。
そんなふうに笑えるんじゃないか。一緒に暮らしていたのに、知らなかったことばかりだ。
ねえ、オーギュ。一番何が楽しかった?
ずっと楽しかったよ。お前と一緒に暮らしはじめてから。
ねえ、オーギュ。俺がアンリと旅に出たとき、寂しかった?
寂しかったよ。あの一週間、上手く眠れなかった。
本当は、焼きもち焼いていたでしょう?
そりゃあ焼くさ。あいつは私の持たないものを、何でも持っているから。
アンリほどたくさんのものを持っている奴なんて、他に誰もいないよ。
主人は腕を組み、全面降伏の笑みを浮かべる。
あれはいい男だな。自分の持っているものを、何でも惜しみなく与えてしまう。
太陽みたいな奴なんだ。みんなアンリのことが好きだよ。
すると主人は眉間に深い皺を寄せた。
お前は結局、月と太陽のどちらが好きなんだ。
そんなの選べるわけがないよ。比べられるようなものじゃないだろ。
そこはお世辞でも月だと言ってくれよ。最後の晩なんだぞ。
ルネは腹を抱えて笑った。
ねえ、オーギュ。ねえ、オーギュ。
小さな頃のように、腕に纏わりついてその名を呼ぶ。
生まれて初めて手に入れた、優しく冷たい温もり。それが世界のすべてだった。
「ねえ、オーギュ。俺と離れるのがちょっぴり惜しくなったでしょう?」
主人は照れ臭そうに笑い、指で鼻をこすった。
「そうだな、少し寂しいよ」
「俺と離れたら、どうせまた上手く眠れないんじゃない?」
「大丈夫だ。あっちに行けばマリー=アンヌが添い寝をしてくれる」
最低だな、とルネは笑いながら主人の腹に拳を入れる。
「オーギュがこんなに寂しがり屋だなんて知らなかった。もっと早く素直になれば、俺だって甘やかしてやったのに」
すると主人は夜風のように近づき、ルネの耳許に口を寄せた。
「じゃあ遠慮なく、甘えさせてもらおうか」
主人の両腕がルネを引き寄せ、胸に強く抱きしめる。漆黒の外套が、ふたたびふわりと風に舞う。
ムーラン・ルージュの赤い風車を飛び越え、モンマルトルの丘の上まで飛んだ。
爽やかな秋の夜の底に、パリの街並みが遥か彼方まで広がっている。
この街には、これまで生きてきた人生のすべてが詰まっている。暗く辛い記憶も、甘く優しい温もりも――
自分が歩いてきた時間のすべてが。
「この街を愛していた?」
「ああ。光も闇も、すべてを愛していたよ」
身を寄せ合い、その美しい街並みをふたりで眺めた。遠くにエッフェル塔の黒い輪郭が、街を見守るように佇んでいる。
「俺も、愛せるようになった。オーギュに出会ってから」
想いのすべてを明け渡すように、ルネは主人の肩に寄りかかった。
「あんたは俺の、人生のすべてだよ」
主人は声もなく笑い、小さく肩を震わせた。
「ずいぶんと歯の浮くような台詞を言うじゃないか」
「何だって言うよ。最後の晩だからね」
静かに夜が流れていく。
空の瞳のような月が西へ傾き、闇が力を弱めていく。
そしてふたりはエッフェル塔の最上階に足を下ろした。街から吹き上げる風が、主人のオペラ・ケープを膨らませる。
懐かしい。いつかここから、星空を映したような街を見下ろした。
しばらく無言のまま、ふたりはそこに佇んでいた。
パリの東の空が白んでいく。心臓が早鐘を打ちはじめる。
「……ねえ、オーギュ。やっぱり――」
そう言いかけたルネに、主人は静かに首を振った。
夜明けが近い。
漆黒の外套に包まれ、この幸福な国にやって来た。
暴力と絶望の日々を遠く離れ、
美しい、夢幻の国を浮遊していたのだ。
光を失った左の目が、優しい闇の中だけは息を吹き返し、
いつもありありと瞼の裏に映し出した。
蒼白い横顔。黒い睫毛。サファイアの瞳。長い石膏色の指を。
自分の名を呼ぶその声。
ときに優しく、ときに窘めるように。
深いくちづけを交わすように。
耳の奥に根を下ろし、何度でも何度でも、優しく抱きしめてくれる。
ねえ、オーギュ。俺が天に向かうときには、必ず迎えにきてね。
ああ、約束するよ。必ずだ。
ずっと見守っていて。空から俺を見ていて。
ああ、誓うよ。ずっとお前を見ている。
愛してると、言って。
愛しているよ、ルネ。お前は私がこの世界で勝ち得た、最上のものだ。
そのとき、パリの東の果てに光が射した。
ルネ、私の手を握ってくれないか。
愛おしいその指を、両手できつく握りしめる。
世界にまた新しい一日をもたらす、清浄な朝の光。
その光の筋が、握り締めた指を透かした。
眩い光の中、輪郭が結合を解いていく。
漆黒の髪も、蒼白い肌も、細やかな光の粒となり、
朝の粒子の中、涙の中へ流れ、溶け合う。
形を緩めた長い指が、ルネの髪をそよ風のように撫で、
くちびるがくちびるに重なり、霧散する。
ありがとう、ルネ。ずっとお前のそばにいるよ。
最後に聞いたその声が、細胞の隅々に染み込み、同化する。
(――いや、俺はもうずっと前から、あなたにより形作られたものだった)
この世界であなたに見つけられた瞬間から、身体も思考も心臓も、あなたを中心として回るひとつの小さな星だった。
そしてこれからも、ただあなたのために巡る。
愛してる。愛してるよ、オーギュ。
愛してるなんて言葉が、意味をなさなくなるほど。




